小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安保法案成立――違憲訴訟はなぜできないのか?

2015-10-26 08:13:49 | Weblog
「安保法制は違憲だ」と、大多数の憲法学者や弁護士は声高に叫んでいた。とりわけ元最高裁長官や元内閣法制局長官が「違憲法案だ」と主張したことの重みは、今さら取り消すわけにはいくまい。
 私は前回のブログまで、憲法学者や弁護士集団が全国各地で集団「違憲訴訟を起こす」ことを前提に、国民がこの問題にどう立ち向かうべきかを提起してきた。
 が、一向に憲法学者や弁護士たちが集団で「違憲訴訟」を起こす動きが表面化していない。表面化していないだけでなく、実際に訴訟活動がほとんど生じていないようなのだ。なぜなのか?
 私の友人が安保法制反対運動に参加していて、東京弁護士会主催のシンポジウムで、ズバリその疑問をぶつけた。
 弁護士の答えは冷たかったようだ。「安保法案の違憲性を問う訴訟は出来ない。実際に集団的自衛権行使に基づく自衛隊の活動があったとき、はじめてその活動の違憲性を提訴できる」と、某弁護士は答えたようだ。
 私は憲法学者でもなければ弁護士でもない。専門家がそう言い訳すれば、訴訟というものは「違憲法案に基づいた違憲行動」が生じなければできないというおかしな考えを受け止めざるを得ないのかもしれない。が、だとしたならば、なぜ国会で安保法案の審議中に大多数の憲法学者や弁護士は「違憲法案だ」と声高に叫んだのか。そう主張できる法的根拠はなかったということなのか。元最高裁長官や元内閣法制局局長まで「違憲法案だ」と主張したのは、いたずらに国民を煽動し、ことさらに法的根拠がない反対運動を鼓舞するために行ったということなのか。
 私の手元に今年6月12日付で、東京弁護士会会長・伊藤茂昭氏の名において発表された「安全保障関連法案の違憲性に関する政府・自民党の恣意的見解を批判し、あらためて同法案の撤回・廃案を求める会長声明」なるものがある。実は昨日入手したばかりのものだが、この声明文で主張したことと、実際に安保法案が成立した後の東京弁護士会の行動につじつまが合わないと思わざるを得ない。この声明文の一部を引用する。

 現在、衆議院においていわゆる「安全保障関連法案」が審議されている。この法案は、他国のためにも武力行使ができるようにする集団的自衛権の実現や、「後方支援」の名目で他国軍への弾薬・燃料の補給等を、地域を問わず可能にし、従来政府の解釈・答弁においても憲法9条違反として許容できなかった自衛隊の海外等における武力行使の制約を一挙に取り払おうというものであり、憲法9条及び立憲主義に反することは明白である。(中略)
 折しも本年6月4日の衆議院憲法審査会において、与野党から参考人として招かれた3名の憲法学者全員がそろって集団的自衛権行使を容認する「安全保障関連法案」は違憲であると断じた。また、全国の憲法学者・研究者たちが「安
保関連法案に反対し、その速やかな廃案を求める憲法研究者の声明」を発表し、その賛同者は現在200名以上にのぼっている。弁護士会においても、日本弁護士連合会や当会のみならず全国の弁護士会が憲法違反を理由に法案反対の決議や声明を発表しており、本法案が憲法違反であることは多くの法律家の共通認識である。(以下略)

 が、安保法案が成立して、すでに1か月を超えているのに、私が予想していた憲法学者や弁護士たちによる「違憲訴訟」はまったくなされていないようだ。法律が憲法に違反しているのであれば、とくにその法律に反対の立場をとっている学者や弁護士たちは、法律の廃止ないしは法律の施行の中止を求めて訴訟を起こす義務があると思う。シンポジウムで某弁護士がほざいたように、実際に自衛隊が憲法に違反した行動をとらなければ訴訟ができないというのであれば、そもそも憲法学者や弁護士たちが「安保法案は違憲法案だ」と主張した法的根拠を自ら否定したことになる。はっきり言えば、彼ら専門家は国民にウソをついて、いたずらに国民を煽動してきたことになる。
 実は私自身は「憲法に違反しているから」という理由で安保法制に反対してきたわけではない。
 私は第2次安倍政権が発足し、第2次安保法制懇を首相官邸に設置した直後から集団的自衛権を、日本はすでに保有していると主張してきた。たとえば2013年8月29日に投稿したブログ『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』で、こう書いた。

 私自身はこれまでも述べてきたように、まず憲法を改正して国民主権の下で新憲法を制定し、自衛のための固有の権利として自衛軍(あるいは国防軍)の保持を明記したうえで、自衛のための軍隊の行動を国民の意思によって規制することを定め(緊急時には政府が戒厳令を発布して政府の管理下で自衛のための軍隊の発動を許可し、事後に政府の決定について国民の意思を問う仕組みにする)、集団的自衛権については国連憲章51条の正確な理解な理解に基づいたうえで、日本としての集団的自衛権行使の義務の範囲を明確に定める(中略)。
 国連憲章51条は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、(中略)個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」とある。(中略)実は国連憲章は戦争を犯罪行為とみなし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対し武力攻撃が行われた場合は、
自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国(とくに同
盟関係にある国)の軍隊に共同防衛してもらう(これが「集団的自衛」の意味)
権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的妥当性を有する。
 そういう集団的自衛権を権利として国連憲章が認めた背景には、国際会議で承認された「永世中立国」が非武装だったため他国から侵略され占領された過去があり、そうした悲劇を二度と繰り返さないため、個別的自衛力が十分でない国を他国の攻撃から国連加盟国が共同で守ってあげようという意味なのである。つまり国連憲章が認めた集団的自衛権とは、同盟国や『日本と密接な関係にある国」(日本政府の定義)を、攻撃された国と一緒に守ることを意味するものではないのである。非武装や十分な「個別的自衛」の戦力を有していなかった場合に、他の国連加盟国に応援を頼める権利が集団的自衛権の本来の意味である。(中略)だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係を築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。(中略)
 集団的自衛権を行使する対象について日本政府は「同盟国及び日本と密接な関係にある国」と定義しているが、国連憲章によれば「国連加盟国」と明確に定義している。つまり、国連加盟国は「無法な侵略を受けている。助けてくれ」と、他の国連加盟国に要請する権利があり(これが集団的自衛権)、支援を要請された国連加盟国がその要請に応じることは「集団的自衛権の行使」ではないのだ。(中略)日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが日本を防衛する義務を負っていることにより、日本はすでに集団的自衛権を有しているのである。どうして日本の政治家やジャーナリストはここまで頭が悪いのか、私には理解できない。(以下略)

