Share the Wind 

2014年に小学校を建設。
家族がともに暮らせ、夢を持ち歩める環境へ。

リエンポン小学校、建設から10年。

2024年04月28日 | 学校建設に向け

久々の更新になります。

こちらでは Share the Wind の活動を含め、私個人の状況も書こうと思います。

最後のブログの投稿が2020年9月。
記事を読み返すと、当時の記憶が鮮明に蘇ってきます。
その1つ1つが私のとってはかけがえのない、大切な思い出であり、ここまで歩んできた証でもあります。

4月でカンボジアでの生活も丸9年となりました。
リエンポン小学校を建設してからは10年が経ちました。
(初めてのリエンポン村訪問)

大学を卒業後、親の反対を押切り、バッグパックを背負い、なけなしのお金を片手に意気揚々とカンボジアに来ました。

大きな選択や小さな選択。
様々な場面でその選択をし、今に至ります。 
辛くしんどい時に、あの時あの選択をしていれば、、、とふと思うこともちろんあります。

小さかった子どもたちが今では立派な親になり、その子どもたちが幼稚園に通い始めています。
リエンポン小学校を卒業した子たちが高校、大学進学に向けて一生懸命勉強を頑張っています。
こんなに嬉しいことはありません。

私の誇りです。


(現在)

思い返すと私はいただいてばかりです。

村からは人として何が大切かを学び、心の居場所をもらいました。
ご支援してくださる皆様からは大切なお金をいただいています。
本当に感謝しております。


(幼稚園)

少し、ここ数年のことを振り返りたいと思います。

コロナ禍、教育・女性の就労支援として製作していた商品は売れず、村への訪問者も途絶え、カンボジア現地での収入がゼロになりました。
観光で賑わっていたシェムリアップは静寂に包まれ、活気を失っていました。
この状況はもちろん当団体やこの街に限ったことではありません。

団体や個人の貯金が減っていく中で、活動を撤退するか一時的にストップするか選択に迫られていました。
スタッフや村で働いているみんなには、しばらく給料を減額させて欲しいと頼みました。出稼ぎ先から戻ってきた母親、これから出稼ぎに行こうと思っていた女性たち。教育には家族の基盤が必要だと考え、どうにか母親と子どもが一緒に村で暮らせるような仕組みを作れないかと、就労支援を始めました。

給与の減額、そしてもし減額しても払えなくなったら、みんなや子どもたちはどうなってしまうのだろう。

当時の私は良くか悪くか一方的な考えをし、勝手に重圧を感じていました。
そして、今になって、支援とはものすごく繊細なことだと思うことがあります。

減額を頼んだときは、みな少し不安を見せながらも最後は一緒に頑張ろうと、 私を励ましてくれました。


1人でくよくよしていても仕方がない、とにかく動こう。
そこで、僅かでもどうにか収入を生み出そうと、2019年にNGOで購入していた田んぼで農業の開始を決意。
多くの方々にご協力いただいて、田んぼを畑に変え、塀を設置。

素人が農業に、、、、。そんな言葉が常に脳裏を巡りながらも、前を見続けました。

2020年の夏に本格的に指導。
試行錯誤の中、勉強。やるしかない。
様々な農家へ訪問し、真似し、改善し、試す。

ご支援いただいた皆様には申し訳ないほどにゆっくりですが、
現在は少しずつ利益も出始め、農業や養鶏にかかる費用や給与の一部をまかなえるようになってきました。


2021 年 12 月から翌年 5 月まで私は 2 年ぶりに日本に一時帰国していました。
農業を始めてもなお、継続するか一時的に活動をストップするかを決めかねていました。

久々の家族との再会。
2週間の隔離を終え、友人やお世話になった方々と再会。

そんな日々の中で日本もどこか活気がなく、疲弊していることを感じていました。
 
心を休ませながら、Share the Windや自身の過去、これからを考える日々。

20 歳で団体を設立し、大学卒業ともにカンボジアへ移住。コロナ禍の当時、帰国した私は29歳。
30歳を目の前にして、” どう生きていくか ” も考えていました。

10 年間、色々ありながらもリエンポン村という 1 つの場所で活動を続けてきました。 
日本での滞在中は講演会や一時的に正社員として雇用していただき仕事をしながら、どうにか活動の運営費や給与を集めていました。

