竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

戊辰戦争 其の三 (甲州勝沼の戦い)

2017年01月06日 | 日本の歴史
<過去の掲載>
・鳥羽・伏見の戦い 2014年01月03日
・戊辰戦争 其の一 2015年09月26日
・戊辰戦争 其の二 2016年01月04日

 甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。

錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』

 新選組は京都守護職指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。

新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった。


近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を空費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。

近藤勇

一方。同年正月には甲府城へ公家の高松実村を総帥とした「官軍鎮撫隊」が入城した。高松隊は高松を中心に伊豆国出身の宮大工・彫刻師である小沢一仙らを加えた草莽諸隊で、甲斐で年貢減免などの政策を約束しつつ甲府城へ入城したが、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない高松隊への帰国命令が発せられ、小沢一仙は処刑された(偽勅使事件)。

同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。甲府城内の勤番士は立退きを命じられ、後に官軍は甲府市中に残った勤番士を場内に戻し、近藤派に属したものは入牢させた。

甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまったという。近藤は会津藩の兵がこちらへ向かっているといい、なんとか脱走を防いだ。土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊に援助を頼むが黙殺される。

3月6日、山梨郡一町田中村・歌田(山梨市一町田中・歌田)において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。のち、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。会津の援軍が虚報だとわかると、近藤、永倉新八、原田左之助らの説得も空しく、兵は逃亡した。甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、江戸へ敗走した。近藤らはその途中土方と合流した。

 こうして甲陽鎮撫隊を撃破した新政府軍は一部を残敵掃討の為に残した以外は甲府城に帰還し、甲陽鎮撫隊と連携しようとした柴田達旧幕臣60余名を尋問の末に柴田・保々等を斬刑に処し、その首を城下に晒す事により天領の甲府の市民に、甲府が新政府軍の占領下に置かれた事を知らせたのです。
 一方敗れた甲陽鎮撫隊ですが、結局組織が立ち直ることは無く、敗走の末に瓦解します。それでも近藤は新政府軍と戦う事は諦めずに土方と共に新選組を再発足させますが、流山の地で新選組の立て直し中に本陣を東山道軍に包囲された為投降し、遂に四月二十五日板橋の地にて斬首されるのです。

甲府城の新政府軍はその後江戸へ向かい、江戸城の無血開城と上野戦争で江戸を確保し、戊辰戦争の戦場は関東北部の宇都宮やより北の会津、越後へと移った。甲府城ではその後も次々と諸藩の藩兵が入城・滞在したため、応対に忙殺された。

近藤勇の像


柏尾古戦場の案内


板垣退助
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 議員心得箇条 条文三 【リー... | トップ | 万里の長城 相楽地区 設置開始 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本の歴史」カテゴリの最新記事