小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

オバマ大統領は「イスラム国」攻撃理由を個別的自衛権とした。安倍さんの集団的自衛権論の根拠が崩れた。②

2014-09-30 06:56:48 | Weblog
 実は当然のことだが、メディアも政党も一枚岩ではない。完全に一枚岩に見える日本共産党でも、党員に対しすべて「赤旗」の主張に従え、などとは強要していないし、むしろ独裁権力の長期化を防ぐために宮本独裁体制以降、不破体制を経て現在は志位委員長と山下書記局長の二重権力構造にするなど、権力の長期化による腐敗を防ぐ体制を模索しているくらいだ。
 たとえば、11日の午後7時30分から行われた朝日新聞の木村社長の引責辞任表明も、BSフジのプライムニュースでの録画中継を見てすぐ読売新聞読者センター電話をして「これは事実上の引責辞任表明だ。木村社長は理由について慰安婦報道や池上氏の原稿掲載拒否なども含めてごちゃごちゃ言っているが、そんなことで社長が引責辞任するわけがない。引責理由はたった一つ、吉田調書のねつ造記事だ。間違えないように」と申し入れた。
 翌12日早朝、私はブログ『朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ』を投稿して、事ここにまで至っても、もがき続ける朝日新聞の体質への批判もしたが、当日の朝刊各紙で木村社長の記者会見が「事実上の引責辞任である」こと、さらにその原因が一連の慰安婦報道問題ではなく、吉田調書のねつ造記事にあることを指摘したのは読売新聞だけだった。が、その読売新聞ですら、その後「吉田調書誤報」と見出しで書いたり、メディアもようやく引責辞任表明だということは理解したようだが、依然としてよく理解していないメディアもあるくらいだ。
 私は朝日新聞が8月5,6日の両日にわたって慰安婦報道が誤報であったことの検証記事を書いた翌日(7日)のブログでこう書いた。当時私は民主主義をテーマにしたブログを連載中であり、タイトルでは朝日新聞の誤報問題には触れなかったが、当日のブログの最後にこう書いている。

(今ごろになっての誤報検証記事の掲載は)何を意味するのか。朝日新聞内部の権力闘争の結果なのか。よく分からん。
 誤報の訂正はいいが、誤報だということはとっくに明らかになっており、当時の記事のどの部分が誤報で、なぜ誤報に至ったのかの検証をする必要が、20数年後の今頃になって、「なぜ突然生じたのか」の説明責任を果たすことのほうがはるかに重要なはずだ。
 他紙によれば、この「訂正記事」について、朝日新聞広報部は「特にコメントすることはありません」と取材を拒否したようだ。他紙もだらしがないのは、
朝日新聞広報部の「特にコメントすることはありません」というコメントを紹
介しただけで、それを「取材拒否」と報じなかったことだ。
「言論の自由」は最高に優先度の高い自由だと書いた(※この連載ブログで何回も書いた)。が「最高に優先度が高い自由」だということは、「それに伴う責任も最高に重い」ことを意味している、と考えるのが常識人だと思うのだが、「言論の自由」だけを声高に主張して、それに伴う「責任の重さ」については無自覚なメディアの体質が問われざるを得ない。それは朝日新聞だけのことではないからだ。

 はっきり言えば、誤報とねつ造は、「でき心による万引き」と「綿密に計画を立てての強盗」との差ほどに大きいメディアの「犯罪」である。誤報など根掘り葉掘り掘り返したら、どのメディアでも毎日あると言っても差し支えないほどだ。
 前にもブログで書いたが、記者も人の子、事実でさえ色眼鏡をかけて見る。極端な例で説明すると分かりやすい。赤信号を真っ赤なレンズの色眼鏡をかけて見たら、赤信号は赤信号として見えなくなる。私自身も人の子だから、独りよがりの非常識な主張をする可能性を否定しない。問題はそうした自覚をどれだけジャーナリストが有しているかによって、おかしな記事が紙面を飾ることになりかねない、という事実にどう正面から向かい合うかだ。
 私は原則として土休日を除く平日は、一人でこのブログを投稿している。しばしば独断と偏見でメディア批判をするので、誤報やねつ造にならないよう、可能な限りの事実確認と検証を重ねながら書いている。メディアの方はウィキペディアがしばしば誤った解説をしていることは承知されているが、解説に問題があると編集者が判断した場合は、解説記事の冒頭にその旨が記載されているし、しばしば書き換えられることもある。たとえば集団的自衛権問題など、この1年間でどれだけ書き換えられたり補足されたりしたか、政治部の記者ですらご存じないのではないか。一度目を通したら、それで理解したつもりでいると、すでにその時の理解が色眼鏡になって、自公両党のせめぎあいだけに関心が移ってしまい、政治家が打ち上げるアドバルーンを鵜呑みにして記事にしてしまう。誤報というのは、そうして作られる。
 政治家、とくに閣僚級や党の幹部の発言には、必ず裏がある。そのくらいのことは政治部の記者なら常識として分かっているのだが、色眼鏡の色によって発言の裏を読み間違えることはしばしばある。
 いまから書くことは、場合によっては私のブログが非難の対象になりかねない可能性が低くない。それを覚悟の上で、あえて書く。やはりどうしても、この視点だけはないがしろにできないと思うからだ。
 朝日新聞の、福島原発事故の際に第1原発の所員の9割が第2原発に避難したことの報道が「ねつ造」になってしまったのかの重要な検証をする。この検証にはいくつかの要素を個別に検証する必要がある。

① 本当に所員の9割が被害の拡大を防ぐ使命を果たさずに、自分の身を守るために第2原発に避難したのかの事実確認。
② 避難したとして、避難するために所員が利用したであろう交通手段についての報道の事実確認。
③ 所員が避難したとして、その避難は所長(吉田氏)の命令(現場にとどまれ?)に違反した行動だったのか。
④ 吉田調書によれば、吉田氏は「現場(第1原発内)での待機」を必ずしも厳密な形では指示していないように思えるが、なぜ吉田調書を読み誤ったのか。読み誤ったことを、朝日新聞はすでに明らかにしているが、なぜ記者が読み誤り、読み誤って書いた記事の検証をだれもしないで紙面に掲載したのか。少なくとも朝日新聞は、実名を出さなくてもいいから、最初に記事を書いた記者がなぜ吉田調書を読み誤ったのか、そして記者が書いた原稿が社内で一切検証されずに1面トップを飾る「スクープ」記事になってしまったのはなぜか。少なくとも朝日新聞自身がねつ造だったと認めている以上(朝日新聞は「ねつ造」という表記はしていない「誤った」としか表記していない)、ねつ造記事が1面トップを飾ったプロセスのすべてを解明して読者に明らかにする必要がある。その検証作業をせずに木村社長を初め報道局や編集局の最高責任者の処分で事を収めるというのは「トカゲの尻尾切り」ならぬ「トカゲの頭切り」で、事態を収拾しようという姑息な方法にほかならない。
⑤ これから書くことが一番自重要な視点だが、はっきり言えばねつ造をしないメディアはない。情報源を特定しない「政府高官」とか「関係者」の発言は99%、ねつ造と考えてよい。ということは、朝日新聞のねつ造問題に関して言えば、朝日新聞は情報源を特定していなければ「ねつ造騒ぎ」を免れることができたのである。この記事で一番重要なことは、「第1原発の所員の9割が現場を放棄して第2原発に避難して、被害の拡大を招いた」ということである。「所長の命令に違反した」と、事の重大性についての認識を、記者の色眼鏡の色によって、問題の重要性への告発がとんでもない方向に向かってしまったという点にある。つまり、朝日新聞は吉田調書を根拠にせず、「関係者の話によれば、第1原発の所員の9割が現場を放棄して第2原発に避難し、第1原発事故の拡大を招いたということだ」という記事にしていれば、逃げた所員が9割ではなく7割であったとしても、ねつ造にはならなかった。そんな程度の誤報をメディアは「誤報」と考えていないから、いちいち記事の取り消しをしたり、訂正記事を出す必要性などなかったということである。
 
 26日、弁護士9人が「命令違反で撤退」という記述と見出しが間違っていたとして朝日新聞が記事の取り消しを報じた件で、朝日新聞社と同社の第三者機関「報道と人権委員会」に対し、「関係者の不当な処分がされてはならない」と申し入れた(他に弁護士191人が同意しているようだ)。
 申し入れ書では「命令違反で撤退したかは解釈・評価の問題」「不当な処分がされれば、知る権利や真実の公開のために努力している記者を委縮させ、民主主義を危機にさらす」とし、事実に基づいた検証が行われることを求めたという。
 さらに25,6の2日間にわたって松江市で開かれていたマスコミ倫理懇談会で「メディア同士の過剰なバッシングは報道の信頼度を傷つけ、公権力の介入を招く恐れがある」との意見が出たという。つまり「仲良しクラブの村社会」の崩壊は避けようということ。週刊誌は別として、少なくとも新聞、テレビは今後、朝日新聞批判をやめるという宣言に等しい。真実は闇の中に葬ることで、停戦に合意したということだ。
 朝日新聞は13日付朝刊で「吉田調書を含め関係者の証言や記録の吟味は、日本の今後の原子力行政に欠かせない作業だとも考えています」と述べた。
 だとするならば、小渕優子経産相の就任記者会見での発言「安全が確認され次第、原発の再稼働に取り組んでいきたい」との関連で、御嶽山の噴火を予測できなかった自然災害に対する予知科学の限界をどう考えるのか、朝日新聞としての明快な主張をしてもらいたい。
 さらに、これまで私が何度もブログで書いてきた対ロ制裁が、北方領土問題だけでなく、エネルギー安全保障、さらに日本産業界にとってのビッグチャンス、また軍事的安全保障の面においても、日本にとっては「タナボタ」どころか「棚から金塊」のようなチャンスが転がり込んできたのに、その「金塊」を拾おうとしない安倍外交をどう評価するかに、朝日新聞がメディアとして、どう読者の信頼を回復できるかがかかっている。