日本で働いてカンボジアにお金を送るか、一時的に活動をストップするか。
様々な選択の中で、迷い、もやもやする日々。

周りの同世代の友人たちと自分を比べると不安になることも幾度とありました。

日本に居ればいるほど、気持ちは焦りながらも、友人や家族と過ごす時間が心地よくなっていました。
私はカンボジアでの活動を考えることから避けていたのかもしれません。しかし、 いつかは決断をしなければならない。
 
Share the Windの活動を続けながら、自分自身がカンボジアで生活していくためにはどうすれば良いのか。
私はカンボジアでの活動や経験を除いたら何もありません。

そんな時に、プノンペンのある企業で働かないかと声をかけていただきました。
私自身も興味がある分野で、前向きに検討し、企業からも来ていただきたいと連絡を貰いました。

活動の継続、運営費、給与、そして何よりも自分がカンボジアで暮らすために。
私自身が好きで始めた活動。
最後まで自分で責任を持って全うしよう。それが何度考えてもたどり着く答えでした。

もちろん、シェムリアップから離れることに後ろ髪を引かれていました。
しかし、働くことを決め、シェムリアップへ戻り、村で働くみんなに伝えました。

「これまであなたには多くのことをして貰ってきた。もちろんあなたの決断を尊重する」
そうみんなから言って貰えました。

シェムリアップのアパートを片付け、2022年6 月にプノンペンに引っ越しました。

シェムリアップからしたら、プノンペンは大都会。
知り合いもいなく、右も左も分からない中、びくびくしながら新たな生活が始まりました。

そしてもう2年が経とうとしています。
この2年間は週末や休日にリエンポン村に行き活動をする生活を続けています。
 
シェムリアップに住み、村にいつでも行ける状況では無くなってしまいました。

農業や縫製は確かに私が常に居た時に比べればスピードも遅く、停滞していることもあります。
このような報告や日々の活動報告も遅れてしまい、ご支援いただいている皆様には本当に申し訳ないと思っております。

しかし、私の軸はいつでも Share the Wind の活動が基点となっています。
活動ではカンボジア人のマネジャーは常に私に村の現状を報告してくれているので、その点では安心しています。
現在、今までマネージャーとして活躍していたスタッフを代表へとポジションを変更する予定です。


私が2年間、現場から離れ気づいたこと得たことももちろんあります。
そして何よりも私はリエンポン村、そこに住むみんなが大好きなんだと、改めて気づかされました。

昔のように子どもたちと触れ合う時間は少なくなってしまいました。
それでも幼稚園生や低学年の子どもたちが、「りゅうた、りゅうた」と名前を呼んで寄ってきます。
それに嬉しさととともにどこか寂しさも感じています。

私はどこまでもこの村と団体の代表ではなく、‘りゅうた’として関わっていくのだろうと思っています。

支援の難しさをコロナを機に感じています。
繊細さや依存性、自分の都合になっていないか.....。
だからこそ、今まで以上に気を配り活動をしています。
私は一歩引いた形で、働いているみんながより主体的に物事を考え、実現させていける活動を目指します。

これからもゆっくりですが、各活動は続けていきます。
そして、また私ができる範囲でアンコールワット の遠足や言語学習などを再開していきたいと思っています。

このように皆様へ活動の報告が遅れてしまった中でも、寄付のご支援をいただいております。
本当にありがとうございます。すべてを活動費へ使わせていただいております。
そして、少しずつでもしっかり報告をしようと反省しております。

こんな私ですが、
これからも Share the Wind のことを温かく見守っていただければ嬉しいです。

読んでくださりありがとうございました。

内田隆太



スタッフの気持ち

2020年09月23日 | 活動状況

先日は縫製スタッフがシェムリアップ市内に生地を買いに来ました。

縫製の子たちは村から離れた縫製屋で勉強をしているので、彼女たちの話を
ゆっくり聞く機会でもありました。




–   村やスタッフの存在 –  

一番長いスタッフが現在、縫製の勉強をしていている子で2016年8月から雇用をしています。
母親達も雇用してから2年ほどが経ちます。

前回のブログにも書きましたが、今年の4月から4年ほど続けて来たバッグ作りを中断しました。
この先、再開するかも今は未定です。

そして同時期にみんなで話し合い、農業へと着手することに決めました。
若いスタッフ達は縫製、母親達は農業。

農業に決めるまでは葛藤の毎日でした。
それは僕自身が経験のない分野であること、その中で運営をしながら
母親達の自立を目指し、しっかり子どもたちへ繋げていけるかという不安。

