今日は春彼岸で、ご先祖の供養のために、お墓参りに行きます。
彼岸では花やお供え物などの捧げ物によって、ご先祖に意識を向けて語りかけ
るのですが、そんなご先祖の考えは私たち自身の心の中にあります。
ですから、ご先祖は決して死んでいるわけではないんです、私たち自身の生が
ある限り…。
そして私たちが心の内部に耳を傾けるとき、先祖は私たちにやさしく語りか
けてくれますし、また非難することもあるんです…。
茂木健一郎博士の『クオリア日記』(2007/03/20:『つまり、そこに現出してい
るのは』)に次のような文章があります。
『絵というものは、筆で色をの載せた瞬間に、そのまま止まっているもの
であり、その後は、画家あるいは他の人間が何か手を加えない限りその
ままでいる。
つまり、そこに現出しているのは「死」そのもの。』
絵も先祖の供養の行為そのものなのかもしれません。
私たちはご先祖を心で思うからこそ、その存在を忘れることはないし、それは
自分との対峙の時間として存在します。
日常を生きることは、周囲の世界に常にある種の衝撃を与えますが、その生滅
の繰り返しの中で、私たちは本来の自分の姿を忘れてしまいがちです。
だからこそ、春彼岸などで先祖の望むことを考えようと向き合うことに意味は
あります。
じっくりと耳を傾けると、先祖の心は必死で私たちの中で生きようとしていま
す。そして、それが豊かに広がってくれることを待ち望んでいます。
こうして先祖のお墓は私たちを自分たちの生へと立ち帰らせてくれるんです。
絵もそうです。絵の心象を具体化していきますが、色を塗るという行為の中で、
その心象は生滅の繰り返し…その過程で本来描きたかった世界を忘れてしまう
こともあるでしょう。
その時点では、1つ1つの筆で塗られた色や線の霊は呼び起こされていません。
ただ自分と向き合うことで、心象は必死に訴えかけ、そこで霊は蘇る…。
完成した絵は、そうした生の営みを私たちに見せてくれているのです。
東京に一足先に開花宣言が出されました。生命の躍動はすぐそばにあるのです
ね、耳を傾けていれば…。
彼岸では花やお供え物などの捧げ物によって、ご先祖に意識を向けて語りかけ
るのですが、そんなご先祖の考えは私たち自身の心の中にあります。
ですから、ご先祖は決して死んでいるわけではないんです、私たち自身の生が
ある限り…。
そして私たちが心の内部に耳を傾けるとき、先祖は私たちにやさしく語りか
けてくれますし、また非難することもあるんです…。
茂木健一郎博士の『クオリア日記』(2007/03/20:『つまり、そこに現出してい
るのは』)に次のような文章があります。
『絵というものは、筆で色をの載せた瞬間に、そのまま止まっているもの
であり、その後は、画家あるいは他の人間が何か手を加えない限りその
ままでいる。
つまり、そこに現出しているのは「死」そのもの。』
絵も先祖の供養の行為そのものなのかもしれません。
私たちはご先祖を心で思うからこそ、その存在を忘れることはないし、それは
自分との対峙の時間として存在します。
日常を生きることは、周囲の世界に常にある種の衝撃を与えますが、その生滅
の繰り返しの中で、私たちは本来の自分の姿を忘れてしまいがちです。
だからこそ、春彼岸などで先祖の望むことを考えようと向き合うことに意味は
あります。
じっくりと耳を傾けると、先祖の心は必死で私たちの中で生きようとしていま
す。そして、それが豊かに広がってくれることを待ち望んでいます。
こうして先祖のお墓は私たちを自分たちの生へと立ち帰らせてくれるんです。
絵もそうです。絵の心象を具体化していきますが、色を塗るという行為の中で、
その心象は生滅の繰り返し…その過程で本来描きたかった世界を忘れてしまう
こともあるでしょう。
その時点では、1つ1つの筆で塗られた色や線の霊は呼び起こされていません。
ただ自分と向き合うことで、心象は必死に訴えかけ、そこで霊は蘇る…。
完成した絵は、そうした生の営みを私たちに見せてくれているのです。
東京に一足先に開花宣言が出されました。生命の躍動はすぐそばにあるのです
ね、耳を傾けていれば…。
両親の墓参りなんです。結婚する前に彼女は両親を
亡くしていたんです…。
また私は北海道に修士できたときに、大学時代から
付き合っていた彼女が自殺してしまった過去があり
ます。(正確には自殺したときには別れていたので
すが…ただその自殺の一因は私にもあると思ってい
ます)
さらに北海道で教師として生きていくことを唯一賛
成してくれた祖父が私の晴れ姿を見る直前に亡くな
ったり…と人生の節目節目で常に”死”との出会い
がありました。
私の人生において常に”死”というものとの関わり
があるのですが、それぞれが私を育ててくれました。
その意味で私はそれらの死によって生かされてきた
と思っていますし、だからこそ”死”は私が生きて
いる限り生き続けているんです…。
ブログの方、いつも読んでいただいて感謝です。
その励ましを大切に、書き続けたいと思います。
生と死…について、何かしら語ることもありますが
結局のところ、まだことばにすることができない…
ことが、私の中にもいくつかあります…
人それぞれに、いろいろな想いや出来事や人についての記憶が
意識できたり意識できないままに、存在しているような気がします。
私も、少しずつそのことをことばにしていく時がくるのかもしれませんね…
コロンさまや菫さまの、心のおくのほうからのつぶやきが
私にも聴こえてきたような気がしました…
その想いが、穏やかな響きとなって
あるかもしれないことを信じられる彼岸に届きますことを、
私も遠くから祈っております。
(想うことを
上手にことばにできていなくって、ごめんなさい…)
明けることにしたのは、CAFEで書いた詩にも関係しま
す。
人それぞれ何かしら触れたくない、触れられたくない
過去はあるものでしょう。
それを一人で抱えて込んでしまうのではなく、その背
負ったものを少しでも担いであげたい…。
そして明日という日を、自分の今ある生活、幸せをし
っかりと歩んでほしいという想いがあったからです。
そのためには自分のことを正直に打ち明ける必要があ
ったんです…。
私はそれらの死の事実に愕然とし、仕事も手につか
ず、眼前の生徒の成長を見守ることができない日々が
何年か続きました。
けれど、それを自分なりに消化し、その死を無駄にし
てはならない…と今の生を積極的に生きることを誓っ
たんです。それが私なりの供養だと信じて…。
今でも辛いことはありますが、でもその悼みは忘れて
はならないと思うし、それがあるからこそ今は前へ進
めると思っています。
風待人さんの想うことはしっかりと私に伝わっていま
すのでご安心ください。
そして菫さん、母として自分の子を失った悼みを私は
肩代わりすることはできません。
けれどお互いそれぞれの生をしっかりと歩むことがそ
の死に報いることだと信じ、一日一日をその人たちの
ために生きましょう。