 つまり、日本が同盟国あるいは親密な関係にある国が他国から攻撃され、日本に軍事的支援を要請してきた場合、日本の自衛隊はその国を共同防衛できるか否かということが今回の問題の核心なのだ。問題点を総明確にすれば、少なくとも現行憲法を改正しない限り、日本の軍事力を他国防衛のために行使することは不可能であることは子供にも理解できる話だろう。
 そもそもGHQによる占領下で制定された現行憲法は、「自衛のための戦力の保持」すら否定している(憲法制定を行った国会での吉田茂総理の発言)。つまり、自衛隊も、本来は現行憲法の改正抜きにはできないはずなのだ。吉田総理はサンフランシスコ講和条約に調印して日本が独立を果たした時点で、主権国家としての尊厳を明確にした憲法に改正する発議を行うべきだった。
 が、敗戦によって致命傷を負った日本の経済力を回復させることを、吉田総
理は最優先することにした。日本が占領下にあった時代は、日本の安全と防衛
を守る義務が占領側にあることは国際法上の常識である。日本も先の大戦で占領した国(地域)の安全と防衛を日本軍が守ってきた。が、敗戦により経済力をほとんど失った日本にとって、経済力の回復に吉田総理としては全力を注がざるを得なかったのだろう。そのため、主権国家としての尊厳を回復するための憲法改正を後回しにせざるを得なかったのだと思う。吉田総理自身が、のちに回顧録で「日本が経済的にも技術力においても世界の一流国と伍するようになった現在、日本の安全を他国に頼ったままでいいのか」と書いている。が、独立回復時に主権国家としての尊厳に満ちた憲法に改正しなかったのは、経済力の回復を最優先せざるを得ない状況に日本があったとしても、吉田総理の責任は大きい。
 そして戦後長い間、他国からの侵略を受けず、国際紛争にも巻き込まれてこなかった日本では、いつの間にか「平和憲法」神話が定着していった。
「憲法9条があったから、日本は戦争をしないですんだ」というのが平和憲法神話の中身である。事実は明らかに違う。他国を軍事力で自国の支配下に置く目的は、その国の資源が魅力のあるものであるか、あるいはその国を支配下に置くことが大きな軍事的意味を持つかのケースのいずれかである。
 日本の場合、資源は何もない。が、日本の地勢的重要性は決して小さくない。旧ソ連も終戦間際になって日ソ中立条約を破棄して対日参戦に踏み切り、一気に北方四島を侵略したのは、太平洋への進出が大きな目的だった。もし日本の無条件降伏があと数日遅れていたら、北海道もソ連に侵略されていた可能性が高かった。同様に、アメリカが日本を独立させた後も長期にわたって沖縄県の施政権だけは返還せず、アメリカの「植民地」として支配し続けたのは、沖縄の持っている地勢的意味の大きさによる。アメリカにとっては日本の地勢的重要性はますます大きくなっている。中国の軍事力が急速に拡大し、海洋進出を活発化しているからだ。
 つまりアメリカにとっては、日本が、とくに沖縄が国際紛争に巻き込まれては困るのだ。巨額の軍事費を投じて日本、とくに沖縄に基地を集中しているのはそのためであり、皮肉なことだが日本の平和はそうしたアメリカの軍事戦略によって守られてきたのだ。
「平和憲法を守れ」と主張する方たちは、では日本の平和を事実上維持してきた在日米軍にこれからも頼り続けるべきだと考えているのだろうか。

安保法案成立の意味を改めて検証する。④  安保法制を潰す最終提案

2015-10-19 07:31:58 | Weblog
 今日で、このシリーズも最終回にする。ただし、シリアの内紛を巡って米ロの対立が激しくなっている現在、難民問題をめぐって日本がどういう「立ち位置」をとることになるか、予測不可能な事態になっているため、集団的自衛権問題を再検証する必要が生じる可能性はある。
 とりあえず、今回のブログでは、政府が集団的自衛権行使のケースとして主張している「存立危機事態」としているケースを検証したい。
 前回のブログでも書いたが、安倍総理の言葉には「意味不明」なことが多すぎる。あるいは政策課題をどうやって実現するのか、肝心の方法論(手段)がすっぽり抜け落ちていることが多すぎる。前回のブログでは「積極的平和主義」と「安保理改革」について中身がまったくないことを指摘したが、先ほどの内閣改造で公式に表明した『新三本の矢』も、「積極的平和主義」や「安保理改革」に比べればわかりやすい言葉だが、どうやって実現するのか、専門家も頭を抱えている。専門家どころか、自民党内部から「大風呂敷の広げすぎだ」という批判が漏れ聞こえてきている。
 いま政界で大問題になっているのが「1億総活躍」だ。内閣改造後、安倍総理が「新3本の矢」とともに打ち上げた経済活性化のためのアドバルーンだが、早くも民主党の岡田代表から「民主党綱領のパクリだ」とクレームを付けられた。野党だけではない。与党の石破地方創生相が「国民に戸惑いがないとは思えない」と、国民から理解されていないと批判した。公明・山口代表も「中身がさっぱり分からない」と苦言を呈された。中身のないキャッチフレーズつくりの名人は佐高信氏だが、ひょっとしたら安倍総理は佐高氏からキャッチフレーズづくりのテクニックを教えてもらっているのかもしれない。言っておくが、これはブログ記事とはいえ、公の言論機関による批判である。佐高氏が名誉棄損で訴えるなら、受けて立つ覚悟はある。その場合、かつて『週刊金曜日』に投稿した私の佐高氏への批判を彼が無視したことは、彼にとって致命傷になるだろうことも指摘しておく。

