たろうくん(太郎)のつぶやき

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11月29日(木)のつぶやき その3

2018-11-30 02:47:09 | 

11月29日(木)のつぶやき その2

2018-11-30 02:47:08 | 

11月29日(木)のつぶやき その1

2018-11-30 02:47:07 | 

今日の日記帳

2018-11-29 10:52:07 | 日記
今日の日記帳

大石氏の家紋 銀杏の双葉(一うのは二葉)

短歌
枯れかけた 銀杏二葉 拾えりゃ 古の武家 大石氏也

河越合戦における敗戦をきっかけとして、大石氏は後北条氏の軍門に降り氏康の二男氏照を養子に迎えて滝山城を譲り、自らは戸倉に蟄居したのである。以後、大石氏は後北条氏の麾下に組み込まれることになった。すなわち、大石氏は上杉氏の重臣時代以来の権力基盤をそのままに、後北条氏の支配に奉仕する存在となったのである。しかし、永禄三年(1560)上杉憲政を擁して関東に出陣してきた長尾景虎の陣営に大石石見守が加わっている。このとき、景虎が記録させた『関東幕注文』には、岩付衆に把握され「一てうのは二葉」を幕紋としていたことがみえている。この石見守は庶流大石氏で嫡流と袂を分かち、太田氏らと結んで後北条氏に抵抗していたようだ。
 結局のところ、大石氏は自立した戦国大名になりえなかった。これは、大石氏の経済基盤が関東管領上杉氏を通して任された鎌倉公方の料所であったようで、これを基盤に独自の領域支配を展開するまでには至らなかった。また、軍事的基盤としての、南武州一揆の支配についても、同時代の戦国大名がさかんに試みていた国人の直属家臣団化を実現できなかったことに求められよう。後北条氏に属した大石定久の一族からは氏照の奉行人となり、下総国関宿城代となったもの、伊豆国獅子浜城を守ったものなどがいる。
 ところで、戸倉城に隠居した定久は、その十年後に自刃して果てたという。しかし、これは大石氏の事蹟が後北条氏によって塗替えられていくのを惜しんだ人々が、定久を悲劇の主人公に仕立て上げた作り話であり、定久は戸倉城にあって天寿を全うしたものと思われる。とはいえ、定久の政治的立場は、後北条氏に降り名跡を養子氏照に譲った時点で終わったといえよう。戦国乱世に身をおいた定久の晩年は、時代の激動とは別に静かなものではなかっただろうか。
 大石氏の名跡を継いだ氏照は、大石姓を名乗ったこともあるが、普通、北条陸奥守氏照で通っている。初め滝山城主であったが、のちに八王子城主となり、さらに天正年間からは下野国栗橋城主をも兼ね、後北条氏の北関東制圧における司令官的立場として活躍した。天正十八年(1590)の小田原城開城ののち、兄北条氏政とともに切腹して生涯を終えた。後北条氏没落後の大石氏は、定久の実子定仲と養子定勝が、八王子千人同心として大久保長安に仕え、以後同地に土着したという。

【参考資料:福生市史/所沢市史/大石氏の研究/蜂矢敬啓氏の文章(歴史と旅-第23巻9号) ほか】一部分(引用させて頂きました)

清水中世史研究所 祭主 清水太郎(平成30年11月29日(木)

11月28日(水)のつぶやき

2018-11-29 02:46:05 |