 このブログの原本は、以上までは昨日午後6時ごろには完成していた。推敲したうえで朝日新聞お客様オフィスにFAXし、電話でその旨を伝えてから午後8時30分頃電話した。ブログを投稿する前に、私の指摘についての反論があれば、それを付記するためだった。
 が、電話に出た男性は「記事についてのご質問はお伺いします」と言われたので、「吉田調書報道について『誤った』とされているが、その表記は誤報を意味するのか、ねつ造を意味するのか」と聞いたが、「私には分かりません」と答えた。「では、ブログ原本に書いた疑問点についてお聞きしたい」と言い、検証すべき重要な5点について聞き始めた。①と②を読み上げた途端「他のお客様がお待ちですので切らせて頂きます」と一方的に電話を切られた。昨日まではお客様オフィスは臨戦態勢を敷いて相当キャリアのある社員(退職者も含め)
を臨時に配置していたようだったが、他メディアとの停戦が合意に至ったため、もう一般読者からの意見にはまともに対応しなくてもよいと考えたのかもしれない。
 お客様オフィスにFAXした時点では、実は昨日の新聞には目を通していなかった。読む時間がなかったからである。その後、改めて読んだが、慰安婦報道についてのバカバカしい検証記事を載せていた。国民の税金を使って無意味なSTAP現象の検証実験を続けている理研と同様の体質としか言いようがない。朝日新聞を読んでいない人は何のことかわからないと思うので、1982年9月2日付大阪本社朝刊の記事を書いた元記者について勘違いをしていたという、メディア史上最大級のバカバカしい検証記事だ。そんな検証を国民(今や社会問題化しているので、関心を持っているのは朝日新聞の読者だけではない)は求めているのではない。
 慰安婦報道について国民が一番知りたいことは、吉田清治の『私の戦争犯罪』で「証言」した済州島での200人の慰安婦狩りというフィクションを、なぜ現地でそういう事実があったのかの検証をせず、鵜呑みにして一億総懺悔の社会的風潮の中で朝日新聞だけが突出して国際社会に、旧日本軍がいかに非人道的だったかを広く知らしめることを社の方針にしたのかの検証だ。さらに、吉田清治の「証言」がねつ造であったことが判明した時点で、いったんは一億総懺悔の社会的風潮の中で吉田「証言」を信じて報道した各メディアが一斉に記事を取り消した中で、朝日新聞だけがなぜ今年8月5,6日まで頬被りを続けたのかの検証である。腐った幹の部分を抉り出さずに、枯れた木の葉の1枚1枚を丹念に拾えなどと国民も他メディアも考えていない。
 いま朝日新聞が慰安婦報道の結果責任をとるべきことは、米韓中を含む日本と関係が深い世界の主要紙に、全面広告を出稿して、「朝日新聞の誤報が国際社会の誤った世論形成にあずかったことへの謝罪」と当時の日本政府の植民地政策の実態(朝鮮や台湾に帝国大学を設立したり、教育制度を日本並みに充実したりしたこと。植民地国の人たちを日本人と同等に扱うよう指示していたこと。日本軍兵士の性犯罪を防止するために慰安所を設け現地の売春婦を中心に募集したこと=募集活動に当たったのは業者)を明らかにすることだ。
 もちろん今でも外国人の研修制度を悪用して最悪な作業環境の中で、低賃金でこき使う悪質な業者が後を絶たない現実があり、当時も軍の一部と癒着した業者が売春婦ではない素人の韓国女性を「強制的に慰安婦にして逃げ出せないような環境下に置いた」事実もおそらく相当数あっただろうことは想像に難くない。そうした事実は、確認できないまでもかなりありえたとして、吉田「証言」に類似したケースまでをも全否定するものではないと、国際社会に向かって釈明すべきである。
 先の大戦で果たしたメディアの責任を、メディアがどう取ったか。「軍の弾圧に屈した」という責任回避の姿勢が生み出したメディアの腐った体質(それは朝日新聞だけに限ったことではない)が、朝日新聞の場合、慰安婦報道の誤報につながったし、原発についての考え方が社説のスタンスとして根っこにあったために福島原発事故についての「吉田調書」のねつ造解釈を生んだという背景を明らかにすべきだろう。
 木村社長が急きょ引責辞任の記者会見を開いたのは、その当日、いつもはノーネクタイの菅官房長官が、ネクタイを締めて記者会見に臨み、吉田調書を首相官邸のホームページで公開すると発表したことが原因である。すでに朝日新聞が5月20日に1面トップで報じた「吉田所長の命令に違反して所員の9割が第2原発に逃げ出した」という記事について「ねつ造ではないか」という指摘は他メディアからされていた。その指摘には頬被りしてきた朝日新聞が菅官房長官の会見によって窮地に陥り、責任をとることにしたのは、まぎれもなく朝日新聞が権力に屈服したことの動かし難い証拠になる。(明日は日本人が集団で国家権力やテロ集団によって人質にされた事件について、改めて考察する。「イスラム国」に対して武力行使に踏み切った米オバマ大統領と、その行為を支持した安倍総理の外交姿勢、それを読売新聞と朝日新聞はどう評価したかの検証にどうしても必要な作業だと考えるからだ)

オバマ大統領は「イスラム国」攻撃理由を個別的自衛権とした。安倍さんの集団的自衛権論の根拠が崩れた。①

2014-09-29 05:47:55 | Weblog
 米オバマ大統領が国連総会で必死になっている。「イスラム国」攻撃の仲間を集めることと、アメリカの「イスラム国」攻撃の正当性を国際社会から容認してもらいたい、というのが目的だ。もちろんオバマの飼い犬である安倍総理は真っ先にオバマを支持した。が、「集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更に伴う国内関連法案」すら、まだ国会に提出されていない。国民の反発が強いため、法案提出は統一地方選挙後の来年4月以降にずれ込むというのがメディアの見方だ。
 私は中東情勢やイスラム教内部の血で血を洗うような対立がなぜ現代社会においても日常的に行われているのか、といった事情に精通しているわけではないので、そのことについての論評は差し控える。ただ、論理的に物事を考えるという方法について、やはりまったく興味がない相撲の世界について、13日目(26日)の大金星の相撲について専門の解説者以上に「なぜ新入幕力士が横綱を破ることができたのか」という理由について私の思考法をお伝えする。

 当日NHKはニュース7のトップでこの試合を報道した。トップニュースにするほどのことかいな、という思いはしたが、大相撲中継はNHKの看板番組のひとつだから、そのくらいのことに目くじらを立てたりはしない。私が感心したのは、このニュースで流した三つの映像である。おそらく相撲放送の担当者ではない編集者が、三つの映像を非常に重視したためと理解している。
 その三つの映像を順番に並べる。①新入幕力士が、立ち合いで突っかけた。横綱は「待った」をして仕切り直しになった。②立った瞬間、新入幕力士が体を開いて横綱に空を切らせてはたき込みで破った。③大金星を挙げた新入幕力士はインタビューで「横綱とは場所前のけいこで全然相手にならなかったので本当はダメだったのだけど、朝から立ち合いの変化を思い切ってやろうと決めていた」と作戦勝ちであったことを語った。
 この三つの映像シーンだけで、私は①が、新入幕力士が、横綱に「待った」をさせるために意図的に行司が軍配を下ろしかけた途端に突っかけた理由が分かった。つまり体力に物を言わせて一気の立会いの勢いで正面からぶつかってくると、横綱に思い込ませるための突っかけだった。その作戦にまんまと引っかかったのが横綱。仕切り直しのとき、横綱は新入幕力士の体力に負けない勢いで頭を低くして突っ込んだ。横綱に、そういう立会いをさせるための作戦だったのだ。ふつう「はたき込み」は「とっさに出た」と力士は説明する。が、「朝のけいこのときにこの作戦を考えた」と新入幕力士が正直に作戦を説明したということは、最初の突っかけのタイミング、さらにけいこ相手に突っ込ませて体を開くタイミング…その練習を徹底的にしていたのだろう、というのが私の論理的解釈だ。
 が、この大金星について相撲担当の記者は新入幕力士の「体の柔らかさ」と
か「思い切りの良さ」など、自分の知識が及ぶ範囲の解説しかできなかった。その記者だけに限ったことではないが、専門分野の人に解説させると、彼の経験から得た知識、あるいは専門分野の勉強や研究から得た知識、あるいは経験則の範囲だけで考えようとする。私はスポーツ紙を読んでいないが、私のような解釈ができる相撲担当の記者は、おそらく一人もいなかったと思う。が、NHKのニュース7編集担当者は、おそらく新入幕力士の作戦の意図を理解できたために、横綱に「待った」をさせるための仕切り直しに至る①の映像を出したのだと思う。
 これはメディアが新人記者教育で最も重要な「論理的な考え方」の訓練を、これからは重視してもらいたいために書いた。もっと大切なのは、そもそもメディア志望の学生の能力をペーパー試験で行う場合、知識重視の大学入試のようなやり方は止めて、論理的思考力を調べるテストに切り替えた方がいい。具体的には、私立中学の入試に出るようなレベルの算数のテストをさせることだ。
 これはそれよりはるかにレベルの低い問題だが、小学校の算数で学ぶ程度の公式なら、大学生ならまだ覚えているはずだが、ちょっと意地悪をして「公式を使わずに解け」という問題を解かせてみる。たとえば「上辺8cm、下辺11cm、高さ5cmの台形の面積を、公式を使わず文章で解け」というような問題だ。この問題の意図は、「公式」つまり「知識」に頼る思考法に赤信号を発信するためである。この問題を解けない論説委員や解説委員は直ちに現場からやり直した方がいい。
 