しかし、最後に背中を押してくれたのは
母親達の「一緒に頑張ろう」と笑顔で言ってくれたその一言でした。

可笑しな話かもしれません。
母親達の就労支援としてあったバッグ作り、そして今回始めた農業。
本来であれば、NGOとして僕が彼女達を引っ張っていくはずが、
今は僕が彼女達に励まされています。

NGOの活動ではありますが、1人の人間として彼女達は僕の大切な友人でもあります。
それは彼女達に限らず、子ども達や親みんなです。

支援をする際にはその距離感に確かに悩むことは多々ありますが、
自分を、そして日本人を受け入れてくれた村人は僕にとってかけがえのない存在です。

ともに笑い、喜び合い、泣き、時には怒り喧嘩し、
多くの時間と心を共有してきました。

–   変化 –
農業を開始しようと決意してから今日までは本当に毎日が瞬く間に過ぎていきました。
”自分次第”そう自分に言い聞かせながら毎日を過ごしていました。

6月にFacebookで寄付を募らせていただいてから
日々、自宅で今後の予定を立てながら、農業の知識を深めていき、
同時に今後の運営資金の確保もあり、村へ通う回数は減っていきました。

スタッフ達には団体の状況も嘘偽りなく全て伝えています。
団体の役割や今後の方向性、そして現在の金銭的な状況。

みんなそれを理解してくれた上で今も働いています。





–   スタッフの気持ち –
そんなスタッフたちが誕生日を祝ってくれた日、そしてその後にも、
何度か僕に胸の内を話してくれました。

’’隆太は私たちの気持ちをわかっていない”

その言葉を聞いた時僕は、言葉を失いました。
しかしそれは彼女達が勇気を持って自分へ言ってくれた一言でした。

僕はそれまで、スタッフやその家族の生活、将来のことを考え
より良い仕事の環境をつくっていくことだけを考えてきました。
1つ1つの言葉やサポート、渡す給料の額など。

もちろん当たり前のことではありますが、
1人で抱え込むには限界があり、いっぱいいっぱいの僕の表情や態度はどんな繕おうが
彼女達には見透かされていました。
活動に支障のないクメール語は話せますが、それ以上にスタッフ達や村人、子ども達は
僕たちの表情を見て判断しています。

そしてスタッフ達に言われました。
ーーーーーーーーーーーーー
私たちは隆太が大変な姿は見たくない。私たちのためにいつもありがとう。
でも心から楽しんでいる姿を見たいんだ。

あなたがいない時、みんなで話している。私たちはもっと何ができるか。
どうすればあなたが少しでも楽になれるか。
みんなバッグづくり、そして今の農業もそうだけどあなたが頑張っていること、苦労していることもを知っている。農業だって難しいし、お金になるのはまだまだ時間もかかるし、大変だと思う。だけど私たちは、先の自立や家族、子どものためにこれからも一緒に頑張っていきたいと思っている。給料だってもう少しカットしても大丈夫。節約もするし(笑)。

今はお金がなくて大変なのはみんな知っている。
カンボジア国内だったら、仕事が少なくなったら給料は当然のように少なくなる。
あなたの思いは十分に私たちに伝わっているよ。

だからもっと笑顔で。
今はみんなで助け合って乗り越えていこう。

私たちの気持ちわかった?
ーーーーーーーーーーーーー
そんな言葉を母親達から貰いました。

そして妊娠中の縫製スタッフにも、涙を浮かべながら言われました。

私は妊娠中で、今はなかなか仕事も出来ない。旦那はプノンペンに働きに行ってしまったし。
体調も波があるし、あまり働けない中給料を貰うのは心苦しい。
私は縫製の技術を身につけて、村の近くで売りたい夢がある。
けれども、今はあまり働けないし、子どもが生まれてもすぐには仕事に就けない。
申し訳ないから一度は辞めようとも思った。だけども、縫製の仕事がしたい。

縫製の子達にはまずは技術をつけてから、家庭を持ちなさい。とは言い続けていましたが
農村部の生活は金銭的なこともあり実際そういう訳にもいきません。
彼女の場合は兄弟のぞれぞれが違うお父さんで、母親も少しいい加減なので、より一層、
彼女自身の中でも葛藤はあったように思います。

スタッフ1人の夢、仕事を辞めて貰うのは正直簡単なことです。
彼女の人生、最終的に決めるのは本人です。
しかし、団体としてそして一個人として、僕にはそれが出来ませんでした。
多くの方に支えていただいている中で、甘い考えかもしれません。
運営は先が見えず、厳しい状況にありますが、何年先か彼女の夢が叶った時、
きっとその時何倍もの可能性が村や子ども達に広がっていくと思っています。
なにより彼女の子どもが小学校に入りしっかり勉強することが一番です。