 それはともかく「新三本の矢」と自ら命名した以上、安倍総理は「旧三本の矢」を前提にしているはずで、「旧三本の矢」の検証抜きには「新三本の矢」は語れないはずだが、肝心の「旧三本の矢」の検証はまったく行っていない。「旧三本の矢」政策が失敗したから、新アベノミクス(経済政策)として「新三本の矢」に取り替えることにしたのか、「旧三本の矢」が一応成功を収めたので、ステップアップして「新三本の矢」に移行することにしたのか、私たち国民にはさっぱり分からない。問題なのはメディアで、その検証をしようという意図すらまったく感じられないことは、「情けない」という言葉を通り越してメディアそのものが「存立危機事態」に陥っているとしか言いようがない。
 一応政府は「新3本の矢」について「アベノミクスの第2ステージ」と位置
付けているので、「旧3本の矢」は当初の目的を達したので、次の段階に入ると
主張していると思われるので、「旧3本の矢」にもいちおう触れておこう(ただし詳細な検証ではない。すでに何度もブログで検証してきたから)。
 もともと第2次安倍政権が誕生したときの経済政策は「2本の矢」だった。政治家もメディアも総健忘症(あるいは総痴呆症)にかかっているせいか、そのことをすっかり忘れているようだ。第2次安倍政権が誕生したときの経済政策は「デフレ脱却」と「バラマキ公共工事による経済活性化」の二つだけだった。約半年後に「成長戦略」なる意味不明なアドバルーンを打ち上げて「アベノミクスの三本の矢」がいちおう揃ったことを、総健忘症群(総痴呆症群)にかかっている方たちはすっかり忘れているようだ。忘れてしまったことは、検証のしようがない。たとえ忘れても、ネットで調べれば、「あっ、そうだった」と「旧三本の矢」の検証の必要性に気付くはずなのだが、総白痴化しているような人たちには、そういう作業の必要性すら理解できないようだ。
 このブログで事細かく検証する必要はないので、結論だけ書いておくと、「旧三本の矢」はすべて中途半端で終わった。3年たっても国民や企業の大半は「デフレ脱却」を実感していないし、「バラマキ公共工事」も肉体労働者の雇用増大と賃金上昇は生じたが、増えたのは派遣労働者と海外からの出稼ぎ労働者の雇用だけで、大企業の正規社員はほとんど増えていない。そのうえ派遣労働法まで改悪してしまったから、若い労働者の不安定性・低賃金化には歯止めもかけられなくなった。その証拠に、政府内から消費回復のために低所得層を対象に3~5万円のクリスマス・プレゼントを配ろうという声まで出始めた。「成長戦略」も「強い農業を育てる」という掛け声だけは、安倍総理をバカにしている私も大いに支持したいのだが、具体的な方法論がまったくない。これほど中身がなく、かつキャッチフレーズだけ乱発して得意になっている総理は、かつて見たことがない。そんなバカ総理を自民党議員はいつまで担ぐつもりなのか。
「購買力平価」という経済用語がある。各国通貨の実質的価値を表す言葉で、たとえば1ドル=120円の為替相場だとすると、アメリカで1ドルで買える商品は日本では120円で買えることを意味する。旧アベノミクスは日本の輸出産業の国際競争力を回復するために、日銀・黒田総裁に指示して金融緩和・円安誘導への為替介入を行った。が、結果日本の工業製品(自動車・電機など)の輸出量はまったく増えなかったのに、輸出産業界は為替差益によって史上空前の利益を計上した。当然輸出関連企業の株は暴騰し、「ミニ株バブル」も生じた。
 しかし、いかなる政策も(つまり経済政策だけではないということ)、必ずメ
リットとデメリットがある。効果の高い薬ほど副作用も大きい(必ずしもそうとは言いきれないが、一般にそう思われているからたとえとして書いただけ)と言われる。経済政策も、金融緩和・円安誘導を行えば、「こういうメリットはあるが、同時にこういうデメリットも生じる。生じるデメリット対策としては、こういう手を打つ」と、国民に説明するのが政府の責任だが、そうした説明責任を安倍総理は果たしてきたと言えるだろうか。甘い蜜であるメリットだけしか説明せず、デメリットには一切触れない、というのが旧アベノミクスの最大の特徴だった。
 安倍政権も円安政策をとれば輸出価格は下落するが、輸入品の物価は上昇することは分かっていたはずだ。たまたま悪性インフラに陥らなかったのは、想定外の原油安で物価が一応安定していたからだ。が、原油安効果も薄れつつある現在、GDPの6割を占める国内消費が低迷したままだ。そんな程度の足し算・引き算が出来なかったら、安倍内閣は経済政策など云々する資格がない。
 円が20%下落すれば輸入品の物価は20%上昇する。これが小学生レベルの足し算・引き算だが、現実の経済はそんなに単純ではない。たとえば日本の輸出工業品と競合関係にある国の企業が対抗上値段を下げれば、その分円安効果は減少する。逆に輸入品も、必ずしも為替相場をダイレクトに反映するとは限らない。やはり競合関係にある国の企業が生産量を維持するため低価格輸出に踏み切る可能性があるからだ。もし輸出価格を為替相場に連動させて高く設定すれば、よほど競争力のある商品でなければ生産量を減らさざるを得ない。生産量が減少すれば、当然のことだが商品1個当たりの生産コスト(生産設備の減価償却費・メンテナンス費・人件費・原材料や部品の購入費など)が増加し、かえって競争力を失うことになる。それが実態経済を動かしている競争原理というものだ。
 安倍総理と黒田・日銀総裁は為替相場を円安誘導すれば、日本の工業製品は海外で販売価格が下落して輸出が増大し、輸出企業は海外での需要の増大に応じるため設備投資を行い、雇用や給料も増加して日本経済復活の原動力になると考えたと思う。が、結果はそうならなかった。輸出企業が設備投資を行い生産量を増やすことに、大きなリスクが伴うことを知っていたからだ。そのため輸出企業は設備投資を伴う生産量の増加という経営方針を採用せず、輸出価格を据え置いて、輸出量を増やさずに為替差益を増加するという道を選んだのだ。政府・日銀が一体となって円安誘導した結果が、日本の工業製品の輸出量が増えずに、輸出企業の為替利益だけが膨大に膨らんだ理由は、その一点にある。そのことを証明できる過去の出来事があった。
 1985年のプラザ合意でドル安誘導政策を行うことで、主要各国の中央銀行・
財務大臣(G5)がまとまったとき、日本の輸出産業界は円高に対してどのよう
に対応したか。先に述べた理由から、メーカーにとっては生産量を維持するこ
とが最大の目標になる。生産量を減らせば、生産コストが上昇して競争力を失
い、その結果さらに生産量を減らせば生産コストがさらに上昇するという悪循環に陥り、最後は競争力を完全に失うことになる。日本の輸出メーカーは、その悪循環に陥ることを最も恐れた。そのため生産量は落とさず、海外とくにアメリカにはダンピング輸出をして競争力を維持することにした。ドル安にもかかわらず、日本からの輸入製品の価格が下がらなかったため、アメリカは「ダンピング輸出だ」と猛反発した。それに対して日本メーカーは「必死に努力をして生産コストを引き下げた結果だ」と反論した。もし、その時の日本メーカーの反論が正しければ、日本の消費者は不当に高額な価格で同じ商品を買わされていたことになる。が、日本メーカーの本音は違った。技術開発などによって生産コストを引き下げたことも事実だろうが、円はプラザ合意直前の240円から2年間で一気に倍の120円になった。2年間で生産コストを半減するような技術開発など、ノーベル賞10個分に相当するほどの画期的な発明が行わなければ不可能だ。つまり日本メーカーは生産量を維持することにより対米輸出価格を抑える一方、国内では販売価格を維持あるいは引き上げて輸出と国内消費のバランスをとったのだ。生き残るためには、やむを得ない経営方針だったかもしれないが、為替の自由化はそうした結果をしばしば生むことを日本のエコノミストはまったく分かっていない。
 これは大きな政策転換がどういう結果をもたらすかの一例に過ぎないが、こ
の時期の日本メーカーのお行儀の悪さを指摘したのは、エコノミストでも何でもない私だけだった。論理的に検証するということの意味と大切さを、読者にご理解いただきたいために古い話を書いた。
 16日、安倍総理は財界幹部らを集め、国内での積極的な設備投資を行うよう促した。確かに安倍政権が発足して以降、円安誘導の金融政策によって輸出産業を中心に企業の経常利益は16兆円増え、内部留保も50兆円増加、企業が貯めこんでいる内部留保は354兆円の巨額に達した。その一方で安倍政権発足後の設備投資の伸びは5兆円にとどまっている。
 が、いくら安倍総理が笛を吹いても、産業界は踊らない。その理由は先に述べたように、設備投資=生産量の拡大は巨大なリスクを伴うからだ。円安にもかかわらず日本の輸出メーカーは輸出価格を為替に連動して引き下げずに据え置き、輸出量は増えないのに為替差益で史上空前の利益を上げるという経営方針をとった。プラザ合意後の2年間で円は倍になったのに日本のメーカーは輸出価格を引き上げずに、国内消費者の犠牲の上で生産量の縮小を防いだ。競争原理に基づく企業の行動は一貫して変わらない。
 現に、「亀山モデル」と称して一時は液晶テレビの業界で世界を席巻したシャープが「亀山モデル」がまだまだ売れると考えて新工場を作ったりして生産設備の増強を図った。が、シャープの計画は空転し、いま企業存続に危機に直面
している。安倍総理が、いくら笛を吹いても日本メーカーはおいそれとは設備
投資に走れない。政府がメーカーに設備投資の増強を迫る以上、何らかの結果責任を政府も負うことを企業に約束しなければ不可能だ。その場合、設備投資=生産量拡大が失敗したときのツケを国民にシワ寄せされたのではたまらないから、政府与党の国会議員が個人資産をすべて投げ出してメーカー救済に当たることを保障すべきだ。安倍さんが何でも自分の思いどおりになると考えていたら、思い上がりもいいところだ。

 さて「旧3本の矢」に比べ、「新三本の矢」に至っては「砂上の楼閣」とすら言えない代物だ。「GDP600兆円(希望を生み出す強い経済)」を実現するにはバブル経済を復活するしか不可能な経済政策だし(実際、エコノミストも呆れ返っている)、「50年後も日本人口1億を維持するために特殊合計出生率1.8を実現する(夢をつむぐ子育て支援)」という計画は、日本が国教をイスラム教に変えて「一夫多妻制」を導入し、かつ子沢山の家庭には膨大な家計費支援を行うようにしなければ不可能な話だ。それ以外に「魔法の杖」などありはしない。
 ただ「3本目の矢」の「介護離職者をゼロにする(安心につながる社会保障)」という政策は、あながち不可能とは言えない。かつて「3K」と言われ、若い人たちから敬遠された仕事があった。「きつい・汚い・危険」の頭文字をとって作られた言葉だが、現在の介護職はまさに「3K」の典型である。そういう職業を
魅力的なものにするには、職場環境を改善し、給料も平均労働者の1.5~2倍に
すれば実現する。安倍総理をはじめとする富裕層に「特別富裕税」を課し、「介護職員支援協会」なる資金援助財団を作って、まじめに介護の仕事に取り組んでいる方たちを優遇する給与システムを構築すれば、おそらく問題は解決する。そういうことをやれば、安倍総理は戦後の最高の栄誉が得られるかもね。自分が総理のうちに、自分自身に対して「国民栄誉賞」を授与しても、国民は反対しないだろう。

