竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

1945年8月13日 バーンズ回答を巡って最高戦争指導会議・閣議が紛糾。

2023年08月13日 | 日本の歴史
令和5年8月13日(日)
お早うございます。
 強い台風7号は、15日(火)に紀伊半島に上陸する可能性が高くなってきました。
海上ではすでに影響がでていますが、あす14日(月)からは雨や風が強まってくるでしょう。
出来るだけ、きょうのうちに台風への備えを済ませるようにしてください。

<78年前の1945年8月13日、終戦まで後2日>
 この日の閣議は2回行われ、午前9時から行われた日本政府と軍の最高戦争指導会議では、「国体護持について再照会の返答」をめぐり再度議論が紛糾したが、これに先立つ午前2時に駐スウェーデン公使岡本季正から「バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものである」という報告が到着し、2回目にはポツダム宣言の即時受諾が優勢となった。
 しかし1日以上経っても、「バーンズ回答」に対しての日本政府からの「正式な回答」がなかったため、連合国とアメリカ政府、連合国軍とアメリカ軍では「日本のポツダム宣言受諾への回答が遅い」、「ポツダム宣言受諾に対して、政府と軍部でからの停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむ連合国軍が、アメリカ軍を通じて東京に早期の申し入れと、連合国からの正式な返答である「バーンズ回答」を記したビラを散布している。
 さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉や小田原、熊谷や土崎などへの空襲や、南樺太および千島列島、満洲国への地上戦も行われた。

<1945年8月13日はこんな日だった。>
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