以前、このような事が『産経新聞』に載せられていたのをブログで紹介したことがある。
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
数年前、ある公開討論会で客席の若者が何気なく発した質問に会場は凍り付いた。子供と正面から向き合おうと思っている大人ほど、その答えに窮した。
もう10数年も前のこと――黒田恭史さんは小学校の新米教師だった。東能勢小学校(大阪府豐能町)で4年生の児童約30人とブタを飼う「授業」を始めた。
ブタには「Pちゃん」と名前をつけ、子供たちが体育館の裏に小屋を建て、廃品回収で集めたお金でエサを買い与えた。夏休みや休日も交代で世話をし、排泄物の掃除もした。臭いにおいを嫌っていた子供もいたが、抱きついたり頬ずりするまでになった。Pちゃんはペットと化していた。
ところが、この話は“美談”では終わらなかった。それは黒田さんが「みんなでPちゃんを食べよう」と提案したからだ。
日に日に巨大化するPちゃんをめぐり、黒田さんを交えて子供たちは何度も何度も話し合った。それは、彼らの卒業の日まで続く長い長い「授業」でもあった。
Pちゃんをどうするか? その結論が出るまで、子供たちは悩み、苦しみ、泣きじゃくった。
「私たちが卒業したら下級生が育てたらいい」
「それは無責任だと思う」
「じゃあ殺しちゃうの?」
「ずっと一緒にいられるわけないんや」
「僕らに食べられた方が幸せかも」
「でも私は絶対に食べない」
黒田さんは、子供たちの議論を見守り、保護者も巻き込んだ大論争が展開した。動物園の園長を招いて意見を聞いたり、子供たちを食肉センターに連れて行き、ブタが食肉になる過程を見学させたこともある。
ようやく結論に至るのは、卒業式の前日だった。
Pちゃんは、地元の食肉センターに引き取られることになった。
これらの模様は、民放TVのドキュメンタリーで放映され、当時すさまじい賛否を呼んだ。黒田さんはPちゃんの問題をきっかけに小学校の教諭を辞めた。現在は京都にある佛教大学で、教師を目指す学生たちと再び「いのちの教育」のあり方を探っている。
「今でもあの授業が成功だったのか、失敗だったのか、わからない。いのちの問題は答えが一つじゃない。その中で、あの子たちは逃げなかった。泣きながらも最後まで踏みとどまって考えていた。痛みを感じながら、Pちゃんの死と本気で向き合った経験は無駄ではなかったと思う」
と黒田さんは言っている。
生徒たちは、机の上に散らばる米を一粒一粒、真剣に数えていた。
東大阪市立長栄中学校の山下文夫教諭(当時63歳)は、米粒を男性の精子に見立て、その中から「自分」を探させる。3億の精子のうち卵子に達するのはたったの1個なのだ。3億という数がどれほど大きなものなのか、ひとりひとりのいのちがどれほどすごい確率で生まれたのか、体感してほしいとのねらいなのだ。
40人近い生徒が2時間かけて数えたのは3億にほど遠い10万粒――。
ある男子生徒は、
「自分がこの世にいることが奇蹟だと思った」
と感想文を読み上げた。山下教諭は、すかさず付け加えた。
「みんな自分のいのちの尊さは分かったと思うけど、隣におる子もそうなんや。自分の前後も、斜め横の友だちも、みんな3億分の1ということを考えてや」
山下教諭は、2年前に定年を迎えたが、現在も非常勤で保健体育を教える。授業は「生と死の教育」(デス・エデュケーション)と名付けられている。
「生と死の教育」は欧米ではじまり、日本には昭和50年にドイツ人のアルフォンス・デーケン上智大学名誉教授(哲学)が紹介した。当初は、自分や身近な人が死ぬまでの日常をよりよく生きるとの意味から、「死への準備教育」と呼ばれたが、次第にいのちの尊さ伝えることに力点が置かれるようになった。「生」を教える「死」の教育というわけである。山下教諭もデーケン教授の著書を読んだ一人だが、授業の中身はほとんどが我流なのだという。
米粒を数えさせた次の授業では、自分を中心に家系図を12代までさかのぼって書かせた。
「このうち1人が欠けても、君らはここにおらんのやで」
山下教諭は言った。