「旧・新三本の矢」の話はそのくらいにして、本題に戻る。「憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使しなければ、日本が存立危機事態に陥る」としたケースの検証だ。
 まず最初に明らかにしておくべきことがある。この問題は「まず集団的自衛
権行使ありき」から始まっているということだ。安倍総理は「日本を取り巻く
安全保障環境が激変している」という現状認識を持ちだし、従って「いまや1国だけで自国の安全と防衛を守ることは不可能」であり、「だから日米同盟を強化して抑止力を高める必要があり」そのためには「これまでは憲法の制約によって行使できないとしてきた集団的自衛権を、憲法解釈の変更によって行使できるようにする」というのが安倍総理の論理であり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
 安倍論理が「まず集団的自衛権行使ありき」からスタートしたため、国会での議論はありもしない「想定」を巡って二転三転した。たとえば、「朝鮮半島有
事の際、日本人を救出してくれている米艦を自衛隊が守らなくてもいいのか」
などというマンガにもならないようなケースを(実際安倍総理はそういうマンガ・プラカードを手に説明した)安倍総理は「集団的自衛権行使の1例」として得意げに語った。そのとたん、肝心のアメリカから「有事の際米艦が救出するのはアメリカ人であり、他国人を救出するとしたらイギリス人が最優先だ」とにべもなく否定され、安倍総理は二度とこのマンガじみたケースを語らなくなった。この問題に関連して8月26日には中谷防衛相が「邦人が乗っているか否かは絶対的な要素ではない」と苦しい答弁をして安倍総理の発言との矛盾を指摘され、その後9月11日には安倍総理も「米国と共同作戦をする場合、日本人が乗っていない船を守ることもありうる」と、いとも簡単に前言を翻した。
 またホルムズ海峡での機雷除去も「集団的自衛権行使のケース」として大々的に喧伝したが、公明・山口代表の参院特別委での質問(9月14日)「今のイラン・中東情勢から機雷除去の必要性が想定できるのか」と問われたのに対し、安倍総理は「現実問題としてそういう事態は想定していない」と前言をひっくり返した。この機雷除去問題については野党からも「経済的理由だけで存立危機と言えるのか」と立て続けに質問され、政府は立ち往生した。
 結局、当初安倍総理が想定していた「集団的自衛権行使」のケースは野党の追及の前に次々と崩壊した。そうなると憲法解釈を変更してまでアメリカへの軍事協力を強化しなければならないとした「存立危機」とはどういう事態なのかが問題になった。安倍総理は9月14日の参院特別委で「わが国に戦禍が及ぶ蓋然性は、攻撃国の様態、規模、意志などについて総合的に判断する」と言わざるを得なくなった。
 ちょっと待ってよ。「わが国に戦禍が及ぶ蓋然性」が「集団的自衛権行使」の前提になるのであれば、それは個別的自衛権の範疇ではないか。そして日本1国だけでは戦禍を防ぎきれない場合は、日米安保条約によって米軍が自衛隊に協力してわが国を防衛してくれることになっているはずだ。そのためにわが国は日本防衛のためだけではない在日米軍に基地を提供し、思いやり予算まで「プレゼント」してきたのではなかったか。
 さらに安倍内閣は苦し紛れに「存立危機」とは別に「重要影響事態」なる概念も持ち出した。政府は「放置しておけば日本が攻撃される可能性が認められる事態」と説明するが、想定される「重要影響事態」の具体的ケースについては、とうとう説明しないままで安保法案を強行採決した。中谷防衛相は「存立危機事態、重要影響事態は、最後は政府が判断する」として「切れ目のない」(つまり政府の判断で何でもできるということ)「集団的自衛権行使」が可能になるとした。
 では、そういう現実的可能性がある具体的なケースについて考えてみよう。「イスラム国」(IS)なるテロリスト集団の破壊活動はイラク1国にとどまらず、今や世界中に広がりつつある。すでにアジアでもISは破壊活動を強めており、日本だけが無縁などと考えるのは空想的だ。今すぐにISに対する軍事行動に出るべきだなどと主張するつもりはないが、日本への飛び火を回避する方法と、実際に飛び火した場合の対策は講じておくべきだ。とくに難民受け入れに消極的な日本は国際社会から孤立しつつある。国際社会の要請を受け入れて、日本が難民受け入れに積極的な方針に転換したら、当然日本はISの攻撃目標になりかねない。これは安倍総理が想定してきたような「非現実的」なケースではない。日本が難民受け入れに消極的な姿勢を取り続けている間は、ISの標的になる可能性は少ないと思われるが、いつまでも難民問題に頬被りしているわけにはいかない。
 安倍総理は、中身がまったくない「安保理改革」をキャッチフレーズにして常任理事国入りを目指しているが、常任理事国の資格を国際社会から認めてもらうには、難民問題から目を背け続けているわけにはいかない。そのくらいのことも、安倍総理は理解できずに常任理事国になれると思っているのか。バカもいい加減にしろと言いたい。
 強行採決によって国会では安保法案は成立したが、こんなデタラメな法律を最高裁が認めるわけがない。すべての野党と安保法制に対する反対活動を行っている非政治的国民団体(「シールズ」や「ママの会」など)は、憲法学者や弁護士の提訴に共同原告として加わり、裁判によって安保法制を葬らなければならない。

 私はこれまで何度も書いてきたように「護憲論者」ではない。憲法9条を改正して、日本が国際社会とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に積極的に寄
与できるような集団安全保障体制を構築すべきだ、と主張してきた。もちろん、その集団安全保障体制からアメリカを排除すべきではないし、世界最大の強大な軍事力を擁するアメリカを中心としながらも、アメリカ以外のアジア太平洋の諸国、具体的には韓国、カンボジア、タイ、マレーシア、ミャンマー、インドネシア、ニュージーランド、フィリピン、オーストラリア、カナダ、メキシコ、エクアドル、チリなどは当然、政治体制の異なる中国、北朝鮮、ベトナムなども含めた集団安全保障体制の構築に全力を注ぐべきだと考えている。そういう集団安全保障体制を構築できれば、これまでアジア太平洋地域の「警察官」としての役割を果たしてきたアメリカの負担も大幅に軽減できるし、ことさら沖縄に米軍基地を集中配備する必要もなくなる。
 その場合、この安全保障機能を確実なものにするため、「アジア太平洋連合機構」を作り、どこかの国の平和破壊活動に対しては加盟国の3分の2以上の同意によって、あらゆる非軍事的措置・あらゆる軍事的措置をとることが出来るようにする。もちろんいかなる国にも、国連安保理の常任理事国に与えられているような拒否権は認めない。
 そういうアジア太平洋地域の集団安全保障体制構築の音頭を日本が取れば、日本はアジア太平洋諸国から「平和と安全を最重要視している国」として認めてもらえる。日本の安保理常任理事国入りも、そうした国際貢献活動が国際社会から認められた時に初めて可能になる。そのとき、日本人は戦後、初めて主権国家の国民としての尊厳を取り戻すことが出来るだろう。
 