 本題に戻る。「イスラム国」は国家なのか。それとも国家建設を目指すグループなのか。まず、それを明らかにしないと、「イスラム国」を名乗る集団に対する武力行使の意味がまったく違ってくる。私はあえて「集団」という表記を付け加えた。理由は書かなくてもお分かりだろう。日本だけでなくアメリカでも「国家」としては認めていないからだ。
 であるならば、オバマ大統領が「イスラム国」に対する武力行使を「国連憲章51条に基づく個別的自衛権行使」と言えるのか。国連憲章51条で加盟国に認めている「個別的自衛権」と「集団的自衛権」は、国連安保理があらゆる「非軍事的措置」(41条)及びあらゆる「軍事的措置」(42条)を行使しても国際の平和と安全を守ることができず、「国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安保理が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」として自国の防衛のための軍事力行使を認めた条文である。この解釈はいかなる国であっても変えようがない。51条の前提条件を廃止しない限り、犯罪集団がどこかの国民を虐殺したからといって、その犯罪集団が存在する国家の主権を無視して勝手に犯罪集団に対する国家的制裁を加える権利など、国連憲章のいかなる条文も認めていない。
 が、安倍総理はオバマの「個別的自衛権行使」としての「イスラム国」を名乗る集団への武力行使を支持している。オバマの飼い犬である安倍総理が、ご主人に忠実なのは理解できないこともないが、メディアがそうした安倍外交を支持するのはいかがなものか。
 はっきり言えば、アメリカもロシア(旧ソ連時代から)も、国連憲章51条を自国の国益のためにかってに「自己解釈」してきた。国連憲章全文を高校生程度の読解力で読めば、自国が他国から攻撃されていないにもかかわらず、他国内の反政府勢力や犯罪組織に対して、いかなる「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も行使する権利などないことは、火を見るより明らかなことではないだろうか。日本の2大活字メディアの主張を検証する。(続く)

①朴大統領よ、自国で性犯罪が少ない理由を明らかにしろ。 ②朝日はどこまで読売にすり寄るのか。

2014-09-26 07:48:31 | Weblog
 日ロ関係についての安倍外交に対する読売新聞と朝日新聞の主張を検証する前に、書いておきたいことがある。国連総会における韓国の朴大統領の昨日の演説についてである。朴大統領が国連総会で演説するのは初めてということだが、戦時性暴力についての、世界に向けて発信したメッセージだ。
「戦時の女性に対する性暴力はどの世代、どのような地域かを問わず、人権と人道に明らかに反する行為である」
 そのメッセージに異論を唱えるつもりは、私も毛頭ない。が、日本を名指しこそしなかったが、旧日本軍の従軍慰安婦問題を念頭に置いての演説であることは、すべてのメディアに共通した認識だ。
 で、あるならば、戦時性暴力が最も多かったアメリカ兵を名指しで非難すべきだろう。ノルマンディ作戦で勝利を収めた米兵が、ナチスドイツによる占領状態から解放したフランスで、フランスの若い女性を片っ端からレイプしまくったのがアメリカ兵であることは、今では世界的に周知の事実だ。
 当時に比べれば、いちおう西欧やアジアは平和状態にあるが、米軍の韓国駐留時代にどれだけ韓国女性が米兵の性暴力の犠牲になったか、自分の国での出来事だから承知しているだろう。だから、日本の政府と違って自尊心が高い韓国政府は、米軍に出て行ってもらったのではなかったか。
 戦時状態にないアメリカ本国でも、アメリカ人とくに白人の性暴力は、おそらく世界で一番多いはずだ。ギネスブックが性犯罪が最も多い国を載せたら、間違いなくアメリカが断トツの世界記録保持国であり、その記録はアメリカ自身が更新する以外に、どの国も破れない。
 なぜか。この問題の根本原因を解明するには、とてもではないがブログでは無理だ。ただ言えることは、アメリカに移住した最初のヨーロッパ人種の宗教観と女性をヨーロッパから招くための方策(※すでにブログで書いたので繰り返さない)が根っこにある。現在イスラム教徒の間でも血で血を洗うような対立が表面化しているが、キリスト教徒にもそういう時代があった。
 科学的天文学の父と呼ばれているガリレオ・ガリレイ(中世イタリア人,1642年没)が「それでも地球は回っている」と最後の言葉を残して刑場の露と消えたという有名な伝説があるが、実は死刑にはなっていない。ローマ教王が支配する中世イタリアで政争に巻き込まれ、事実上の宗教裁判を意味する異端審問で追及されて終身刑に処せられたのは事実だが、のちに軟禁に減刑され、失明して失意のうちに世を去ったのが事実である。
 このケースにもあるように、宗教対立で血で血を洗うような経験をしていない日本人には理解しにくいことだが、十字軍はイスラム教諸国を相手に戦争しただけでなく、同じキリスト教の一派でありながら、異端とみなした正教徒も
殺戮している。細かい説明は省くが、ユダヤ教、カソリック、プロテスタントなどあらゆるキリスト教徒のいわば憲法的存在である「モーセの十戒」には「汝、人を殺すなかれ」というのも含まれているが、キリスト教徒でなければ絶対大統領になれないアメリカが、戦争で何人殺してきたかを考えれば、それで十分だ。建国してわずか233年の歴史ながら、アメリカが戦争で殺した人間の総数は、おそらくギネスブックに載れば世界記録保持国だ。
 が、国内での戦争は南北戦争だけで、死刑を廃止している州も少なくない。かわりに量刑は日本より厳しく、懲役300年というバカげた判決が下されることも少なくない。やることなすことが極端な国で、とくに経済犯罪に対する量刑はきわめて厳しい。野村証券など、アメリカで暴力団とつるんで株価操作をしたら、確実に倒産させられている。日本はそうした犯罪にきわめて甘い国だから、いまだに野村証券は日本最大の証券会社としての地位を維持している。
 性犯罪に対しても厳しい。そもそも日本の売春禁止法などザル法もいいところだが、よほど悪質でないかぎり売春行為や施設はお目こぼしにあずかっている。韓国には売春禁止法があるかどうかは知らないが、あったとしても日本以上のザル法のはずだ。だから、日本や韓国では性犯罪は少なく、性犯罪が起きるとニュースになるが、アメリカでは性犯罪をニュースとして扱っていたら、テレビはニュースに5時間くらい割かなければならなくなる。アメリカの極端さは、禁酒法でマフィアを育てたように、売春を厳しく取り締まってきた結果、性犯罪の日常化を招いている。
 韓国の朴大統領が、一般論として戦時性犯罪を告発するのであれば、まずアメリカをやり玉に挙げるべきだろう。朴のようなアホに、日本はいつまでもまともに付き合う必要はない。朝日新聞は、慰安婦問題の誤報に対する読者への謝罪のために、韓国の売春天国の実態をきちんと報道したらどうか。そのことが、吉田清治の『私の戦争犯罪』がねつ造小説だったことを明らかにすべく最大の説明責任ではないか。
 私のブログの品位をこれ以上落としたくないので、本来のテーマに戻る。