母親の言葉。そして妊娠中の彼女、ほかの縫製のスタッフ達の言葉。
これまでの活動と自身を振り返る時でもありました。
そして今だからこそ、これからのために皆んなと改めてしっかりとした基礎づくり、
組織づくりをしていこう感じました。
嬉しい言葉でした。
そんなみんなの言葉が僕の迷いを消し去ってくれました。

–   今 –
スタッフ達の胸の内を聞いてから、僕もどこか肩の力が抜け楽になれているような気はします。
そしてより一層彼女達を信じ、今も市内の自宅で作業を進めています。
彼女達もスッキリした表情で今できる仕事に取り組み、僕が村へ行った際はいつも以上の笑顔で色々と報告をしてきます。
毎朝届く、スタッフや野菜の報告メールに微笑みながら1日の始まりを迎えています。
同時に1日も早く、村に住みながらともに農作業が出来るよう、頑張ろうと自分を奮い立たせています。

農業や縫製、そして日本でのバッグ商品の販売や広報、HP関係、組織づくりなど
今まで活動を応援してくださった方やその周りのご友人達が団体の継続や現地のために
それぞれアイディアを用いて協力してくださっています。
本当に有難い1日1日を過ごし、皆様に温かい励ましをいただいています。


–【ご支援のお願い】 −

現在、春先までにかかる就労支援費(農業・縫製)と運営費、
100万円を皆様にお願いをさせていただいております。

Facebookやメールを通して、これまで活動にご協力してくださった方や村にお越しいただいた方、商品をご購入頂いた皆様へご連絡をさせていただいております。

現在、22万円のご寄付をいただいておりますが、
活動を継続していくにはまだ足りない状況です。

日本での仕事にも影響が出ている中、重ねてのお願いで大変心苦しいですが
どうかご協力いただけますよう、心よりお願い申し上げます。

スタッフ達の言葉、その思いを大切にこれからも活動を続けていきます。
まずは、現在のスタッフ達の自立と育成を優先し、村の生活収入の向上や教育に対して残せる仕事と仕組みをNGOとして作っていきます。
まだまだ時間はかかる活動ですが、今を乗り切り未来へと繋げていくために
ご協力よろしくお願いいたします。

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ゆうちょ銀行
「口座名」シェア ザ ウィンド(Share the Wind)
「店名」〇二八(読み:ゼロ二ハチ)
「店番」028
「口座番号」4057842

クレジット決済(1万円から)はこちらよりお願いいたします。
http://share-the-wind.sunnyday.jp/donation-credit/

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Share the Wind
内田隆太


































  













活動を応援してくださる皆様へ

2020年09月20日 | 活動状況
今年もカンボジアで28歳の誕生日を迎えました。
誕生日にはよくこれまでのことを振り返ります。

長いですが、読んでいただければ幸いです。


初めてカンボジアを訪れたのは、大学2年生の20歳の誕生日でした。
2014年1月にリエンポン村に小学校を建設し、大学卒業後に半年間だけ小学校の様子を見守ろうと思い、気がつけばカンボジアに来てから5年の月日が経っていました。



–   村の小学校 −
当時の僕は、”小学校があれば子どもたちは勉強を受けることが出来る”
と安易に思い込んでいました。

しかし実際、教育は村人の生活から程遠い先にありました。

小学校があっても勉強を受けれない、途中で辞めてしまう生徒がいました。
その理由を把握するために、最初は翻訳本を片手にぎこちないクメール語で1軒1軒の家庭に対して
親の事情や生活の背景を聞いてまわりました。
教師と生徒1人1人の話を聞きました。


村を知るために空き家を借りて住み、夜遅くまで各家庭の親達と
お酒を片手に語り合いました。




その日々の中で、教育や生活に対しての村人の考え方が見えてきました。

知れば知るほど、聞けば聞くほど自分がこの先どう村や小学校に関わっていけばいいのかを
悩み、ただ茫然と外から眺めていることしか出来ませんでした。

–   模索の日々 −
それでも教師は増え、今まで通えていなかった子も入学し
生徒たちの人数は少しずつ増えていきました。

草木が生い茂る土地をみなで開拓し花壇や畑をつくり、
生徒たちを自国の象徴であるアンコールワットに連れて行き、多言語が交わる中で世界の広さを知ってもらいたく社会科見学を実施。
親と小学校の距離を縮めるためにイベントを開催。