安保法案成立の意味を改めて検証する。③ & TPPが発効すればアベノミクスは崩壊する。

2015-10-12 04:12:56 | Weblog
 先週(10月5日)投稿したブログで、政治家や学者が思い込んでいた間違いをいくつか明らかにした。思い込み、とは怖いもので、「ウソも100回繰り返せば、本当だと思うようになってしまう」という格言があるように、100回同じウソを繰り返し聞かされれば、真実であるかのような錯覚に陥りやすい人間の弱さの証左と言えなくもない。
 たとえば安保法制の整備が必要だという安倍総理の「論理」は、二つの前提から成り立っているが、同じ説明を100回以上繰り返されれば、メディアや国民の多くも、つい信じ込んでしまいかねない。そのことを明らかにする。
 一つの根拠は「日本を取り巻く安全保障環境は激変し、一層厳しさを増している。中国の海洋進出や北朝鮮の軍事力強化は、日本にとって脅威だ」というものだ。果たして本当にそうか。
 中国の海洋進出とは、南シナ海にある南沙諸島を埋め立てて軍事基地建設を始めたこと差しているが、この軍事基地(未完成だが)は、日本にとって本当に脅威なのだろうか。南沙諸島と一般には言われているが、最大の島でも面積は約0.5km2しかなく、事実上、人が居住し生活できるような島ではない。例えば韓国に実効支配されている島根県の竹島は2島37岩礁からなる総面積0.2km2ほどの広さで、韓国が実効支配しているというが、そこで韓国人が居住し生活しているわけではない。にもかかわらず韓国が武力で侵略しているのは、広大な排他的経済水域〈EEZ〉に埋蔵されていると考えられている海洋資源や石油・天然ガスなどの権利を国際社会に認めさせるのが目的である。もちろん竹島を日本攻撃の軍事拠点にしようなどとはまったく考えていない。
 実は中国が南沙諸島を埋め立てたのは、韓国のように広大なEEZの確保することだけではない。南沙諸島は南シナ海における海上交通の要所であり、かつ南シナ海の制海権・制空権を握ろうという目的も大きい。そのため中国だけでなく、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、中華民国(台湾)がそれぞれ領有権を主張し合って譲らない状況が続いていた。中国だけが南沙諸島の一部に軍事基地建設のための埋め立て工事を行ったかのような主張がなされているが、ブルネイを除く5か国(台湾も含む)が南沙諸島の一部をそれぞれ実効支配しており、軍隊・警備隊も常駐している。中国が南沙諸島を埋め立てたのは、フィリピンが屈辱的な「地位協定」に反発して米軍基地を撤去させ、そのことによって生じた軍事的空白の虚を突いた行為だった。
 安倍内閣は「ホルムズ海峡が機雷で封鎖されたら日本の生命線が脅かされる」などと、現実的にはありえない想定を「集団的自衛権行使」の1ケースとして挙げているが、もし中国が日本に対する敵視政策を取り出したら、ホルムズ海峡が平穏でも南シナ海海域を日本の船舶や航空機が通過できなくなる。ホルムズ海峡をリスクとして考えるなら、中国の南沙諸島埋立もリスクとして「集団
的自衛権行使」の対象にしなければ、論理的につじつまが合わないだろう。中国が日本に対する敵視政策をとり、南シナ海を封鎖することを考慮に入れる必要がないなら、日本を敵視してホルムズ海峡に機雷をばらまく国などありえないことくらい中学生でもわかる話だ。
 もちろん日本に対する敵視政策をとるアラブ諸国がないとしても、政治的にも軍事的にもきわめて不安定な中東地域では、何が生じるかわからないという危惧すべき要素はある。が、そうしたケースであっても、ホルムズ海峡以外に石油を運ぶパイプラインもあり、また数年間分の原油備蓄施設を作る方が、安保法制によってアジア諸国の警戒心をあおるよりはるかに有効だ。
 次に北朝鮮の軍事力強化(ミサイル開発や核武装化)は、日本を敵視した政策ではまったくない。北朝鮮が核不拡散条約機構から脱退して核開発を始めたのは、アメリカがイラン・イラクと並べて北朝鮮を「悪の枢軸」や「ならず者国家」と名指しして敵視政策をとり始めたことがきっかけである。日本は自ら核武装しなくても、「アメリカの核の傘」によって日本は守られていると勝手に思い込んでいるから安心しきっているが、北朝鮮も「いざというときには中国が核の傘で守ってくれる」という安心感が持てたら、多くの国民が貧苦の生活にあえいでいる中で、国民の生活より核開発を重視したりはしない。
 まして北朝鮮は経済再建のためには、日本の資本と技術がのどから手が出るほど欲しいわけで、拉致問題にしても北朝鮮で一般人として暮らしている拉致被害者が見つかったら、とっくに日本に返している。もし生存している拉致被害者がいたら、それは絶対に日本には返せない、それなりの事情を抱えている拉致被害者だ。たとえば北朝鮮の政府高官と親密な関係にあり、国家機密に接しているような拉致被害者がいたら、残念ながら日本に戻ることはありえない。北朝鮮としては、日本に返しても問題が生じない拉致被害者が生存していたら、日本との友好関係を深めるためにも、とっくに返しているはずだ。ただ、そういう結果が生じて北朝鮮から拉致被害者が一人でも帰ってきたら、はっきり言ってアメリカは不快感を示す。日本と北朝鮮が友好関係を結ぶことになったら、アメリカの国益に反するからだ。安倍総理が国益の基軸をどこにおいているのか、さっぱり分からない(ことにしておく)。

 以上、検証してきたことで、安保法制構築の必要性としてきた「日本を取り巻く安全保障環境が激変し、一層厳しさを増している」という現状認識は、まったく根拠のないものだということが理解できただろう。そこまで私は一応検証してきたが、すでに自民・谷垣幹事長が講演会で安保法制の目的について「低下したアメリカの警察力を補うため」と明言しており、また米オバマ大統領も「アメリカは世界の警察ではない」と公言し、軍事費や兵力の大幅な軽減化を
進めていることからも、安保法制の目的は明々白々と言わざるを得ない。「集団
的自衛権行使」を限定的にするため(要するに「歯止め」)として定めた「新3要件」の検証を行う前に、明らかにしておかなければならないことがある。はっきり言わせと貰うと、安倍総理の発言には、具体的説明がない空疎なものが少なくない。
 たとえば「積極的平和主義」。その具体的内容を知っている日本人は、果たして一人でもいるのだろうか。政府要人のなかにもいないのではないだろうか。もしいたとしたら、たとえば自民・谷垣幹事長の講演会での発言のように、政府要人の誰かがついポロッと喋ってしまっているはずだ。が、政府要人のだれからも、「積極的平和主義」とはどういうことなのかの説明がない。
 だから安倍政権の有料広報紙である読売新聞にも「積極的平和主義」の中身が理解できず、韓国のPKO活動に対して武器・弾薬を日本が無償提供しようとしたことを、つい1面トップ記事で「これが安倍総理の言う積極的平和主義なのか」とうがった記事を書いたほどだ。事のついでに、肝心の韓国からは「日本の援助などいらない」と「贈り物」を突き返されてしまったが…。
 いずれにせよ、「積極的平和主義」活動なるものがどういう行為を指しているのか、日本人にはさっぱり分からないが、海外の友好国の政府要人からは「大いに支持された」(安倍総理)ようで、海外の政府要人には具体的中身をたぶん話しているのだろう。ということは、日本人には知られたくないことを海外要人には「絶対口外しない」という約束を取り付けたうえで話しているのかもしれない。海外の政府要人は、「積極的平和主義」の内容も分からずに「大いに支持」したりするほどバカではあるまい。
 また先ほど行われた国連総会で、安倍総理は常任理事国入りを切々と訴えたようだが(アメリカは一応支持する姿勢を示しているようだが、露・中が絶対に拒否権を行使することが分かっているからだ)、安倍総理は常任理事国入りと同時に「安保理改革」も国連総会で訴えた。が、この「安保理改革」も、中身がまったく分からない。安保理をどう改革したいのか、やはり常任理事国入りを目指しているドイツやインド、ブラジルの政府要人には説明しているのかもしれないが、私たち日本人には「何をどう改革したいのか」がさっぱり分からない。「安保理改革」と言えば聞こえはいいが、「積極的平和主義」と同様、中身はまったく空っぽとしか言いようがない。