 朝日新聞はどうやら読売新聞がどういう主張をするかを見極めてから、読売新聞に追随することで、こんにちの難局を乗り切ろうとしているかにみえる。が、両紙とも、日ロ問題についてどういうスタンスをとるべきかについて迷いに迷った気配が感じられる。
 今月21日、安倍総理は60歳の誕生日を迎えた。その日、誕生日のプレゼントとお祝いの電話をくれたのは、安倍総理が一生懸命尽くしている米オバマ大統領ではなく、ロシアのプーチン大統領だった。プーチン氏は大災害に見舞われた広島にもお見舞いのメッセージを送ってくれたという。
 このニュースは即日首相官邸から発表され、NHKも午後7時のニュースで伝
えた。私は翌22日の早朝、いつものように目が覚めてから書斎のデスクトップパソコンに向かってネットで再検索して詳細を確認し、その日にブログを書いて投稿した。gooサーバーの記録によれば、投稿した時間は07:58:57である。当日の新聞朝刊に目を通している余裕はない。
 いちいち記録をとっているわけではないが、私はブログの原本はワードで書いて貼り付け投稿している。ワードで書いた原本はプリントして残してある。プリントではA4用紙5枚、ざっと6000字に及ぶ文字数だ。
 ブログを投稿した後、そそくさと朝めしを食べて、ざっと朝刊の見出しに目を通し、帰宅後読む記事には赤のサインペンで見出しにチェックを入れておく。夕刊は読む時間がないので取っていない。その日、両紙ともプーチン大統領からの電話についての記事は掲載したが、論評は避けた。すでに安倍総理は記者団に、「国益を重視すると同時に、G7との連携にも配慮せざるを得ない事情をプーチン大統領に伝え、11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)のときに首脳会談を行いたい、と申し入れた」と発表した。
 読売新聞が熟慮の末、社説で日ロ首脳会談について社としての見解を述べたのは23日の朝刊、朝日新聞は読売新聞の社説に同調するためか、翌24日になってようやく社説で見解を述べた。実はNHKのニュースを聞いた後、NHK、読売新聞、朝日新聞には電話ですでに22日に投稿するブログの基本スタンスを伝えている。電話対応していただいた方はすべて私の見解に同意してくれた。それ以上の詳しいやり取りは、また読売新聞の場合、読者センターの中で大問題になりかねないので書かない。ただ、この3大メディアがすべて私の主張に同意されたことだけは事実である。私は私のブログの権威づけのためにそんなバカげたウソは書かない。ただ、苦境に立たされている朝日新聞がどういう主張をするかが心配だったので、ブログを投稿した後(当日)報道局宛に1枚の文書を添えてブログの原本をFAXした。その内容を明らかにしておく。

今朝投稿したブログの原本を送ります。
振り子の原理が働きすぎて、朝日新聞が一気に右傾化することを心配しています。私自身は右でもなければ左でもなく、完全にニュートラルなスタンスな立場で日本の将来を憂いている一人の市民です。完全にニュートラルな立場に立てるかどうか、また完全にニュートラルなスタンスはありうるのか、という疑問を私自身抱き続けながら、とりあえず、「事実」を基準にするのではなく、論理を基準に様々な疑問をブログで書いています。
このブログで提起した問題に対してメディアがどういうスタンスをとるかによって、各メディアのベクトルと思考力が問われていると私は考えています。
私のブログはメディアからかなり注目されていますので、他のメディアの方も
読まれるだろうと思いますが、今回朝日新聞にだけ原本をFAXでお知らせすることにしました。

 読売新聞がどういう社説を書くかは、ほぼ見当がついていた。読売新聞の論説委員が私のブログを参考に社説を書くなどということはありえないので、おそらく論説委員の方たちは私のブログを読んでいないと思う。案の定、読売新聞が23日朝刊で発表した社説のタイトルは『日露首脳協議 G7協調前提に対話続けたい』というものだった。そんなおとぎ話のようなことが本当に可能だと思っているのか、読売新聞の論説委員は全員幼稚園からものの考え方を学び直していただきたい。偏差値30の高校生に、湯島神社参拝を前提に東大合格を目指せ、と説くような空理空論だ。
 まず、絶対に不可能な注文から読売新聞の社説は書きだしている。「政府は、米欧との連携を重視しつつ、ロシアとの対話を続けることが重要である」と。言うまでもなく、ウクライナ紛争はロシアの軍事介入が原因、とアメリカは決めつけている。だからEUより先駆けて対ロ制裁に踏み切っている。
 アメリカの目的は「イスラム国」への軍事行動にも明確に表れている。世界に対する一国覇権主義を世界中に認めさせることが、いまのオバマ大統領の基本姿勢である。「イスラム国」軍隊の非人道的虐殺行為を私は認めるものではないが、「目には目を」的な方法で、とりあえず臭いものにふたを締めたところで、問題の根本的解決にはならない。ロシアはアメリカの軍事制裁について国連安保理での同意が必要と主張し、中国は「アメリカが勝手に蒔いた種だ。同志を募るより自ら蒔いた種は自ら刈り取れ」と突き放している。
 大量破壊兵器など持っていなかったイラク・フセイン政権に難癖をつけて一方的にイラク戦争を起こし、フセイン政権を打倒したら、あとは知らん顔――それが今日の中東情勢の紛争の原因だ。そのことは、さすがにアメリカも否定できない。中国も、自国の国益のためであっても、時には正論を主張することがある。自国の国益に反しても、オバマ大統領の忠実なハチ公になる、とスタンスを決めているのが安倍政権だ。読売新聞はこう主張する。
「日本が4月に米欧の対露制裁に同調すると、ロシアは激しく反発した。(中略)(安倍)首相が東京ではなく、北京での首脳会談を提案したのは、プーチン大統領来日に強い不快感を示す米国に配慮したものだ。オバマ政権は、ウクライナ東部への軍事的介入を続けるロシア(※これはアメリカの裏付けのない主張。イラク・フセイン政権に付けたイチャモンと同じ。ロシアは否定している。まだ日本は正確に判断できるだけの材料を持っていないし、確認もしていない)を厳しく批判している。(中略)いまの段階で、プーチン大統領が来日すれば、
日米関係がきしみかねない(※そのことだけは読売新聞も正確に理解している。
ただ安倍外交が日本の国益にとってどうなのかの検証抜きに安倍外交をひたすら支持することを社是としているのが読売新聞だ)。日本としては先進7か国(G7)内の協調関係を維持しながら、ロシアとの対話を絶たないのが現実的な選択肢だろう」
 アホもいい加減にせい、と言いたい。G7は日・米・独・仏・英・伊・加の先進(?)7か国の中央銀行総裁と各国の財務担当大臣が一堂に会して、健全な自由貿易促進のための金融政策を協議する場だ。読売新聞は、いつどこで開催されたG7で、ウクライナ紛争に関して対ロ制裁を決定したのか、明確な証拠を示せ。それができずに、アメリカ追随の外交姿勢を正当化するために、有りもしないG7が決定した対ロ制裁との協調を継続すべきだと事実上主張しているのは、朝日新聞の「吉田調書」捏造報道記事と同じだ。ナベツネに引導を言い渡す、絶好のチャンスだ。引導を言い渡せないなら、殺せ。日本のために、私が殺人を支持する最初で最後のケースだ。安倍総理に対して痛烈な批判は繰り返しているが、安倍総理の功罪はいずれ国民が判断する。その判断が間違っていても、国民の判断だから私は受け入れる。が、読売新聞の体質はナベツネの目が黒いうちはフェアには絶対になりえない。日本最大のメディア(NHKは除く)に独裁的に君臨して、日本の将来を危うくしかねない独裁者を葬ることが、民主的手段ではどうしても不可能なら、抹殺するしかないだろう。

 読売新聞に対する怒りをこれ以上ブログでぶつけると、私自身がくも膜下出血で即死しかねないので(もっとも血圧は正常なので、くも膜下出血の可能性は日本が他国、とくにアメリカから攻撃を受ける可能性より少ない)、頭から冷水をかぶって矛先を朝日新聞に向けることにする。
 朝日新聞がようやく24日の朝刊で発表した社説のタイトルは『日ロ首脳対話
 外交の理念忘れずに』だ。そのタイトル自体はどうにでも読めるので、明らかにどうにでも読めるタイトルにした姑息さが表れている。が、朝日新聞はかなり私の視点を取り入れた。そのため、読売新聞の社説と違って帰って「何が言いたいのか」不鮮明になる結果を招いてしまった。明らかに矛盾した社説の二つの記述を併記する。その併記だけで朝日新聞社説の自己矛盾が分からない人は、申し訳ないが私のブログを読んでも無駄だ。
①「ウクライナ紛争を巡りロシアを批判する米欧に同調し、日本は2度の対ロ制裁に踏み切った。ロシアは北方領土問題をめぐる日ロ次官級協議の延長などで反発を示した。それでもロシアは、大統領の訪日予定は取り消さず、日本との建設的な対話の継続をさぐる姿勢は崩さずにきた。(米欧と対立するロシアは中国と接近しているが)中国に過度の依存はできず、アジアで第2の経済規模
と進んだ技術をもつ日本との関係強化を望むのは、自然な選択だ。そんな事情
もにらみつつ対話のパイプを保つことは、日本の近隣外交にとって得策である。安全保障やエネルギー分野での足場の強化に役立つだろう」(※この主張は私が22日に投稿したブログをほぼ踏襲している。が、意図的に無視した主張がある。それは北方領土問題の解決=完全解決は現時点では不可能=と、そうした日ロ関係の強化によって日ロが平和友好条約を結べば=ロシアは切実にそれを望んでいる=日本の安全保障はかつてないほど安定する、という視点だ。その視点を社説に組み入れると、次の主張ができなくなるからだ)
②「ただし、日本は守るべき原則(何!?)を忘れてはならない。領土問題などでの『力による現状変更』(※これもアメリカの受け売り)を許すわけにはいかない。この理念を共有する米欧と緊密な連携を維持してこそ、ロシアとの対話も成果もあげられる(※そんなこと不可能だろう。二兎を追うもの一兎も得ず)。(中略)ウクライナ東部では、先の停戦合意の後も、各地で戦闘が繰り返されている。米欧は、ロシアによる軍事介入が続いているとの見方を変えていない(※朝日新聞のほうがロシアの軍事介入に関しては必ずしも事実と断定していない。だったら、なぜ先のような主張をするのか。メディアも窮地に追い込まれると精神分裂集団になってしまうのか)。停戦にロシアが十分な努力を果たしていないと見なされれば(誰が見なす国際的権限を持っているの? まさかオバマ大統領にその権限があるとは、読売新聞と違って認めないだろうな)、日本も新たな制裁をためらうべきではない」
 朝日新聞の短い社説での矛盾した主張を併記した。朝日新聞が生き残る道はたったふたつ。誤報が生じた背景、今頃になって誤報を認めることにした社内事情(最近週刊誌がやっと気づきだしたようだが、私は8月7日のブログで背景に権力争いがあるのではないかとの見方をすでに明らかにしている)を明らかにすること、そして木村社長の引責辞任の原因が「吉田調書」に関するねつ造記事にあったことの明らかにすること、そして「声」欄の半分は読者の朝日新聞記事(社説やコラムも含む)への合理的批判にスペースを割くことを明言すること――そうして失われた信頼を回復する道が一つ。
 もう一つは村山家が所有する朝日新聞社株の大半を読売新聞社に譲渡して、読売新聞の補完新聞になるか、読売新聞社に吸収合併してもらうか(読売新聞社が受けるかどうかは保証の限りではない)――これがもう一つの道だ。
 木村社長よ。どの道を選ぶ?…。

