Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

α4「ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り」 2013.

2017-03-27 | Exhibition Reviews
 偶然、開催中のアルフォンス・ミュシャの展覧会をTVで見かけ、かつて、観たことのある展覧会の図録をめくってみました。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、西欧で花開いた芸術運動や様式を「アール・ヌーヴォー」と呼ぶそうですが、産業革命による機械化がもたらした画一的な製品群と一線を画し、植物をモチーフにした幾何学的紋様が無限に彩るなか、「こうあってほしい、そうあったらいいのに」といった無意識に秘めた憧れや羨望をイメージとして観るひとに意識させてくれるような気がします。

 でも、開催中の展覧会のテーマはである「スラブ叙事詩」は、故郷チェコにおける幾多の紛争と独立の過程で同胞が遭遇した「こうあってはならない、そうあってはならない」といった眼を覆いたくなるような経験や事実をイメージとして観るひとに意識させてくれるような気がします。

 光ある処、必ず影があり。影ある処、必ず光あり。アルフォンス・ミュシャは、表現技法を越えて、人間の実存に向き合い問いかけ続けたひとりなのかもしれません。

初稿 2017/03/27
校正 2020/11/28
写真「ミュシャ パリの夢 モラヴィアの祈り」図録
期間 2013/03/19~2013/05/07
(東京・森アーツセンターギャラリー)
※大阪府堺市立文化館にもミュシャ・コレクション(常設展)があります

§67「対話する人間」 河合隼雄, 2001.

2017-03-17 | Book Reviews
 アメリカの心理学者メラビアン氏が提唱したコミュニケーションの三要素は言語、聴覚、視覚。解釈の余地が無いメッセージは言語のみでも100%伝達できる一方で、解釈の余地が有るメッセージは言語だけでは7%しか伝達できず、聴覚が38%、視覚が55%を占めるとのこと。

 そもそも、聴覚や視覚で認知された純粋経験を自らの知識や経験に基づき言語として認識して統合する機能と自らの無意識に潜んだ言語では表現することが困難なコンプレックスとしての影を抑制する機能も併せ持つのが「自我」なのかもしれません。そういった「自我」が有るが故に、たとえ親子であっても、決して100%はわかりあえることができないのかもしれません。

 とはいえ、親が子供にとって良かれと意識したメッセージは、親にとって解釈の余地が無いからこそ言語としての指示や命令に他ならず、一方で、親が子供の成長を促そうと意識したメッセージは自らでさえも解釈の余地が有るからこそ、言語だけでなく聴覚や視覚の助けが要るような気がします。

 でも、その場に居合わせて沈黙だけが続いたとしても、その場に居合わせるだけでほんの少しだけわかりあえるのかもしれません。ひょっとしたら、それが配慮や共感への最初の一歩のような気がします。

初稿 2017/03/17
校正 2020/11/19
写真 寄り添う姉と身を寄せる妹
「姉妹」中村晋也 作
撮影 2016/05/23(大阪・御堂筋彫刻ストリート)

§66「影の現象学」 河合隼雄, 1987.

2017-03-11 | Book Reviews
 影ある処、必ず光あり。「オレ様がいないとアンパンマンは活躍できない」と、うそぶくバイキンマン。でも、アンパンマンは決してバイキンマンのとどめを刺さないのは何故でしょうか?

 『影』も自らの無意識に潜むコンプレックスのひとつかもしれません。ただ、そのコンプレックスは自らのまわりに対する劣等感として作用したり、自らの理想像に対する劣等感を克服するように作用すればよいのですが、『影』とはそんな劣等感よりも深い無意識に潜む言葉に出来ないコンプレックスであり、自らが絶対に認めてはならないと意識されるイメージなのかもしれません。

 そんな『影』そのもののイメージがバイキンマンであったり、そんな『影』に自らが支配されないように、そんな『影』を抑制しようとする意識が作用したイメージが、アンパンマンなのかもしれません。

 ひょっとしたら、アンパンマンとバイキンマンは自らに潜む『光』と『影』の暗喩なのかもしれません。光ある処、必ず影あり。だからこそアンパンマンはバイキンマンのとどめを刺せないような気がします。

初稿 2017/03/11
校正 2020/11/20
写真 影ある処、必ず光あり
撮影 2011/05/08(高知・アンパンマンミュージアム)