ありがとうございます。
Pちゃんの記事は、テレビなどで何度か目にしておりました。
賛否両論がある。
それ自体が素晴らしいと思います。
みんながいいと支持されることだけをやる教育に、何の魅力も感じないからです。
私も、その生徒達のように、いのちの事を自分なりに考えた時期がありました。
誰でも一度は通る道を、信頼できる先生や仲間と共有できることが、何より素晴らしいと感じました。
私は、その時にいのちを大切に扱えば、食べてもいいという結論に達しました。
その時の決意を、実行できているかと問われたら自信がないのですが、いのちを感じながら、いのちを頂き、生かされていることに感謝して、日々暮らしていきたいと思います。
私が娘に、
「どうして人を殺してはいけないのか?」
そう問われたら、先ずは、ダメなものはダメだと答えます。
6歳までの子供は、「そうなんだ。」と、すとんと心に入るのだそうです。
私も、そう教えられたのだと思います。
理由づけは、後から自分で考えたように思います。
そして、いのちの大切さを、私なりに伝えていきたいと思います。
自分のいのちの大切さを知り、周りの誰一人として、粗末に扱って良いいのちはないということを、自然と感じられる子に育って欲しいと願っています。
そのために、先ずは私がいのちの大切さを感じ、実践しながら、育自をしていきたいと思います。
ありがとうございました。
さて、豚や牛等の命を、いただいて、命を繋ぐ。
何代もの命のバトンを受け取り、生を授かる。
命の尊さと、壮大さを感じました。決して私一人の命ではないのですね。
今日から、毎日生と死の壮絶なドラマが繰り返されている、総合病院に勤務します。
台風が過ぎ、まっさらさらなもとでの出発に感謝します。
瞬間、瞬間、一日を大切に過ごしていきたいと思います。
ありがとうございました 。
いじめの問題やその問題からの自殺……といういのちがテーマとなった教育問題がマスコミをにぎわしていますが、法律による解決法や教育委員会や学校や教師への批判もくりひろげられますが、Mayさんの言われるようにダメなものはダメ、人は殺してはいけない……そこですね。そこのいのちの教育……この根本的なことがぬけているように思います。
育児は育自ですか。なるほど。
台風も大自然のリズムというか、大自然の息吹きのあらわれなのでしょう。ひとつのデトックス、浄化なのかもしれませんね。
ふるさとに帰られて、今日が初出勤なのですね。東京から故郷の病院に変わられたのですね。心あらたに出発ですね。まっさらさらのみずみずしいいのちが響いて、多くの方がしあわせになられますように……。その現実的サポートをされるのですね。
是非、そのときのことを通して、しばらくそこに立ちつくしたのはどうしてなのか、是非文章で解き明かしてほしいですね。知りたいですね。
あれから何年も経ちましたし・・あの時の気持ちそのままを再び味わうことはできませんが、あの時の私に向かい合って、どうしてなのか、文章にまとめてみようと思います。
う~ん、うまくまとまるだろうか、いや、ヘンにまとめようとするのは違うなぁ、と思いつつ、明日から取り組んでみます。
先生、いつもありがとうございます!
今、自分が心がけているのは食事です。
朝食は良質な水分を中心に、普段の食べ物は身体にとって良いものを摂取するようにしています。スナック菓子やカツ丼など脂っこいものは、1年ほど食べてないです。あんなに食べていたのに(笑)
いのちを大切にするのは、まずは自分自身を大切にし、関心を持ってあげることが大切だと思っています。これからも継続して心がけてまいります。
ヘンに纏めるのは、ヘンですから、ヘンで違いますよね(笑)。自然体がいいですよね。
食育ですか。そのように愛と智慧があふれることは、大切なのでしょう。すばらしいことです。
私は、自然体がいいと思っているのか、とにかく目の前に出て来たものには、すべて感謝していただくことにしています。でも、食べたくないものは、これまた自然体で食べませんが……。それもまた良し!(笑)と思っています。歳だからでしょうか?(笑)