ついに朝日新聞が木村社長の引責辞任のホントウの理由を明らかにした。(了)

2014-09-25 08:01:27 | Weblog
 23日の祝日は、短い夏が終わって以降で最高の好天だったが、「秋の天気は長続きしない」と言われているように、早くも台風(すでに温帯低気圧に変わった)の影響で今朝は梅雨のような雨が断続的に降っている。梅雨前線と秋雨前線は同じ、という解説はだいぶ前にNHKの天気情報(天気予報と言っていた時代)のキャスターから聞いた覚えがあり(TBSの森田キャスターかもしれない)、そのことを知らない友人たちに得意になって受け売りしたことがあった。
 私の記憶では、梅雨前線がいったん太平洋高気圧に押されてシベリア方面まで押し上げられるが、太平洋高気圧が弱まるにつれて下がって来るのが秋雨前線だという話を聞いたと思う。稲作でいえば刈り入れ時で、昔「食糧安保論」を主張していた全中・全農グループやお抱え学者、共産党などは、水田の保水力が洪水を防いでいる、とバカげた主張していたことがある。今でもかな?
 ま、私の悪い癖で、ちょっとした話題に手を出すと、たちまち本筋から脱線して、余談のほうにのめりこんでしまう。今日も、食糧安保論の中核をなしていた「水田保水力」のご都合主義をまず暴くことにする。これは1991年11月に青春出版社から上梓した『日本が欺く米 ブッシュが狙うコメ』という題名で書いた本からの転載である。

「コメ市場を開放して日本のコメが競争に負けたら、水田が荒廃し、自然環境が破壊されてしまう。また水田の保水力は日本中のダム貯水量の2~3倍になり、台風や大雨による洪水を防いでいる。いったん休耕田にしてしまうと、大事な保水機能も失われてしまう」
 この環境・治水論はわれわれ都市生活者の胸をも切々と打つものがある。とくにエコロジー・ブームといわれる現在の状況においては(※「エコ」はすでにこの頃から社会的問題になっていたことをメディアは思い出してほしい)、環境論がかなりの説得力を持っていることを私も否定しない。
 しかし、水田は本当に自然環境を守ってきたのだろうか。
 日本民族が生きるためとはいえ、水田は樹木を根こそぎ切り倒し、土を掘り起こして開拓してきた結果である。秋田県の大潟村の水田地帯は、1957年から7年がかりで琵琶湖に次ぐ八郎潟を埋め立てて開拓したものだが、こんにちだったら「自然破壊だ」という反対運動が生じ、埋め立て事業そのものがとん挫していたかもしれない。
 今日、水田は日本の自然環境の中に完全に溶け込み、田園風景が日本人の心に潤いを与えてくれていることは事実である。だが同時に、水田はあるがままの自然そのものではないことも認識しておくべきだろう。
 さらに現在の農業は、農作物を病害虫から守るためとはいえ、大量の農薬を
使用しなければ成り立たない状態になっている。私が子どもの頃追いかけたイ
ナゴやバッタ、タニシ、ドジョウは日本の水田から姿を消してしまった。夏の風物詩である蛍も、田園地帯からはいなくなった。
 かといって私は、「水田をなくせ、農薬を使うな」と極論しているわけではない。水田が農家の生活を支え、日本民族を飢えから救ってきたことは自明であり、私も美しい日本の水田を、守れるものなら守りたいと考えている。ただし(稲作農業)死守派が主張する、水田を守ることが自然環境の保護とイコールだという考え方の自家撞着を指摘しておきたいだけである。
 さて、もう一つの治水論だが、これも死守派の主張に“理なし”とはしない。だが、洪水防止という点に関して言えば、地域差はあるにしても、洪水が一番心配される梅雨期と台風シーズンには、肝心の水田は満々と水をたたえており、洪水防止に水田が事実上、どのくらい役に立っているかは疑問である(台風シーズンの末期には水田も水を抜くから多少は役に立っている可能性はあるが)。
 それに、減反政策によって既に水田の3割は姿を消したが、それによって洪水が増えたという話も、二、三の特殊なケース(東京の神田川や市川市の真間川など)を除いてあまり聞いたことがない。死守派は「いったん休耕田にしてしまえば保水機能を失う」と主張するが、3割もの休耕田の出現によって日本の治水がどれだけ脅かされたというのだろうか。
 日本の場合、水田の貯水能力81億トン、畑の貯水能力14億トンに対し、森林のそれは444億トン、水田の何と5・5倍にも達する。樹木こそが自然の最大の治水対策であり、その樹木を根こそぎ切り倒して開拓してきた水田が、その治水機能を楯にとって保護を求める――何というパラドックスであろうか。
 私は水田の保水機能を過小評価するわけではないが、水田がなくても治水対策は十分に可能であり(神田川や真間川の氾濫は治水対策を怠ってきた人災)、保水機能のために水田を残すなどという議論は主客転倒も甚だしいと思う。
 むしろ問われなければならないのは、減反などで稲作をやめたあとの休耕田の管理や再開発の問題であろう。山間部の休耕田には樹木を植えて本来の自然環境を回復し、また都市近郊の場合は住宅地として供給する必要があるだろうが、乱開発を防ぎ、自然公園などを整備した計画的な都市づくりを行えば、環境破壊や治水問題も解決できるだろう。

 これだけのことを書くために、当時は何日も図書館に通い詰めた。いまだったらネット検索で1時間もかからず必要な情報を集めることができる。昨日のブログでNHK批判をしたばかりだが、クローズアップ現代では地方議員の在り方について非常に重要なテーマを取り上げた。ゲストも北川正恭氏という地方
行政の経験者でもあり、かつ非常にフェアな主張をされる方を招き、議員活動の在り方についていろいろ考えさせられた。一方BSフジは偶然だろうが、地方
の過疎地の立て直しに成功したスーパー公務員・高野誠鮮氏(石川県羽咋市の
定年間際の地方公務員)が過疎に悩む神子原地区の活性化に取り組んだ感動的
なケースを放送した。この番組など、サブキャスターの島田氏がメインキャスターの反町氏を完全に食ってしまったほど、番組の司会進行で大きな役割を果たした。女性の活用のホントウの在り方というものを目の当たりに見た。私にとっては二重の感動でもあった。メディアだけでなく、すべての社会が、このような女性の活用を目指してもらえれば、本当の意味で女性が日本の未来を担う重要な役割を果たせる時代が来るのではないだろうか。
 それはさておき、時間の許す限り昨日の続きを書く。07年に読売新聞読者センターの責任者・佐伯氏に送った長文の文書の続きだ。先の大戦で、メディアは被害者だったのか加害者だったのかの問題提起だ。この古い文書の公開について、私は「まだ未熟だった」とお断りしている。未熟だった部分、つまり今ははっきり見えていることを今日のブログで挿入していく。朝日新聞の新主筆・船橋市の「ジャーナリズム論」は根本的に間違っている、とだけ書いた個所の続きだ。