 それはともかく、憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使できるケース「存立危機事態」についての検証を行おう。いわゆる存立危機事態に相当するケースとは、日本が直接攻撃を受けていなくても、他国(アメリカなど)への攻撃が日本の存立を脅かす「明白な危険がある」と(政府が)考えた場合には、
憲法解釈の変更によって、(72年政府見解では)行使できないとされた集団的自
衛権、すなわち自衛隊の海外での「実力」(武力)を行使できるようにするというものである。で、衆参両院の特別委で議論されたのは、①「具体的にどういうケースが存立危機事態に当たるのか」②「政府の恣意的な判断で自衛隊の海外での実力行使ができるようになる可能性がある」という2点である。
 まず論点が分かりやすい②から検証する。
 野党8党のうち、次世代の党、日本を元気にする会、新党改革は、基本的に安保法案に賛成したうえで「修正案」を参院特別委に提出した。安保法案とは国連平和支援法や自衛隊法改正、PKO協力法、武力攻撃事態対処法、米軍等行動関連措置法など安保法制に関わる10本の法律(改正法を含む)を一つにまと
めた「平和安全法制整備法案」である。政府は国会審議に衆参合わせて220時間を費やしたと主張するが、個々の法律10本に換算すれば、1法案についてはわずか22時間しか費やしていないことになり、国民の圧倒的多数は「審議不十分」と見なしている(各メディアの世論調査による)。
 それほどまでに安倍政権が安保法制の成立を急いだのは、メディアによれば「安倍総理が訪米の際、オバマ大統領に対して今年夏までには法案を成立させる」と約束し、アメリカが安倍総理の約束を前提に軍備を縮小し、かつ兵力も大幅に減少する計画を推進することにしたからだという。アメリカが財政立て直しのために軍事費を大幅に軽減し、そのことによって弱まった米軍事力を補うことが、安保法案成立を急いだ理由だ、といううがった見方もあるが、それを裏付ける公文書はまだ公表されていない。ただ、自民・谷垣幹事長が講演会で「安保法制の目的は低下しているアメリカの警察力を補完すること」と明言したことはNHKがニュースで録画報道しており、谷垣氏の立場からして状況証拠としては相当の重みを持っていると考えてもいいだろう。 
 それはともかく、その時点の政府の恣意的判断で集団的自衛権行使に踏み切る可能性は、だれが考えてもありうることで、そのため次世代など野党3党は、安保法制には反対しないものの、集団的自衛権行使の要件として「例外なき国会の事前承認」を「修正案」として提出したのである。が、参院特別委の土壇場で、この「修正案」を与党がのまなかった。
 与党がのまなかったのは当り前の話で、突然「日本の存立危機事態」(※与党が言う「存立危機事態」を私が認めているわけではない。ただ、そうした状況が生じた場合の現実論として私は書いていることをお断りしておく)が生じた場合、集団的自衛権を行使すべきか否かを長々と国会で審議している余裕などありえない。そんな余裕があるくらいなら、そもそもそういうケースは政府が言う「存立危機事態」に該当しない。たとえば、これは①でさんざん議論されたことだが、日本の防衛活動を行っている米艦隊が他国から攻撃された場合、
自衛隊が米艦を防護すべきか否かを国会でのんべんだらりと審議などしていた
ら、アメリカの日本に対する信頼感は一瞬にして喪失する。つまり、いざとい
う時、アメリカは頼りに出来なくなることを意味する。
 で、与党は国会の「例外なき事前承認」はあくまで拒否し、かといってせっかく歩み寄ってきた野党3党の顔も立てる必要があり、「国会での事前承認を原則とするが、政府が閣議決定などを行うことで国会関与を強化する」という玉虫色の合意で野党3党の支持を取り付けた。しかしこの合意が安保法案に盛り込まれたわけではなく、従って法的拘束力もない。ま、3党のご機嫌を損ねないよう「口約束」というアメ玉をしゃぶらせて、とりあえず与党の単独採決という事態を回避したというのが真相だ。
 野党3党が参院特別委で法案に賛成したため、菅官房長官は「強行採決では
ない」と強調しているが、そう考えているのは菅官房長官くらいで、「単独採決」と「強行採決」を同意語と本当に思っているなら、菅氏は小学校高学年の「国語」の授業から日本語を勉強し直してきなさい。

 次に①の「存立危機事態」というのはどういうケースなのかが、国会で紛糾した。国会審議の大半は、この議論に費やされたと言っても過言ではない。が、ここまでで今回のブログの文字数(実数)はすでに5200字を超えた。私のブログの読者を焦らせるつもりではないが、野党もメディアも理解できなかった安保法制の真実の検証は、次回のブログで書くことにする(続く)。

(追記)実はこのブログは8日には書きあげていた。が、9日にTPP交渉が大筋合意に達したというニュースが流れた。賛否両論が飛び交う中で、どうしても書いておかなければならないことがある。
 いかなる政策・外交も、日本(国民・産業)にとってだけ都合がいい、などということは絶対にありえないという現実を、私たちは基本的発想法として理解しておく必要がある。日本だけでなく、いちおう「民主主義国家」は間接民主主義(代表民主主義とも言われる)を採用している。様々な政策や外交関係のすべてを、国民投票で決定するなどということは事実上不可能だからだ。そのため選挙で選ばれた議員(今回は国会議員に絞って書く)の多数決であらゆる政策や外交関係が決められていく。政策(とくに法律)は一応国会の採決で決められるが、外交関係はほとんどのケースを政府が決めている。これが間接民主主義の最大の欠陥でもある。
 その欠陥は、すべての「民主主義国家」に共通した問題でもある。しかし多くの民主主義を標榜する国では(特に欧米先進国)、日本の国会のような「強行採決」が行われない仕組みにしている。民主主義が絶対に克服できない「多数決原理」の欠陥を少しでも修正しようという試みが行われているからだ。
 その試みとは、「党議拘束」を議員に対してかけないというものだ。たとえば9日に大筋合意に至ったTPP交渉では、主導権を握っていたアメリカで、オバマ大統領が属する民主党が「アメリカの国益が守れない」と猛反発している。自らが属している民主党の支持が得られないため、オバマ大統領は「自由貿易主義」をモットーにしている共和党と手を組むことにした。アメリカがTPP交渉に参加している、主に新興国の主張に大幅譲歩したことによって、TPP交渉は大筋合意に達した。
 こういうケースを日本に当てはめれば、安倍総理が自民党の反対を押し切るため、民主党や維新の党など野党と手を組んで政策を実現することを意味する。が、そんなことは日本ではありえない。いくら安倍総理が強権体質の持ち主であっても、肝心の自民党の合意なくして勝手に安保法制を法案化することなど不可能だからだ。なぜか。「党議拘束」という欧米先進国には見られないシステムが日本では、なぜか採用されているからだ。はっきり言えば、日本の政党は「非民主的組織」なのだ。「物言えば唇寒し秋の風」が日本の議員の鉄則なのだ。
 とくに「政党助成金」などというバカげた政党へのバラマキ制度を作ってしまった結果、日本の政治は「共産主義化」してしまった。政党助成金を一切受け取らない日本共産党は、そういう意味では実に立派な政党といっても過言ではない(誤解されると困るので、私は共産党支持者ではない。その最大の証拠は、私は「護憲派」ではなく「改憲派」であることで十分だろう)。
 それはともかく、TPP交渉の大筋合意に同意した日本は、たいへんな政策矛盾を抱えてしまった。そのことに気付いているメディアも政治家も、残念ながら皆無である。
 安倍政権が誕生したのは2012年12月の総選挙の結果である。安倍内閣は日本経済再建を最大の政策目標に掲げ、国民も大いに期待した。が、この時点での安倍内閣の経済政策は「3本の矢」ではなく二つだけだった。
 一つはデフレ脱却のための「大胆な金融政策」、つまり日銀・黒田総裁による金融緩和と円安誘導によって、日本産業界(輸出産業)の国際競争力回復を目的にしたものだった。結果、自動車や電気など輸出メーカーは史上空前の利益を計上したが、輸出量(例えば自動車の輸出台数)はまったく回復しなかった。輸出メーカーが史上空前の利益を計上できたのは、円安による為替差益が大幅に増えたからにすぎなかった。つまり「国際競争力の回復」という本来の目的から考えると、「大胆な金融政策」は完全な失敗に終わったことを意味する。
 二つめはバラマキ公共工事による、経済活性化と雇用の増大を目的とした「機動的な財政政策」である。その結果、建設業界は、やはり史上空前の利益を上
げたが、あらゆる建設関連事業のコストが膨大に上昇し、入札ゼロの公共工事計画が続出し、予算は計上したものの発注できないという事態が全国各地で生じた。その典型が、新国立競技場が建設できないという事態を生み、予算を再編成して白紙から計画をやり直すという、みっともない状態が生じたことは、国民すべてにとって周知の事実である。この計画を推進した文科省の責任者は、それなりに責任をとらされたが、最高責任者である元総理は居座り続けている。
 安倍政権が誕生したときの経済政策は、この2本柱だけである。後に「アベノミクスの3本の矢」と称されるようになった3本目の矢である「成長戦略」なる魅力的なキャッチフレーズは、2013年4月19日に行われた日本プレスクラブでの安倍総理の会見が初出とされている。が、この時点では「成長戦略」なる政策は、誰にも中身がまったく分からなかった。「積極的平和主義」や「安保理改革」と同様、内容ゼロのキャッチフレーズでしかなかった。
 また、成長戦略なるキャッチフレーズは安倍総理が考え出したものですらなかった。2009年7月の総選挙で歴史的な大勝によって誕生した民主党政権(鳩山内閣)が、政権獲得後に「規制緩和」などを柱にした「成長戦略」というキャッチフレーズを打ち出している。成長戦略などという言葉は、おそらく特許庁に出願しても「商標登録」は出来なかっただろうが、少なくとも民主党時代につくられ、すでに手垢がついた言葉を「アベノミクスの3本の矢」と誇らしげに語るのは、一国の総理としていかがなものか。
 さて、TPP交渉の大筋合意問題に戻る。もうすでに7500字を超えているので、このブログでは要点だけ述べることにする。詳しい分析と検証は、加盟各国が批准して発効が確実になった時点で行う。
 さてTPPが発効すれば、当然のことだが輸入食料品の価格は軒並み下落する。つまり、少なくとも食料品に関しては「超デフレ」が始まることを意味する。家計の支出に占める食料費の割合である「エンゲル係数」が、食料品のデフレ下によってどう変化するか、今後の経済政策を考える上で極めて重要な要素を占めることになる。
 実は14年度の日本のエンゲル係数は24.3%に達し、21年ぶりの高水準になったことが総務省の調査で明らかになった。エンゲル係数は家計のゆとり度を示す基準値で、数値が高いほどその国の生活水準や文化的生活レベルが低いとされている。つまり、日本のエンゲル係数が急上昇したということは、日本人の生活水準が下がり文化的生活レベルが低下したことを意味する。
 その理由は、はっきりしている。14年4月の消費税増税と、政府・日銀の円安政策によって輸入食料品が高騰し、その結果、購入を減らすことが出来ない食料品に対する支出が増大したためだ。
 もう一つ、重要な指標がある。日本人の人口構成だ。安倍総理は「アベノミ
クスの新3本の矢」を掲げ、政策の軸足を「日本の安全保障環境の再構築=日
米同盟の強化による抑止力の向上」(安保法制)から、再び経済政策に移そうと
している。このブログでは「新3本の矢」の検証をする余裕がないので、後日
行うことにするが、安倍総理は「希望出生率1.8」を掲げている。公約ではなく「希望」にすぎないから、どうせなら「希望出生率2.5」くらいの大ボラを吹いてみたらどうか。どうせホラを吹くなら、でかいホラのほうがいいぜ。
 真面目な話に戻る。つい最近5年ごとの国勢調査が行われた。まだ正確な統計数値は出ていないが、総務省が推計した今年9月1日現在の日本人の人口総数は1億2685万人。年齢別の内訳も公表されているが、あまり細かい数字を並べても意味がないので、大きく3段階に分ける。
●0~19歳…2207万人(日本人総数に占める割合は17%)
●20~64歳…7098万人(同56%)
●65歳以上…3380万人(同27%)
 いちおう大雑把に、日本経済を支えている人口を20~64歳とすると、ほぼ一人が一人の子供や高齢者の生活を支えていることになる。実際に何らかの仕事をして、その報酬として収入を得ている人は全人口の40%に満たないのではないかと考えられる。TPPが発効したのちの猛烈な食料品デフレを、金融政策で防ごうとすれば(少なくともアベノミクスの金融政策は円安誘導に軸足を置いている)、180円くらいまで円を売り続ける必要があるかもしれない。日銀も、日本財政を破滅させるような金融政策を実行できるだろうか。私はエコノミストではないから、緻密な計算はエコノミストに任せるとして、論理的な考え方を示すだけにとどめる。今回のブログも長文になってしまい申し訳ない。