模索する日々の中で、親や生徒、教師の話を聞きながら
1つ1つ思いつくこと試していきました。

最初の頃に親が言った”勉強は時間がかかる。未来より今の生活。”
何をしてもこの言葉が重くのしかかっていました。

今、小学校に通えている生徒だけでいいのか。
昨日まで通っていた子が突然、教室からいなくなり小学校を辞め働きにいく。
生徒たちの人数は増えながらも、辞めたり村からいなくなる子も多くいました。
団体としてサポートし、再入学をさせても継続し通う子は僅かしかいませんでした。



–   根本的な解決にはならない −
出来ること1つ1つを試し、積み上げてはいましたが、根本的な解決には至りませんでした。
答えは表ではなく、生徒や親の心、生活にありました。

教育は生活の基盤があるがゆえに、受けられるもの。

少しずつ村の現状が分かってきた数ヶ月。
このまま帰国していいのか。その時は既に半年以上が経っていましたが、
自分の中に抑えきれない感情が湧き出て来ました。
”なんのために小学校を建てたのか”
自問自答を繰り返しながら、カンボジア、リエンポン村で活動を続けることに決めました。
僕の一方的な感情、小学校は国の管轄となり村人や教師から何をして欲しいと言われた訳でもありません。

ただ1人でも多くの子が小学校に入学し、辞めることなく卒業する。
そして、子どもたちの成長と未来を自分の目でみたい。
そう強く思うようになっていました。

–   1歩を出すか −
カンボジアでの生活が始まり約1年半が経った2016年8月。

それまで、小学校を辞め村からいなくなった子や10代にして親や兄弟のために住み込みの仕事に行く子どもたちを多く見て来ました。
そして、両親が隣国のタイや地方へ出稼ぎに行き小学校に来なくなる生徒たちがいました。
残された子は、祖父母や親戚の元に預けられ家事に専念したり、家で弟や妹の面倒で小学校に来なくなりました。それが彼らの生活でした。

お金が無ければ生活はできません。賃金が高いタイへ行くのも仕方ありません。
ただ、この年に大切な1人の村人をタイの出稼ぎ先の工場で亡くしました。
それは、僕らの小学校建設で村の大工として一緒に働いてくれ、
僕が村に住んでいた時に兄のように面倒を見てくれた人でした。

過労死でなくなり、帰らぬ姿で村に戻ってきました。



何が出来た訳でもありませんが、ただただ悔しく涙が溢れて来ました。

そんな大好きだった村人の死とリエンポン村初の卒業生を迎える時に
1歩を踏み出そうと決意しました。




–   仕事づくり −
今思えば、この1歩がどれほど大変だったことか。
当時の自分にもっとしっかり考えろ!と言いたくなる程です。


村に仕事があれば、そう強く思い始めていました。

再入学が難しく、学校を辞めた生徒たちが村で仕事ができるように。
既に地方で住み込みの仕事をしていた子。
両親がいなく、中学校へ行く費用が生み出せず辞めようとしていた子。

団体としては子どもたちの教育支援を軸として活動してきましたが、
現実として学校に通えるため、遠方へ出稼ぎにいかないための手段として、若い女性たちを雇用することに決め、村に落ちていたお菓子袋を再利用し、バッグをづくりを開始しました。

小学校の校庭にあるカシューナッツの木下でみなで仕事をする日々が始まりました。
最初はほんの数十ドル、学校に通うための金額程を給料として渡していました。
様々な背景をもった女性を雇用していましたが、もともと地方で仕事をしていた女性たちは僕らからの給料では足りず結局、辞めてしまう子も多くいました。



団体として販路を広げ、どうにか売り上げを増やしていこうと
少しずつシェムリアップ市内で委託販売のお土産屋を増やしながら、ツアーなども取り入れていきました。そして翌年の2017年に校長先生や村長、区長、村人たちが小学校の敷地内に工房を建設することを容認してくれ、クラウドファンディングで寄付を募り、働ける場が完成しました。
応援してくださった方々の温かい気持ちを強く感じました。






–   もう1歩−
継続して学校に通う子や遠方への出稼ぎを辞め、少しずつ働く人数も増えていきました。
しかし、あくまでも10代の女性たちへのサポートで、小学校の生徒たちや通えていない子には
何も出来ていませんでした。

そんな中で、親たちからも働きたいという声が出始め
毎週誰かが工房へ相談に来る日々が続いていました。

親の雇用。それは子どもたちの教育にとって一番必要なことでしたが、
給料や仕事の自立、自分自身のことを考えると怖くなかなか踏み出せない1歩でした。

”教育は生活から”