 船橋氏はこう書いています。「戦前、アジア太平洋戦争に対しては誤った報道をし、読者を裏切った。朝日新聞は、戦後、その反省から出直した」と。
 私は戦時中の新聞記者(朝日も読売も)のすべてが政府や軍部の方針を正しいという信念を持って記事を書いていたとは思っていません。私は当時の新聞が置かれていた状況を知っている世代ではありませんが、少なくとも次の3点については確信を持っています。
① 今日のようにインターネットで世界中の情報を自由に入手できる時代と違って大本営発表の「事実」を覆せるだけの情報を入手する手段を新聞社が持っていたのかという疑問です。もし大本営発表がウソであることを知っていながら、船橋氏が言うように「(意図して)謝った報道をし、読者を裏切った」ならば、「反省」の余地などありません。朝日新聞は「その反省から出直」すべきではありません。直ちに廃刊して責任をとるべきでした。(※その後分かったことだが、当時のメディアは外信で実際の戦況を知っていたようだ)
② あの時代、つまり言論統制が私にすら想像もつかないほど厳しい時代に良心的な記者(私は戦時中であってもジャーナリストの大半は権力に対する批判精神を持っていたと思っています)でも政府や軍部に対して批判することが果たして可能だったのか、という疑問です。『改造』廃刊事件を見てもそんなことは不可能だったと思います。もし朝日が政府批判・軍部批判の論陣を張ってい
たら、とっくに朝日は消滅させられていただろうと思います。(※この当時の私の認識は誤りだった。軍部が弾圧したのは共産主義者だけで、社会党などは弾
圧されていない。朝日が言論の自由を行使して政府批判・軍部批判の論陣を張
っていたら、弾圧を受ける前に読者から見放されていたはずだ。そういう世論の醸成に与り、自ら自分の首を絞めるようなことをしてきたメディアが、戦後、生き残るために共産主義者と同様の弾圧下にあったかのように装って責任転嫁してきたのが真実ではなかったのか)
③ 船橋氏は「読者を裏切った」と書かれましたが、以上述べたことからも「意図して」読者を裏切ったわけでは断じてないはずです。真実を知る手段がなく、さらに厳しい言論統制が行われていた時代に新聞は読者のためにどういう役割が果たせたのでしょうか。二度と暗黒の時代を出現させてはならない、という姿勢がいまのジャーナリズムの使命であるべきで、一億総懺悔みたいな「反省」をして見せることが「ジャーナリズム再興」ではないのです。
 さて船橋氏の(船橋氏だけでなく、おそらく佐伯さん、あなたもです。それどころか、いわゆる「ジャーナリスト」の全員がそうだと私は思っていますが)最大の誤謬をここで指摘しておきたいと思っています。
 それは船橋氏が「アジア太平洋戦争に対しては誤った報道をし」と書かれたように、あの戦争(※私は「先の大戦」について、当時は「あの戦争」と表記していた。言葉はメディアによっていったん活字やアナウンスによって公になった瞬間から、特殊な政治的意味が付与されて独り歩きを始める。たとえば安保法制懇も「政府の有識者会議(懇談会)」と位置付けるか「私的諮問機関(懇談会)」と位置付けるかによって、読者や視聴者に対する政治的意味合いを持ったマインド・コントロールの手段と化す。いま私はウクライナ紛争について「親ロシア派」という表記は国民に謝った認識を与えかねない、「(ウクライナ)東部の分離独立派」と表記すべきだと主張しているが、メディアは言葉の選択についてもっと厳しく慎重であるべきだ)は間違いだったという歴史認識を      持っていることです。ここで私は、林房雄氏のように「大東亜戦争」を肯定しているのではないことを念のため申し添えておきます。私もあの戦争は間違いだったとは思っています。しかし私が船橋氏をはじめとするすべてのジャーナリストと根本的に違うのは、「あの戦争だけが間違いだった」という歴史認識の立場には立っていないことです。
 よく考えてみてください。あの戦争についてすべてのジャーナリストが持っている歴史認識は「侵略戦争だった」というものです。もし南京問題(朝日は「南京大虐殺」と表記したり「南京虐殺」と表記したり混乱しています。読売は「南京事件」で表記を統一していますね)について非人道的なことを日本の兵士がしたことについてだけ反省するのであれば、私もすべてのジャーナリス
トが誤った歴史認識を持っているなどとは主張しません。(※この時期慰安婦問題をめぐって韓国民の反日感情は沈静化しており、私の歴史認識の方法論もま
だ多少混乱していた。いまの私の歴史認識は、世界的に共通した「勝てば官軍、
負ければ賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」といった歴史認識基準そのものから脱却している)問題はあの戦争だけが「侵略戦争だった」という歴史認識を持っていることです。
 もう佐伯さんは私が何を言おうとしているのかお気づきだと思います。そうです。日清戦争、日露戦争、日英同盟を口実に参戦した第一次世界大戦は勝ったから反省する必要がないとすべてのジャーナリストは考えているようですね。
 もちろん世界史的視点から考えると、有史以来侵略戦争は数限りなく行われてきましたし、とくに19世紀の後半からは帝国主義の時代が始まりました。そして日本も明治維新以降欧米先進国に追いつこうと「富国強兵・殖産興業」を国家戦略にし、日清・日露戦争を経ていわゆる列強の仲間入りをして帝国主義国家になったことはだれでも知っている事実です。そしてそういう時代の中で日本は「大東亜共栄圏」「八紘一宇」を大義名分にしてあの戦争を始めたのです。そうした視点からあの戦争を振り返ると、あの戦争だけが「侵略戦争」ではなかったことは明らかです。だからあの戦争だけを特定して「反省」するのはフェアで論理的な歴史認識とは言えないのです。たとえば作家の司馬遼太郎氏は日露戦争を美化しながらあの戦争は批判するという自己矛盾をおかしました。司馬史観に傾倒しているジャーナリストは非常に多いのですが、彼は自分が書きたいことに都合がいい歴史的事実だけを取り上げたり、非論理的でご都合主義的な解釈をしてきた人です。その点、津本陽氏のほうが比較的フェアですが、信長論(もし信長が殺されていなかったらどんな日本国を建設していただろうかという仮説を立てたこと自体はさすがです)の中で「貿易立国を目指した」と書いていますが、それは間違いで、私はおそらくジンギスカンのように世界制覇を目指したのではないだろうかと考えています。それは私の論理的解釈の帰結ですが、それを書きだすと一冊の本になってしまいますのでやめます。ただ信長よりも私は坂本龍馬が暗殺を免れていたら明治以降の日本の歴史はどう変わっていただろうかという考察をチャンスがあればやってみたいと思っています。ひょっとしたら岩崎弥太郎を上回る巨大な政商になっていたかもしれないし、あるいは政治家になって民主国家建設に命をかけていたかもしれないと思っています。
 何とか書き終えた。明日は日ロ関係について読売と朝日の主張を検証する。

ついに朝日新聞が木村社長の引責辞任のホントウの理由を明らかにした。(後)

2014-09-24 08:11:37 | Weblog
 昨日の祭日は快晴、温暖で湿度も30%台と、最高の××日和だった。読者も、それぞれ気持ちいい一日を過ごされたと思う。
 2007年7月に読売新聞読者センターの責任者・佐伯氏へ送付した文書の続きを書く前に、NHKに苦情を一言。
 民放は土日は除き、祭日は平日とまったく同じ編成で番組を放送する。民放はCM収益で経営を成り立たせているから、視聴者重視の編成を余儀なくされる。「余儀なくされる」と書いたのは、たとえば読売テレビの人気報道番組『ミヤネ屋』(関東では日本テレビが放送)は、祭日にもかかわらず宮根氏がいつも通りキャスターを務め、夕方のニュースも平日扱い、BS放送の定番番組も平日通りで、おそらくBSでは視聴率トップと思われるBSフジのプライムニュースも平日通りに反町・島田両氏がキャスターを務め、視聴率が高いせいだと思うが大物政治家が連日のごとく登場する(政治がテーマの場合)。昨日も公明・山口代表と共産・山下書記長が生出演した。島田氏はNHKのニュースウォッチ9の井上氏に引けを取らないくらいの美人だが、井上氏と違うのは単に原稿棒読みのアナウンサーではなく(もっともNHKはなぜか井上氏をキャスターとしている。キャスターとは自分自身の考えや疑問を呈しながら報道番組の司会進行を務めるのが仕事で、美人度によってアナウンサーになったりキャスターに格上げされたりするわけではないはずだが)、メイン・キャスターの反町氏が夏休みをとった時など一人で2時間にわたる報道番組を仕切り通した。11月にはお子さんを出産されるそうだが、その後フジに復活されるのかフリーになられるのか分からないが、現在活躍中の女性キャスターとしては人気・実力ともにナンバーワンといっても差し支えないだろう。美人度についての見方は別にして、井上氏に島田氏ほどの実力があるだろうか。もし、あったとしたら井上氏の実力を買い殺しにして、ただの「見世物」扱いにしているNHKに、女性問題を語る資格はない。
 というわけで、午後8時以降はほぼプライムにくぎ付けになっているので、最近はNHKきっての美人「アナウンサー」(これはNHK以外の定義)と評判の高い井上氏のご尊顔を拝する機会が滅多にない。昨日もそういうわけでNHKのニュースウォッチ9は見ることができなかったが(正確に言えばプライムが終わったあとの数分間だけNHKにチャンネルを切り替えてプロ野球の結果は見たが)、おそらく祭日だったからニュースウォッチ9を見ていても井上氏のご尊顔を拝することはできなかっただろうと思う。
 というのは、NHKは民放と違って、顔を視聴者に向けず、職員に向けている放送局だからだ。祭日は6時10分からの首都圏ネットワークもお休み、7時のニュースは放送したがメインアナウンサーの武田氏(なぜかNHKは原稿棒読みの武田氏もキャスターとして扱っている)は祭日ゆえ休暇。クローズアップ現代も祭日ゆえ中止(メインキャスターの国谷氏はNHKの職員ではないし、国谷氏以外のキャスターが司会進行を務めるケースもある)。祭日は視聴者が報道番組よりエンターテイメント番組を見たがっているというなら、もうプライムに勝てなくなっているニュースウォッチ9など放送を止めて、8時から2時間にわたるエンターテイメント番組を放送したらどうか。それどころか、いっそのこと政治的中立性が義務付けられていて、ズバリ政治の核心に迫るような報道番組を作ることができないのであれば、いま民放が全局、報道番組に力を入れていることもあり、報道番組についてのNHKは役割を終えたとのスタンスを明確にしたほうがいい。NHKは、予算を国会で承認されていると主張しているが、NHKの番組編成に政治家が口を挟めないため(NHKのエンターテイメント重視の姿勢を国会で批判した勇気ある議員もいたが)、視聴者無視、政治家も無視、ひたすら職員の顔色ばかりうかがう編成を続けるなら、民営化した場合、どれだけCM収入を得られるか世論調査会社に依頼して調べてみたらどうか。
 昨日は日中、私も快晴のなかで快い汗を書いたので、少々疲れている。いつも目覚ましをかけているわけではないので、今日は少し朝寝坊して、ブログを書く時間が残り1時間を切ってしまった。今日でこのテーマを終える予定だったが、たぶん書き終えることができないと思うので、とりあえず時間が許す限り書いて、あとは「続」編とさせていただく。
 実は朝日新聞が長期にわたって制度を中止していた「主筆」制度をこの時期(07年)に復活して船橋洋一氏を新主筆に抜擢した。その日、船橋氏は1面に社説スペースほどの就任「演説」を載せた。「演説」のタイトルは『ジャーナリズム再興』だった。この大演説が、その後の朝日新聞のスタンスを決定づけた。

