台湾における野球の歴史のはなしである。
鈴木 明の著書「ああ、台湾」によれば、台湾で最初に野球をやったのは「アミ族」だという。アミ族は、台湾の東海岸に住み、漁業などを行う、どちらかといえばおとなしい原住民だ。
日本統治下の台湾で行政官をしていた「江口良三郎」が、アミ族の子供たちに「ボール投げ」を教えたのが始まりという。1923年(大正12年)6月には、花蓮港の花岡山グラウンドで、アミ族を中心としたチームと日本チームがゲームをしており、アミ族のエース「サウマ」が延長16回を投げ抜き、サヨナラ・ホーマーでアミ族が勝ったという。このあと、このメンバーが中心となり「能高団」というチームを結成している。
1925年(大正14年)、この「能高団」は日本遠征をして、各地でゲームを行なった。当時の朝日新聞は、訓練された立派なチームで、あなどりがたい実力を持っていると評価している。
チーム「能高団」の活躍は、アミ族ばかりでなく、台湾全土の少年たちに強い影響をあたえたという。この野球に対する熱い思いは、戦後になっても続き、リトルリーグでの台湾チームが、世界を制覇した時の台湾人の喜びは、はかり知れないものがあった。一生懸命やれば、自分たちだって、世界一になれるという自信を持ったのがその時であった。
台湾から日本のプロ野球に来て活躍した名選手たちを書いておこう。
郭源治 台東のアミ族出身。中日ドラゴンズで活躍していた。
荘勝雄 台南出身の台湾人。確か、ロッテオリオンズで活躍していたと思う。
郭泰源 台南生れの台湾人 長栄高校野球部出身。巨人軍行きたかったらしいが、西武に入団。時速160kmを超える剛速球で人気があった。今は、どうしているのだろうか。
1925年は昭和の初めであるが、アミ族を中心に台湾原住民による野球チームができていたことは驚きではないだろうか。少なくとも、花蓮のアミ族の文化レベルはかなり向上していたのであろう。
野球のことを考えながら、蛇足のように、ふと「霧社事件」のことを考えてしまう。
ここでもまた「霧社事件」を引合いに出してしまうが、霧社と花蓮はそれほど離れてはおらず、花蓮のアミ族は野球チームをつくって、日本遠征までしているのに、同じ時期に、霧社のセデック族は、理不尽な強制出役で苦しんでいたというギャップに違和感を持つ。
蛇足のついでに、「霧社事件」の記録を読むと、その当時、霧社蕃地方は植民地政策として成功し、理想的な統治がおこなわれていたと、書かれているが、それは認識不足もいいところであろう。
霧社蕃の現実は、道路をつくれ、山林を伐採しろ、小学校などの寄宿舎を建設しろなどと、強制出役などがあり、さらに労賃はごまかされ、原住民の娘は弄ばれるなどで、人間扱いされない最悪の条件であった。だから、日本人に反抗して事件が起きたのであり、山地行政は非常にまずかったのである。
これに反して、アミ族は野球をして、日本遠征までしている。文化や生活レベルの差が歴然としているが、その差はどうして生まれたのであろうか。
おそらく、巡査などの行政官の資質によるところが大きかったのではないだろうか。台湾の中でも山岳地帯は、僻地扱いで、左遷されてきたり、食い詰めた人たちが流れてきたりで、まともな行政政策が行なわれなかったからであろう。
アミ族の野球の話が、霧社事件との比較になってしまったが、何気ない出来事にも深い意味があることを考えてしまう。
以上
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