ずっと悩み続けていましたが、団体として若い女性の雇用をストップし、
2018年6月から母親の雇用を開始することにしました。
それはカンボジアローカルNGO設立後のことでした。

–   カンボジアローカルNGO設立 −
日本では任意団体Share the Windとして2012年11月から活動を開始していました。
カンボジアでも同様にShare the Windとして活動をしていましたが、より深く根を張り
カンボジア国内でしっかりと活動するため、2018年5月にローカルNGOに登録し、内務省から正式な許可を得た団体となりました。

ちょうどその頃応募していた、ソロプチミスト日本財団の社会ボランティア賞を受賞し、頂いた賞金で工房を改築することに決めました。




–   母親の雇用 −
タイでの仕事は日給にして農村部の2倍から3倍稼ぐことができます。
主には工場や建設現場。しかし中には重労働で危険を伴う仕事も多くあります。

団体として、まだまだ利益も出ていないバッグ作りで雇用を増やし、給料を渡すのは
僕の中での1つの決意でもあったように思います。

子どもが親と暮らし、継続して学校に通えるように。

2018年6月から、共通してタイの出稼ぎから帰ってきて村に
現金収入を持たない母親を対象に就労支援を開始しました。



工房はより一層賑やかになり、母親たちは仕事をしながら子どもたちの勉強の姿を見れ
少しずつ良い仕事の環境へとなっていきました。



母親の雇用を開始した当初は本当に多くの親たちが工房に相談にやってきました。
1人1人と家庭や子どもの状況を話し、面談の日々でした。
断る辛さ。断っても何回も工房にやってくる親。

その頃から村に雇用をつくることの大変さを身に染みて感じるようになりました。
村へ入る道の右を向いても左を向いても断った家ばかり。
母親たちは何も思っていなかったかもしれませんが、彼女たちの優しさが逆に
辛い時期もありました。

今いるスタッフたちの生活と家族をまず第一に。
そう自分の中で思い続けていました。そしてスタッフたちの笑顔に救われていました。

–   縫製支援 −
今は8人の女性を雇用しています。
2019年8月から、そのスタッフの中で3人の女性に対して縫製支援を開始しました。
バッグ作りの当初からずっと、縫製を学び縫製屋で働きたい、と言っていた子たちです。
彼女たちの夢、そしてそこから下の子たちの目標につながり、いつか彼女たちが指導者になって欲しいと思い進めることにしました。
現在は村から10kmほど離れた縫製屋に通いながら日々、技術習得に励んでいます。
彼女たちの気持ちを大切に、団体としてもより高い技術を学べるように取り組んでいます。


–  コロナウィルス −
バッグ作りが少しずつ軌道にのり、スタッフたちに任せられるようになった時に
想像もしていなかった新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るい始めました。
当団体も観光客に向けにバッグを販売しその売上げと、日本人のツアーの受け入れで運営費を得ていたので、観光客がいないこの数ヶ月間はこれまでの団体の貯金の中から活動を続けてきました。
シェムリアップ市内の委託店舗(土産屋)は一時閉鎖し、2,3ヶ月に一度プノンペンの委託店舗で
数ドルほどバッグの売上げが出るのみで、活動費の7割を占めていたカンボジア国内での運営費に当たる収入が一切なくなりました。

バッグをつくっても売れないという状況の中で多くのことを考えました。
スタッフたちの生活、子どもたちの勉強、活動の継続、一時中断、、、。

積み重ねの中で、小学校に通う生徒も増え、それにより教師も農村部では稀に見る9名になり
雇用している母親たちの子も定着して小学校に通っていました。

そんな中で決して、スタッフたちの仕事を断ち切りたくない。
しっかり給料を渡し続けたい。という思いを持ち続けていました。

–   農業 −
バッグが売れない中で、どうにか他に仕事を作ろうと悩んでいました。
試作づくりや新たな素材、別の分野での仕事。多くのことが毎日頭を駆け巡っていました。

8名を雇用していたバッグ作り。
何百人いる中のたった8人かもしれません。ただ、その子どもたちは親と暮らし安心して小学校で
勉強を受けることが出来ています。若いスタッフ達も、家族の生活を支えています。