(船橋氏はこの大演説で)「朝日新聞のジャーナリズム精神とは何か。私はそれを『権力監視』にあくまで食らいつく記者根性であると思っている」と。この姿勢が間違っていると私は言いたいのではないのです。ただこのように大上段振りかざして「権力監視」が記者の第一義的任務だと強調してしまうと「権力(その最強は言うまでもなく政府です)批判の姿勢」が常にジャーナリストの思考回路のもっとも重要な部分を占めてしまいます。私は3月の後半、安倍内閣が「公務員制度改革」を打ち出した時、朝日と読売の読者窓口に電話をして(読売は1面トップで報道しましたが、朝日はなぜかこの重要な政府方針をまったく無視しました)「政府がやろうとしていることに何でもかんでも批判することがマスコミのやるべきことではない。時には政府の政策を支持すべき時もある。今回の『公務員改革』だけは絶対に骨抜きにさせてはならない。とくに族議員や公務員の激しい抵抗がすでに始まっていると聞く。小泉さんがやろうとした道路公団改革が骨抜きにされてしまったのはなぜか。弱者切り捨てにつ
ながりかねないというマスコミの批判を後ろ盾にした族議員たちの抵抗が改革
を骨抜きにしてしまったのではなかったか。二度と同じ愚を犯してはならない。絶対にこの公務員改革だけはマスコミはバックアップすべきだ。ただし公務員の天下りを絶滅するためになぜ政府丸抱えで『新人材バンク』を作らなければならないのか。その点は手厳しく批判してほしい。おそらく公務員の不安を解消し、公務員や族議員の抵抗を和らげるための処置と思われるが、そうした官僚や族議員への配慮を排除することが改革の真の目的ではないのかという指摘をして、政府の公務員改革をさらに先鋭化させるのがマスコミの使命だと思う」と意見を述べ、両社の読者窓口の方は二人とも「まったく同感です」と同意してくれました。
 しかしその後、朝日と読売が社説で展開した「公務員改革批判」はまったく的外れなことでした。朝日は「天下りを温存するための制度だ」と白を黒と言いくるめるような批判をし、読売は「公務員がやる気を失い、優秀な人が公務員を志望しなくなる恐れがある(ということは「優秀な人とは天下りを期待して官僚になる人」ということになります)」と社説で述べています。
 いかなる改革も100%というものはありません。国鉄が民営化されたときも過疎地に住む人たちが切り捨てられることになるとマスコミは指摘し、事実民営化に伴いJRが手放した路線を引き継いだ第三セクターの経営は大半が赤字経営を余儀なくされ、路線を維持できなくなったケースもあります。郵政民営化も過疎地に住む人たちが切り捨てられることになることは目に見えています。実際野党も族議員もマスコミもそのことを追及してきました。小泉さんが歴代首相の中で最も賢い選択をしたのは、法案を成立させるために国民に信を問うというかつて誰も出来なかったことをやってのけたことです。そして国民の圧倒的多数が郵政民営化を支持した結果、野党も族議員も、さらにマスコミまでもが沈黙してしまいました。野党や族議員は政治家ですから国民が選択した以上「黙して語らず」に豹変したのはやむを得ないと思います。しかしマスコミは違います。それまで主張してきた郵政民営化批判を国民が支持しなかったことについて厳しい総括と自己批判をすべきです。国民のほうが間違っていると思うなら国民を批判すべきです。
 公務員改革についての論評はもう止めると書きながら、蒸し返し、さらに郵政民営化問題についてまで言及せざるを得なかったのは実は船橋氏の「ジャーナリズム論」に根本的な誤りがあったからです。(続く)

ついに朝日新聞が木村社長の引責辞任のホントウの理由を明らかにした。(中)

2014-09-23 06:07:58 | Weblog
 昨日、急きょブログのテーマを変えたので、戸惑われた読者もおられたと思う。21日に投稿したブログの続きを書く。以下は、2007年7月に当時の読売新聞読者センターの責任者、佐伯氏に送付したFAXからの抜粋である。この時期、まだ未熟ながら、ジャーナリストが犯しやすい間違いの原因について書いているので転載する。

 私はそのころから(学生運動にのめりこんでいた時代があった)今日ほどの明確な意識ではありませんでしたが、ジャーナリストにとって最も大切な三つの要素、すなわち①一切の組織の縛りや既成の権威から自立した精神を持つこと②あくまでフェアに考えフェアな主張をすること③何かを主張する場合その内容が本当に論理的かどうかを真摯に検証すること、をすでに自分の思考方法として確立していたということです。ここまで述べてきたことがそのことを明確に立証していると私は自負しています(学生運動にかかわっていた時代に私が取った行動理念を長々と説明したのだが、その部分は割愛する)。私が読売新聞や朝日新聞の記事(とくに社説)、さらにテレビ各局の報道番組に対し、読者や視聴者の窓口に対ししばしば手厳しい批判をするのも、ジャーナリストにとって最も大切な三つの要素をあまりにもわきまえていない「ジャーナリスト」が多すぎるからです(なぜカギ括弧を付けたかもうお分かりでしょう)。
 ついでにほとんどのジャーナリストがとんでもない勘違いをしていることを指摘しておきたいと思います。私はどなたがお書きになった「ジャーナリスト論」も手にしたことがありません。その理由を書きだすとまた長くなるのでやめますが、ほとんどの「ジャーナリスト論」は批判精神と権力の圧力に屈しないことを最重要視していると思います(これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、マスコミの報道姿勢を見ると、そういう論理的結論に達せざるを得ません)。
 それはそれで決して間違ったスタンスではないのですが、あまりにもこの二つの要素を重視しすぎると、政府のやろうとしていることや方針に対しかつての社会党のように「何でも反対」主義に陥ってしまいます。権力におもねることは明らかにジャーナリスト失格ですが、現在のマスコミは過去の戦争に結果的に「加担」してしまったことへの過度の反省から振り子が大きく振れ過ぎ、「何でも反対」論に傾きすぎているきらいがあると感じています(※もう思い出せないが、当時の読売新聞はかなり政府に厳しい批判をしていたようだ。現在の報道姿勢を考えると隔世の感がある)。だから私は私独自のジャーナリスト論からこの二つの要素をあえて外し、①で述べたような抑えた表現にしたのです(ただし①の主張は明らかにこの二つの要素を内包しています。ことさらに強調しなかっただけです)。
 なぜそのようにしたかだけ説明して置きますと、マスコミの論調があまりにも「反政府・反権力」を重視しすぎた結果、読売新聞も朝日新聞も安倍内閣(※第1次)の公務員制度改革に対し、公務員の天下りと官民癒着を温存するかのような批判を社説で主張したからです。(中略)
 佐伯さんもご存じのように政官財のトライアングルの構造は少なくとも明治維新を経て日本が近代国家になるために掲げた政策「富国強兵・殖産興業」にまでさかのぼって解明する必要があります。官民癒着は昨日今日始まった話ではないのです。(中略)
 小泉さん以降、政府のスタンスは明らかに変化を遂げつつあります。官庁との距離を置き、これまでタブーとされてきた「司法取引」まがいの餌を振りまいて談合の根絶を図ろうとしたり、教員や医師の免許・資格制度にメスを入れ、一定の期間ごとに免許の更新を行い(ということは剥奪もありうるということ)、さらに強制的な研修制度を導入して不適格な教員はクビにすることなど、個々バラバラのように見える鉄のトライアングルを着実に一歩ずつ(14年かかって構築されてきたシステムを破壊するにはおそらく気が遠くなるほどの年月を要すると思われます)崩していこうとしていることは、立場上反対せざるを得ない野党ならいざ知らず、マスコミはきちんと評価すべきです。だから私はジャーナリストの3大要素の②に「あくまでフェアに考えフェアな主張しかしないこと」を入れたのです。しかし残念ながら朝日も読売もこのような自覚を持ったジャーナリストがほとんどいないのです。
 誤解を避けるために朝日や読売の読者窓口の方に「公務員改革」の最大の問題点は政府が新たに作ろうとしている「新人材バンク」にあると指摘してきました。もちろん朝日も読売も「新人材バンク」を批判しています。安倍内閣が「公務員改革」をぶち上げたときの両紙の社説はもう手元にないので、あやふやな記憶に頼っての再批判はしません。で、読売さんには関係がないかもしれませんが、朝日の昨日の社説に対し朝日の広報(現お客様オフィス)に電話で批判したことを書かせていただきます。
 朝日は社説で「現時点ではまだ、新人材バンクがうまく機能するとは言いきれない。政官業のもたれ合いの構図に手を付けずに、予算や権限を背景にした押しつけ的な天下りをなくせるのか、疑問も残る」と批判しました。
 私はこの批判が間違っていると言いたいのではありません。しかし少なくとも渡辺行革担当大臣は「官僚の再就職斡旋に際し、出身官庁からの出向者は関与させない」とセーフティネットを整備することを約束しています。そこで問題です。そこまで天下り禁止のシステムを構築しようというのであれば、なぜ政府丸抱えの「新人材バンク」を作って官僚だけを特別扱いする必要があるのかということです。すでに公的職業斡旋機関としてハローワークがあるし、ハ
ローワークには高級官僚が飛びつきたくなるような求人がないというのであれ
ば、民間には能力の高い人材の転職や再就職を斡旋する企業がリクルートやマンパワー、パソナなどたくさんあるし、インターネットでも高度な知識・技術を持った人材の求人先を探すのはいとも簡単な話です。だからわざわざ出身官庁からの出向者にはタッチさせないなどという姑息な方法までとって政府丸抱えで官僚のためだけに就職斡旋機関を作る必要があるのか、という最大の疑問点をこそマスコミは追及すべきだったと思うのです。私のうろ覚えでは読売もそうした視点での「新人材バンク」批判はしていなかったと思います。