安保法案成立の意味を改めて検証する。② 「砂川判決」は無効だ。

2015-10-05 07:42:56 | Weblog
 9月21日に投稿したブログの続きを書く。先のブログでは「次は集団的自衛権解釈のデタラメさを再度検証する」ことをお約束したが、今回のブログで書き切れるかどうか、いまのところ私にもわからない。
 とりあえず通説では、「集団的自衛権」は1945年6月に作成された国連憲章の第51条(「自衛権」)において初めて明文化された国際法上の権利である、とされている。憲章51条には、こう書かれている(抜粋)。
「国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間(※安保理が紛争を解決するまでの間)、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない(※攻撃を受けた国が、自衛のために個別的又は集団的な武力を行使する権利がある)」
 では、国連憲章で初めて国際法上の権利として集団的自衛権が認められたとするならば、集団的自衛権とともに国連憲章で明文化された「個別的自衛権」は、いつ国際法上の権利として認められたのであろうか。こういう、だれもが常識と思い込んでいる些細なことに疑問を持つことが、物事を論理的に解明するきっかけになるのだ。たとえばリンゴの実が木から落ちるのを見て、ニュートンが「万有引力の法則」を発見したという話は、あまりにも出来すぎた寓話だが、私がブログでつねづね「幼児のような素朴な疑問を持つことが物事を論理的に解明するきっかけになる」と書いてきたのはそのためだ。
 かく言う私が、これまで何十回も集団的自衛権問題に取り組みながら、実は「では個別的自衛権はいつ国際法上認められたのか?」という素朴な疑問を持ったのは、つい最近であることを正直に告白する。「素朴な疑問を持つ」ということは、はっきり言ってそれほど容易ではないということの証左でもある。
 なお「集団的自衛権」について、現在のウィキペディア(この2年間、この項目については何回も書き換えられている)ではこう解説している。
「個別的自衛権(自国を防衛する権利)は同憲章成立以前から国際法上承認された国家の権利であったのに対し、集団的自衛権については同憲章成立以前にこれが国際法上承認されていたとする事例・学説は存在しない」
 ホントかね…?
 私はさっそく「個別的自衛権」をキーワードにしてネット検索した。が、肝心のウィキペディアにはこの項目がなかった。私的な勝手解釈は外して、いちおう権威が認められている辞書・辞典(4冊)の個別的自衛権についての解説を引用する。先に引用したウィキペディアの「個別的自衛権は同憲章(※国連憲章)成立以前から国際法上承認された国家の権利であった」という解説が「真っ赤なウソ」であることが明らかになった。ウィキペディアはだれでも書き込むことが出来るが、内容のチェックはきわめて厳しく、「独自研究のおそれがある」とか「出典が全く示されていないか不十分」などの注釈が加えられるケー
スがしばしばある。メディア関係者はそのことを百も承知で、だからあまりウィキペディアを信用していないようだが、それは単にウィキペディアの解説に含まれている、ウィキペディアの編集部ですら見落とすような「ウソ解説」を見抜く力がないだけのことだ。余計な話は置いておくとして、4つの辞典・辞書の「個別的自衛権」の解説を列記する。
●ブリタニカ国際大百科事典…国連憲章上の用語で、武力攻撃を受けた国が、必要かつ相当な程度で防衛のために武力に訴える権利。
●デジタル大辞泉…国連憲章51条で加盟国に認められている自衛権の一つ。自国に対する他国からの武力攻撃に対して、自国を防衛するために必要な武力を行使する国際法上の権利。
●大辞林(第3版)…自国に加えられた侵害に対して国家が行使する防衛の権利。国際法上、国家の基本的権利とされる。
●世界大百科事典…第2次世界大戦後の国際連合憲章(1945年6月締結、同年10月発効)は、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を……慎まなければならない」(2条6項)として、事実上の戦争をも禁止することで戦争の違法化を大きく前進させた。しかし憲章は、加盟国の「個別的自衛権」を承認するとともに新しく「集団的自衛権」を認めたために、自衛権を名目とする武力行使の可能性が広がった面のあることは否定できない。
 上記4辞典・辞書のうち大辞林のみが個別的自衛権を国家の基本的権利とした国際法を具体的に特定していないが、他の3辞典はすべて個別的自衛権を初めて承認した国際法は国連憲章であると断定している。つまり「集団的自衛権」についてのウィキペディアの説明「個別的自衛権(自国を防衛する権利)は同憲章成立以前から国際法上承認された国家の権利(※この説明が嘘っぱち)であった」は、根拠がまったくないデタラメな解説だったのである。
 また同じ筆者が書いたとは思えないが(と言うのは集団的自衛権についての解釈が違うので)、ウィキペディアでは項目によって微妙に違う説明がされている。その項目は「集団的自衛権」と「自衛権」である。
●『集団的自衛権』…ある国家が武力攻撃を受けた場合に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。(※実はこの解説は2年前とはまったく違う。2年前には1972年政府見解として示された「自国が攻撃を受けていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、自国が攻撃を受けたと見なして武力行使を行う権利」と解説していた)
●『自衛権』…自国を含む他国に対する侵害(※自国も侵害されることが権利を行使できる要件にしている)を排除するための行為を行う権利を集団的自衛
権といい、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利である個別的自
衛権と区別する。
 では安倍内閣が、安保法制の前提としている「集団的自衛権」とはいかなるものか。まず従来の集団的自衛権の定義と憲法の関係についての政府見解(1972年)を改めて明らかにしておこう。
「集団的自衛権とは自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある他国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力をもって阻止する権利で、国際法上わが国も固有の権利として有しているが、我が国の場合憲法の制約によって行使できない」
 というものだった。実は現行憲法を厳密に読めば、集団的自衛権のみならず個別的自衛権すら日本は持てないことになっている。現行憲法は1946年11月3日に公布され、半年後の47年5月3日から施行され、今日に至るまでいっさい改正・修正は行われていない。
 吉田内閣が現行憲法の承認を国会に上程したのは46年6月25日である。この時点ではまだ国会の承認を得ていないので、上程されたのは「憲法改正草案」である。そしていわゆる「平和憲法の象徴」とされている9条も草案に盛り込まれていた。当然日本が他国から攻撃された場合、どうするのかという指摘・疑問が野党から投げかけられた。
 たとえば日本進歩党の原夫次郎議員の「自衛権まで放棄するのか」との質問に対して吉田首相は「(9条)第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁している(6月26日)。
 さらに共産党の野坂参三議員が「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」と主張したのに対して、吉田首相は「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」と応じた(6月28日)。
 また社会党の森三樹二議員の「戦争放棄の条文は、将来、国家の存立を危うくしないという保証の見通しがついて初めて設定されるべきものだ」との主張に対して吉田首相は「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として、相当の制裁が加えられることになっております」と答弁している(7月9日)。
 但し、吉田内閣が国会に上程した憲法草案が、一言一句修正されずに承認されたわけではない。民主党の芦田均議員が「草案のままだと、いかなる戦力も無条件に保持しないことになってしまう」と異議を唱え、第2項に「前項の目的を達するため」という「但し書き」を付けさせた(いわゆる「芦田修正」)。
 これが憲法9条制定を巡っての与野党の主要な対立点であった。こうしたや
り取りの中で現行憲法が制定されたことを、いまの政治家はすっかり忘れてい
るようだ。大宅壮一氏は「1億総懺悔」なる名言を残したが、現在の日本人は政
治家だけでなくメディアも含め、「1億総健忘症症候群」にかかっているようだ。
 ことのついでに、与党が安保法制の合憲性の根拠としてしばしば強調している「砂川判決」だが、いいとこ取りどころか、こんな呆れた解釈はどうやったら出来るのかと、私はつくづく感心している。もちろん、最大の皮肉を込めてだが…。多少横道にそれるが、「砂川判決」について検証しておこう。