彼女達の生活を自立に導きながらも、ほかの村人へも広げていけるものをつくろう。
そう思い立ち、仕事として農業を開始することにしました。

2019年の夏に活動の幅を少しずつ広げていこうと、小学校建設からお世話になっている日本の方と話し団体として村の田んぼを購入させていただいていました。






全くの素人の僕が出来る分野なのか。不安と心配しかありませんでしたが、やるしかない
状況でした。村の暮らしの中で、多くの村人が農業により収入を得ています。
やるからには、何年かかってでもスタッフ達の生活費を生み出し、自立を目指し、
子ども達の教育に繋げていこうと自分を奮い立たせました。

今年の6月にはFacebookを通し、寄付を募らせていただき
1年を通し農作物を栽培・収穫できるように田んぼに土を入れ畑にし、柵や塀を設置することができました。その間に、カンボジア国内や日本の農業関係者の方をご紹介いただき、
日々できる形で農業の知識を増やしていきました。

まだまだ課題も多い畑、最初は失敗の連続だと思います。
スタッフの育成や土作り、農作物の勉強、管理、販路、販売、、、
その他にもやるべきことは山積しています。おそらく何年もかかります。

コロナウィルス前は週5日往復120kmの道のりの中、村に通っていましたが、
今は助成金などの申請作業や資金確保もあり週2日ほどしか行けていません。
それが団体の代表としての今の役割なのは重々承知していますが、今まではずっと現場で
スタッフ達と試行錯誤し、自分の姿を見せながら活動をしてきました。
それが一番大事だと思って今も活動を続けています。
1日も早く机上ではなく、現場でスタッフ達と勉強し、村に住みながらともに汗をかき
仕事をしたいと心から思っています。

–【ご支援のお願い】 −
団体として現地での収入がなくなった4月から、スタッフ達も理解してくれ苦渋の決断の中、
20%程給料をカットして活動を続けてきました。

Share the Windはこれまで本当に多くの方々の支えで現地で活動をすることが出来てきました。
今は活動を継続させること、それが全てです。

観光客が戻り、再びカンボジア国内で運営費がまかなえるのがいつになるかは分かりません。春先までにかかる就労支援費(農業・縫製)と運営費、100万円がどうしても必要と、皆様のお力をお貸しいただきたくお願いする次第です。

ご寄付は必ず現地で活かし、ご報告を致します。
そして、これからも1歩1歩を村とともに歩みながら、子ども達の教育、その先の未来へと繋げていきます。 
皆様も大変な状況に置かれている中、重ねてのご寄付のお願いに誠に心苦しいのですがどうぞ、

ご協力をよろしくお願いいたします。
——————————————
ゆうちょ銀行
「口座名」シェア ザ ウィンド(Share the Wind)
「店名」〇二八(読み:ゼロ二ハチ)
「店番」028
「口座番号」4057842

クレジット決済(1万円から)はこちらよりお願いいたします。
http://share-the-wind.sunnyday.jp/donation-credit/
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Share the Wind
内田隆太




結婚式が多いな

2020年02月06日 | 日々


村では結婚式が多くなる時期。

先日は、学校建設時の小学校の先生の結婚式。
この家にはたくさんお世話になったから、素敵な旦那さんと結婚して本当に嬉しかった。
幸せな家庭を築いて欲しいな。


今日は、工房のスタッフが招待状を持ってきた。
結婚、3月末って聞いてたのに今月末に。笑

彼女も小さな時から見ていた。
家庭的にも兄弟みんな父親が違うから色々と大変だったと思う。

まだまだ幼さが残る彼氏、、、旦那だけど
優しくてよかった。

ほんと、招待状もらった時はちょっとうるっとなってしまった。

今も裁縫の仕事を続けながら、幸せになろう!




結婚式の洋服どうしよう。笑
いつも適当な洋服で行くけど、ちょっとしっかりしなきゃ。
スタッフに洋服作ってもらおうかな〜。


今日のご飯はポーンティアコーン。結構好き!



最近は寝不足、、、。
工房でウトウトしているとスタッフからコーヒーの差入れがくるようになった。笑



ありがとうございます!笑



明後日は地元から大切なお客さんたちが。

明日は朝早くから工房に行って準備を。


おー、頭の中がぐるぐる。。。
整頓して寝よう。

次への一歩の時は自分と会話。

さて、いこう!


りゅうた
 


日曜日はちょっとゆっくり

2020年02月02日 | 日々

日曜日。

午前中はいろいろと断ち切ってゆっくり。
それがいつもの日曜日。
といってもベットの上でゴロゴロ。



午後から2月にくる大学生グループと電話ミーティング。
それからお掃除や仕事を。


明日はお世話になっている家の結婚式。
リエンポン小学校を作った時の先生。
起きれるかな〜。


今日は早めにベットに行こう💤
 


中華正月

2020年01月27日 | 日々

昨日は中華正月。

工房ではバッグのスタッフ達と小さなパーティーを。

朝、工房で牛肉を2キロ購入し村へ🐄
牛肉って結構高いっ。
びっくり。笑


それからお母さん達が調理を開始!

