社会不適合者エスティのブログ

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開拓地を買いたくない

2017年04月09日 | 意見やその日の感想
【教養は日常生活の中で自然に身につくものである】
僕は昔から教養という言葉が大嫌いで特に学校の勉強なんかも、
教養だからという理由でやらされていましたが何の役にも立ってません。
もちろん教養自体は大事ではありますがそれは学校へ行っていれば、
習得できるものではなく日常生活の中で自然に身についていくものです。
それは遊びの中だったり夢中になって物事に取り組んでいる時、
教養は気がつけば身についているものであって誰かに強制されて、
習得するものではないのですが学校では当たり前のように強制的に、
偽物の教養を習得させられており僕に言わせればそれは本物じゃない。
だいたい学校へ行かなかったら教養が身につかないのであれば、
江戸時代以前の人々には全く教養がなかった事になるがそれは違う。

【むしろ義務教育の仕組みが子供の教養を阻害している】
強制的に勉強させられ集団行動をして協調性を身につけたとしても、
それは大人たちにとって都合の良い洗脳であり断じて教養ではない。
学校による洗脳で周りに合わせて上司に服従する奴隷なんてどう見ても、
教養があるとは思えないしよくピアノができる人なんかが教養あるという、
イメージで語られるが趣味でやっているだけかもしれないしもしくは、
仕事でやっているだけかもしれないのに教養などという幻想のためだけに、
ピアノをやっていると思っている人が多いのがアホらしいしピアノが好きで、
夢中になる過程でピアノが上手くなって作法が身についたのであれば、
その人は間違いなく教養のある人だと思うがそれは意図的な教養ではなく、
自然に身についた教養だからこれだと全く教養の意味合いが異なる。

【好きな事をしている人が1番教養があると思う】
話をまとめると教養は勉強の強要によって習得するものではなく、
日常生活もしくはやりたい事に夢中になる過程で身についていくものだ。
ピアノができるから教養があるのではなくピアノに夢中になる過程で、
自然に技術と作法を身につけているからこそ教養があるのである。
強制的にピアノをやらされている人を何度か見たことがあるがそこには、
教養というものが全く感じられなかったし教養ではなく特技である。
そして皮肉な事に学歴を重ねるほど本当の意味での教養が損なわれていく。
彼らが勉強を強制され持っているのは教養ではなく強迫観念だからだ。
好きでもない勉強や習い事は子供から好きな事に夢中になる機会を奪う。
これは長い目で見れば大きな社会的損失だし今すぐ止めるべきだ。

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