さて、天下の最高学府の堂々たる文学士・坪内逍遥様が、人情世態などを描くという
庶民小説に手を染めた時、世間の驚きはいかほどだっただろうと想像すると面白い。文
化とは常に、旧来の常識(思い込み)を打ち破って進化するものだという好例だろう。
逍遥は、小説とは『人情世態を模写し、人の心目を悦ばしめ、且その気格を高尚にす
る』芸術だと言った。そして二葉亭四迷がその模写の意味をさらに深め、『虚相を写し
出す』こととしたのだった。けれども二人に少し遅れて現れた若者、北村透谷は、『心
目を悦ばしめ、気格を高尚にする』といったような 快楽と実用 とは、芸術の効能として
はあっても 、文学の本体ではないと主張した。文学の本体はあくまで詩人自身の内部生
命にあると。
彼のさしている詩とは、形としてのいわゆる詩に留まるものではない。小説もその底
にあるものは詩だ。言うならば、長大な詩なのだ。だから、小説家も広い意味では詩人
であると言える。
透谷は、現実的・時代的ないかなる制約にも囚われることのない、人間という存在が本
来持っている、宇宙の精神につながるような自由な想の世界(内部生命)を重視した。そ
して、その自由な精神から人生・世界を見ることによって感じとられる、理と美を詩に
描きとるのが、すなわち文学であると考えたのだった。彼の『内部生命論』の表現は難
しいけれど、私はそのように解釈した。日本における純文学概念の最初の確立は、ここ
にこそあったと私は思っている。
その後の長い歴史の中で、作家たちの激しい試行錯誤が展開され、「小説という文
学」の中身はさまざまに変遷し、枝分かれしてきた。それでもある時期までは、文学に
は文学としての意味が追求され、作家たちは真剣にそれに対峙してきたと思う。それ
が、マスコミの商業主義とつき合い始めた頃から崩れてしまった。今では小説をすべて
文学 と呼んだり、物語小説だけを文芸 と呼んでみたり、一定の傾向を持つものをノベ
ル と言ったり、○○小説 と小説の頭に○○をつけたり...訳が分からない。
また、同じ呼び方でも人によって異なる意味に使われたりと、ますます混迷の度合いを
深めているように見える。
小説・文学・文芸・ノベル・・・言葉には一定の定義がほしいものだ。この異形の森
を眺め回すと、ため息がばかりが出てくる。文学としての小説の樹はどこにあるの
か? たまにそれらしいものを見つけるが、たいていは樹と呼ぶには寂しいような、か
細い木が多いように思う。
そして、何より残念なのは、自分自身がその文学の樹を植えられないことだ。力が足
りない。まったく、まったく、情けないことだ。
庶民小説に手を染めた時、世間の驚きはいかほどだっただろうと想像すると面白い。文
化とは常に、旧来の常識(思い込み)を打ち破って進化するものだという好例だろう。
逍遥は、小説とは『人情世態を模写し、人の心目を悦ばしめ、且その気格を高尚にす
る』芸術だと言った。そして二葉亭四迷がその模写の意味をさらに深め、『虚相を写し
出す』こととしたのだった。けれども二人に少し遅れて現れた若者、北村透谷は、『心
目を悦ばしめ、気格を高尚にする』といったような 快楽と実用 とは、芸術の効能として
はあっても 、文学の本体ではないと主張した。文学の本体はあくまで詩人自身の内部生
命にあると。
彼のさしている詩とは、形としてのいわゆる詩に留まるものではない。小説もその底
にあるものは詩だ。言うならば、長大な詩なのだ。だから、小説家も広い意味では詩人
であると言える。
透谷は、現実的・時代的ないかなる制約にも囚われることのない、人間という存在が本
来持っている、宇宙の精神につながるような自由な想の世界(内部生命)を重視した。そ
して、その自由な精神から人生・世界を見ることによって感じとられる、理と美を詩に
描きとるのが、すなわち文学であると考えたのだった。彼の『内部生命論』の表現は難
しいけれど、私はそのように解釈した。日本における純文学概念の最初の確立は、ここ
にこそあったと私は思っている。
その後の長い歴史の中で、作家たちの激しい試行錯誤が展開され、「小説という文
学」の中身はさまざまに変遷し、枝分かれしてきた。それでもある時期までは、文学に
は文学としての意味が追求され、作家たちは真剣にそれに対峙してきたと思う。それ
が、マスコミの商業主義とつき合い始めた頃から崩れてしまった。今では小説をすべて
文学 と呼んだり、物語小説だけを文芸 と呼んでみたり、一定の傾向を持つものをノベ
ル と言ったり、○○小説 と小説の頭に○○をつけたり...訳が分からない。
また、同じ呼び方でも人によって異なる意味に使われたりと、ますます混迷の度合いを
深めているように見える。
小説・文学・文芸・ノベル・・・言葉には一定の定義がほしいものだ。この異形の森
を眺め回すと、ため息がばかりが出てくる。文学としての小説の樹はどこにあるの
か? たまにそれらしいものを見つけるが、たいていは樹と呼ぶには寂しいような、か
細い木が多いように思う。
そして、何より残念なのは、自分自身がその文学の樹を植えられないことだ。力が足
りない。まったく、まったく、情けないことだ。