マネージャーの家からは大きなスピーカーを。
爆音の中みんなで踊り、めちゃくちゃ楽しい1日でした。





良いスタッフ達に恵まれているなと改めて実感。


今夜は遅くまで仕事かな。

報告書に見積もりに、、、、色々。汗

明日は早起きして村に行こう!

隆太

一個一個。

2020年01月24日 | 日々

 

今日は朝はやくから銀行へ。
これからの手続きを色々と。

カンボジアの法律とか決まりとか、以外と大変だけれど
1つ1つ丁寧にしっかりとやらなくちゃ。
この機会にたくさん学びたいと思う。

それからいつもお世話になっているゲストハウスへ
書類を渡しに。

いつもここに来たらアイスコーヒーを頼むから
今日はゲストハウスのお母さんがコーヒーの袋付めをくれた。
タイに行ったから買って来たんだと。

お客さんに出す予定であったろうに、、、。
お母さん、ありがとう!


コーヒは必須だからな。


それから村へ行き、校長先生と2月のお客さんの式典の打ち合わせを。
校長先生とももう6、7年の付き合い。
最初はまあ、色々大変だったけど今では学校のために精一杯働いている。
いい先生たちに恵まれた小学校だと思う。

そして工房で作業し、自宅へ帰り
電話ミーティング。


夜はまたボーボー作った。笑
頂いた明太子とともに。美味しい!


もっと料理の幅を増やしたい。料理、、、、、。笑


明日も村へ行ってきます。

さてクメール語やろ。


隆太


ボーボー。

2020年01月22日 | 日々



最近はなぜか、ボーボー(おかゆ)にはまっている。笑
安くすむし、外でも買って、家で食べたり。

そんな中、今日は村から帰ってきて、夜9時からキッチンで1人おかゆづくりを、、、。笑

なかなか難しいんだな。泡が吹き出てきたり、大変だった。
お米も煮たらすごく大きく?多くなるし、つくりすぎた。笑

味は普通、知り合いの方から頂いた漬物とともに!






そして新しい自転車🚲
これで一安心!
これからも頑張って裁縫の勉強を、と一言!




明日は市内の日。
午前中は納品と税務署へ。
それから市場かな。



ということで、おやすみなさい!

隆太


最近は涼しい

2020年01月21日 | 日々


最近の夜は涼しくて過ごしやすい。

今日のお昼は工房で大好きなバンチャエウ。
野菜も沢山取れる。
野菜、、、葉っぱかな。笑



明日はちょっと自転車屋へ。

裁縫のスタッフ達は30分ほどかけて
別の村の工房で洋服の勉強をしている。

何回も修理していたこの自転車。
とうとう寿命かな。
事故も怖いし。

自転車がないと工房へも行けないので
明日、見に行くことに。



痛い出費だけど、頑張って勉強して欲しいからな。

良い自転車が見つかりますように!笑


明日も村へ行ってきます。

隆太


1日1歩

2020年01月20日 | 日々
 
今日は日曜日。

日曜日の午前中はリラックスタイム。
ベットでゴロゴロ。

午後から活動開始。
市場に行ったり、足りなくなった材料を買いに行ったり。

今日も市場に布を買いに。
いつものおばちゃんのところでクロマーを買い、
いつものおじちゃんのところでクロマーに接着芯を貼ってもらった。

そして2年ほどの付き合いになる縫い子のおばちゃんに商品の相談をしたり。

そんな優しいカンボジア人が身の回りには沢山。




1月のはじめから開始した日本語の挨拶。

最近、工房につくとスタッフが「おはようございます。」「こんにちは。」と。
1週間ほど教えてやっとちょっとスムーズに話せるようになってきた。
1日の中の一番最初の楽しみ。


1日1歩、少しずつ。


さて、明日は村へ。
明日は朝から裁縫の工房に行って、新しい商品の打ち合わせ。それから村の工房へ。


今日は、洗濯に掃除もしてスッキリ。笑
ここ数ヶ月、夜は買ってばかり。野菜取らないとな〜。明日から作ろう、、、、。たぶん。






では、クメール語ちょっとやって寝よう。



隆太