 1957年7月、米軍立川基地の拡張計画に反対した全学連の学生たち数名が基地内に立ち入り、逮捕された。この事件が裁判で争われ、第1審の東京地裁は「安保条約及びそれに基づく米軍の駐留は憲法9条に違反している」として基地に立ち入った学生たちを無罪とした(伊達判決)。この判決に顔色を変えたのがアメリカ政府だった。
 日本は1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約に調印して独立を回復すると同時に、日米安全保障条約(旧安保)を締結した。その翌年2月に「日米行政協定」(1960年6月に改訂された新安保で「日米地位協定」と改称)を結んだ。この協定は世界各国の在留米軍に適用されたため、9月24日に投稿したブログで明らかにしたように、日本政府を除き、主権国家としての矜持を持つ韓国やフィリピンから米軍は撤退を求められ、南シナ海が軍事的空白状態になったため中国が「これ幸い」とばかりに勝手に「自国の領土」と主張し、南沙諸島に軍事基地建設のための埋め立て作業を行ったのである。「地位協定」問題については、この連載ブログではこれ以上立ち入らない。とにかく米軍基地に配属された米兵が犯した犯罪に対する第1次裁判権が、日本にはないことだけ指摘しておく。
 さて「伊達判決」に顔色を変えた米政府は直ちに日本政府に圧力をかけ(具体的には駐日大使のダグラス・マッカーサー2世が藤山愛一郎外相に対して、高裁を経ないで最高裁に跳躍上告を迫ったこと)、また信じがたいことだが田中耕太郎・最高裁長官を大使館に呼びつけ、ウィリアム・レンハート駐日主席公使が米軍基地の合憲性判決を要求したようだ。これら一連の「会談内容」が公文書に残されており、たとえば憲法学者の水島朝穂早大教授は、「司法権の独立を揺るがすもの。ここまで対米追従がされていたかと唖然とする」と呆れかえっている。
 いずれにせよアメリカの監視下で開かれた最高裁は1959年12月16日、伊達判決を取り消した。最高裁が下した判決文の重要な個所を引用しておく。
「憲法9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が
禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍
隊は(日本の)戦力には当たらない。他方で、日米安全保障条約のように高度
な政治性を持つ条約については、一見して極めて明白に違憲無効と認められな
い限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことが出来ない」
 一方、同判決は「自衛権」についてこう述べている。
「わが国が主権国家として持つ固有の自衛権は何ら否定されるものではなく、
わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」「わが国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然である」ともした。
 この判決は、明らかに憲法制定時における吉田内閣の「自衛のための戦力保持も9条2項で否定されている」という位置付けを真っ向から否定した判決である。ならば、なぜ最高裁は「現行憲法自体が占領下において制定されたものであり、独立後も存続されたこと自体、政治の怠慢と言わざるを得ない」と憲法改正を要求しなかったのか。要するに、砂川判決はアメリカの言いなりになって苦し紛れの矛盾だらけのものになったとしか言いようがない。だから、そうした矛盾を補完するためか、日本独自の自衛力の保持について憲法上許容されているか否かは明らかにできなかった。そして「(憲法が)その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使うる戦力をいう」とした。つまり自衛隊は「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使うる戦力」ではないという、世界史上類例を見ない位置付けをしたのだ。
 この砂川判決の結果、自衛隊はどういう位置付けの存在になったか。
 自衛隊は、自衛のための必要最小限の「実力」であり、憲法9条が禁じた「戦力」には該当しないという、これまた世界史上類例のない定義が定着することになった。自衛隊が「戦力」でないなら、自衛隊が保有する自衛手段である武器・弾薬類は、いざというときに日本を防衛できない「竹光」でしかないことを意味する。つまり自衛隊が保有する武器・弾薬は、見かけ上敵を撃退するためのもののように見えるが、実態は「紙鉄砲」や「紙玉」でしかないことを意味する。幕末、徳川幕府が米艦隊の来襲に備え、鐘を逆さに並べて大砲に見せかけたようなものだ。論理的には、そうとしか解釈のしようがない。
 なぜ「砂川判決」は、「自衛のための最低限の戦力を保持できるように、現行憲法を改正すべきだ」という9条の根幹にかかわる判断を示せなかったのか。日本が再独立を果たした時に、経済力回復を最優先して、主権国家としての最低の義務である「自衛力の保持」を認める新憲法を制定しなかった吉田内閣の国家的犯罪に匹敵するほどの、「砂川判決」は国家犯罪的判決だった。

 このように「砂川判決」の経緯を検証すれば、安倍内閣の「憲法解釈の変更
によって集団的自衛権行使を可能にする」という目論見が、論理的には完全に破たんしていることが誰の目にも明らかになるだろう。にもかかわらず、なぜ安倍総理は無理を承知で「集団的自衛権の行使」にこだわるのか。憲法学者や弁護士の大半が「違憲」と判断しており、違憲訴訟が全国で一斉に起きることは間違いないが、安倍総理が目指している集団的自衛権行使は現行憲法下では「違憲」ということであって、憲法学者や弁護士たちが必ずしも「護憲勢力」とは言えない。かく言う私も「護憲派」ではないし、国際社会に占めている日本の地位に伴う責任(国際、とりわけアジア太平洋地域の平和と安全の維持のために行うべき貢献)まで否定しているわけではない。(続く)

※実は週刊誌の4ページ特集記事の本文文字数(実数)は約5000字である。これが、読者に耐えられる文字数の限界のようだ。このブログはすでに文字数(実数)が6200字を超えた。中途半端になったが、これ以上長文のブログの閲覧を読者に強いるのは、私としては心苦しい。続きは来週の月曜日(12日)に投稿する。