わたしはがっかりしたくない。わたしは多分に直感的な人間的で、人も物事も直感で判断し、その判断は大抵間違わない。
いやなものは最初から拒否するからがっかりすることもないが、ごくたまに、期待を裏切られることもある。
それとは逆に、やなやつ、と思った人が案外いい人だとわかったり、たいしたことない、と思っていた作品の良さが、何かの拍子に感じられたりした時はうれしい。
先日、仕事の後母の誘いで、隣の市の美術館に行ってきた。ある画家の企画展に行ったオリガタの生徒さんから、とてもよかったから先生も是非行って下さいと、わざわざ手紙が来たそうなのだ。
帰宅して遅い昼食を今まさに食べようとしているところだったので、面倒臭いなぁと思ったが、親孝行親孝行と頭を切り替えて急いで食べ、またハンドルを握った。
会場は、こんな田舎にもこんな美術館ができたのかとびっくりするくらい立派な場所。
あーでも、絵にわたしの心は動かなかった。
たいしたことない、そう思ってしまった。
なんだかうすっぺらい。しかし小生意気にこんなふうに思ってしまう自分はカナシイ。すばらしかったとわざわざ感動の手紙をくれた方に比べ、感性の針が鈍い。母もかなり感動している。
改めて、美を感じる時、美しいのは対象ではなく、感じた人の心なのだと思う。
これは好き!というものがひとつでもないものかと、たくさんの作品を観てまわったが、もしもどれかくれる、と言われてもなぁ・・強いて言えばこの絵かなぁ・・くらいにしか思えなかった。
あ、サムホールを12枚並べた「四季の詩」だったか、それはよかった。
とにかくその程度だった。
その日は作家ご本人が来ているという。ホワイエで数人の女性と話している長い白髪後姿の男性だろう。 会場内に秋山庄太郎撮影の写真もあったが、やはりあんまり好きじゃないくらいにしか思えなかった。(ごめんなさい!秋山さん、撮り方よくないよ!)
母は、せっかくだからお会いしていこうと張り切っていた。わたしはどうでもよかったけれど、ひとつ質問したいことがあったので、地区の小中学生の書道展を見てから母の隣に座った。
母は図録を購入し、最後のページに何か描いてもらっていた。サインがわりに、絵を描いてくれることになっているらしい。
母との話が一段落した時、わたしは知りたかったことをきいてみた。
画家は、写真よりも年をとっており、顔にはいやな癖がない。なんだ、思ったよりいい人かも、と、わたしはまず少しうれしくなった。
この人は、高校の頃から注目を浴び、安井曽太郎、須田国太郎らそうそうたるメンバーの推薦により、武蔵野美術学校に入学するものの、中退し、一時描くことをやめてしまう。それはなぜなのか。わたしはそこがききたかった。
須田国太郎は、わたしの尊敬する画家だ。その人が絶賛したという絵についても知りたい。
彼は、わたしの質問に対し、待ってましたと言わんばかりに、当時の学校の様子と彼自身の様子、父親の死にまつわる大人の世界の醜さなどについて、ひとつひとつ丁寧に話してくれた。わたしはすっかり得心してしまった。
彼は、絵の商業的かつ封建的世界が大嫌いなのだそうだ。だからこそ、文化村や和光、関西では中宮画廊などで企画展ができた事情なども、詳しく話してくれた。
ストラビンスキーやドビュッシーの音楽との出会いや、それらから触発されての製作についても。
そしてその、国太郎が絶賛したという高校時代の絵。
それは「家族」というタイトルで、描いた背景も教えてくれたが、具体的にどんな絵だったかはわからなかった。
「今でも、よくあんな絵が描けたなと思います。」と作家自ら言う絵。見てみたい!と思った。
釣りを愛し、普段「すごい格好」をしているという彼、釣り場近くの顔見知りのおばちゃんが、「ちゃんとした姿で会場にいる」というので、遠路はるばる見に来たそうだ。
「がっかり」の反対。
よかった。この人はいい人だ。面と向かって話をきいて、それがわかった。会わなかったら、特に関心を持てない人、で終わっていただろう。ラッキーだった。
「お話できてよかったです。作品イコール人、云々」と伝え、今後の案内状を下さるということで、わたしたちの住所を書き、またどこかでお目にかかりましょうと別れた。
図録には、くさ原に小鳥の図が描き上がった。そしてこの時間をとどめる言葉。
しかしなぁ。会場の絵はなぁ。(まだ言ってるよ!)初山滋の天才を知っているので、この種の絵にはどうも厳しくなる。もちろん、これは単なる自分の感覚で、初山を見ても感動しない人もいるだろう。
彼はデッサンを学んだのは美術学校に入ってからで(そんなことまで質問したのか!)、そこも程なくしてやめてしまう。
心象風景を描く、幻想的な画風、などと紹介されているが、もしデッサンを極めたとしたら、絵は変わってくるのではないか?どんなふうに?
知りたい。これからでも、やってみて下さい、とお勧めしたい気持ち。
彼の絵は、ベージュの壁の応接間や玄関に飾るにうってつけ。固定ファンもたくさんいることだろう。
でも、広い会場内全部が全部、同じ雰囲気。それでいいのか?一生そのままでいいのか?
正統派の画風画法に背を向け、独自?の世界を築いて成功してきた人だ。今更デッサンでもないだろうが、わたしはそれを強くお勧めしたい。(ここで力説してどうする!)
先程パソコンで彼の名前を検索してみた。
おお~。あったではないか!ホームページ。そして 国太郎絶賛の「家族」。
これは確かに普通の高校生が描く絵ではない。国太郎が気に入ったのもよくわかる。今とは雰囲気がまったく違う。わたしは昔の絵のほうが好きだ。
しかし、例えばわたしのこんな失礼な独り言を聞いたとしても、彼は動じないだろう。笑ってきいていてくれるだろう。そんな、人間としてのは彼は好きだ。だからやはり会えてよかった。
わたしの中では、「人」が「作品」に勝っている珍しい例だ。(ふつうイコールで結ばれる。)絵を観るより、その人と話しているほうが面白い。だからもっと絵も好きになりたい。