 なお当時の「新人材バンク」構想がどうなったのか、ネットで調べても分からなかった。ということは構想そのものがとん挫したと思われる。
 実はこの長文の文書はプリントして手元に残してあるが、A4サイズで16ページに及ぶもので、全文をスキャンして貼り付けることはできるが、現時点でブログ投稿しても意味を失っていることも少なくないので、私が多少朝日新聞のねつ造記事の根本に横たわっているメディアと読者(視聴者)の関係、メディアと権力の関係に関する部分のみ抜粋して転載することにした。今日は用事で外出する時間が迫っているので、ここまででやめる。たぶん明日で終えると思うが…。

プーチン大統領からの再ラブコール。今度こそ安倍さんは国益重視の外交に転換せよ。最後のチャンスだ。

2014-09-22 07:58:57 | Weblog
 昨日、安倍総理は60回目の誕生日を迎えた。私は祝意を表す気になれないが、海外から誕生日プレゼント(何かは分からん)をくれ、さらに「誕生日、おめでとう」と電話をかけてきた大物政治家がいる。
 そう書けば、読者の大半は、当然アメリカ大統領のオバマ氏だと思うだろう。が、違う。なんと日本が制裁を加えているロシアのプーチン大統領だ。一番驚いたのが、お祝いの電話を受けた安倍総理ではないか。
 電話の内容は、もちろん誕生日のお祝いだけではない。早期に首脳会談を行いたいとの申し入れだった。さあ、突然ラブコールされた安倍総理は困った。
「突然」と書いたが、もちろん外交筋を通して首相官邸には電話で会談の申し入れがあったはずだ。事前の根回しなしに、首脳同士が電話会談するなどといったことはありえない。
 また安倍総理もそうだが、超多忙なはずのプーチン大統領が寸暇を割いて安倍総理と10分間という長電話をしたのは、相当な熱意の表れとみてよい。報道によれば、プーチン氏は首脳会談で平和条約の締結や経済関係の発展に向けて関係を強化したいという考えを示したようだ。
 安倍総理も超多忙な外交活動を行っている。総理就任以降1年9か月で海外訪問は50回を超え、歴代総理の海外訪問回数の記録を塗り替えた。単に外交関係の緊密化を図るという目的だけでなく、日本産業界の営業本部長として東奔西走している。日ごろ安倍総理に対して手厳しい私も、日本産業活性化のために尽くしていただいているご努力には、素直に感謝の気持ちをささげたい。
 が、今回のプーチン大統領のラブコールには、日本の国益がかかっている。絶対に受け損ねてはいけない。
 とりあえず、安倍総理は11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で首脳会談を行いたいと、先延ばしした。安倍総理としては、オバマ大統領の了解なしに早期の日ロ首脳会談を行うわけにはいかないと判断したのだろう。さらに安倍総理はプーチン大統領に対し「ウクライナ情勢をめぐる対応では、アメリカなどG7での連携を重視する方針である」という意向も示したようだ。
 待ってよ、安倍さん。G7とは何か、分かっているの?
 G7は先進7か国(日・米・独・英・仏・伊・加)の財務大臣・中央銀行総裁による世界経済の発展と投機的な為替の変動に対する対策などを話し合う場だ。もともとは日・米・独・英・仏の財務大臣・中央銀行総裁が一堂に会して、自由で公正な貿易を推進するための金融政策を決めることが目的で作られたG5が原点である。
 が、驚いたことにネットでもG5についてはまったく検索できない。いったいいつ発足したのかもわからない。で、私が1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇』から抜粋する。世界史上もっとも有名になったG5が開かれた1985年のことである。
「1985年9月、ニューヨークのプラザホテルに日米英仏独五か国の大蔵大臣・中央銀行総裁が集まり(日本からは竹下蔵相と澄田日銀総裁が出席)、一つの合意事項を決定した。
 この年、アメリカは71年ぶりに純債務国に転落するのだが、疲弊しきった国際競争力を回復させるため、各国中央銀行(日本の場合は日銀)が為替相場に協調介入して、ドル高を是正しようということにしたのである。
 このプラザ合意を契機に、怒涛のように円高が進みだす」
 こうして世界の金融政策を誘導してきたG5に対して「経済大国のエゴ」との批判が国際社会で生じ、イタリア、カナダが加わり、ついでロシアも参加してG8となった。いまG11とかG20なども生まれ、わけのわからん国際金融会議になっている。
 そうした状況の中でウクライナ紛争が生じた。この問題に国益がかかっているEUやロシアが介入してEUとロシアの関係が悪化した。ただEUやロシアの国益は、きわめて微妙である。ウクライナがEU側に着くとなるとEUにとっては安全保障上、非常に有利になる。が、ロシアにとっては逆に安全保障上の不安定要素が増大することになる。
 一方経済関係は、EU内部でも足並みはそろっていない。フランスは軍需産業の有力な買い手のひとつがロシアである(ちなみに中国も同じ)。また日本と同様エネルギー資源を輸入に頼らざるを得ないドイツにとっては、ロシアからの天然ガスの輸入に問題が生じるようなことがあると、先進工業国家としての産業政策に大きな影響が生じかねない。はっきり言ってEU内部でも国益は必ずしも一致していない。
 自国の国益への影響がほとんどないアメリカは、国益への影響がないだけに国内世論はまとまりやすい。オバマ大統領にとっては中間選挙を有利に進めることが民主党の党益であり(国益ではない)、国際社会の中で低下しつつあるアメリカの威信を回復する絶好の機会がウクライナ紛争であった。で、犬も食わない夫婦ケンカに介入することにした。先陣を切ってロシアへの制裁を加えようとEUに働きかけたのである。
 すでに述べたようにEU各国の国益は必ずしも一致していない。安全保障を優先する国と、経済関係を優先する国もあり、一枚岩というわけにはいかない。はっきり言ってアメリカの介入(干渉と言ってもよい)は、EUにとってもありがた迷惑な面がある。が、北海油田を擁していてロシアの天然ガスに頼る必要がなく、かつつねにアメリカと行動を共にしているイギリスは、このときもアメリカの介入を支持した。イギリスにとってどんなメリットがあるのかわからないが、アメリカの介入を支持したことで、いちおうEUは足並みを揃えてロシア制裁を始めることにした。
 メディアはまったく気づいていないが、アメリカの国際的威信はウクライナ紛争よりイギリスの分裂が生じていたら、間違いなく大きく低下していた。スコットランドの独立運動が成功していたら、イギリスは再分裂の危機に直面することになっていただろうし、そうなればアメリカは最大の同盟国を失うことにもなりかねなかった。アメリカの覇権主義はイギリスの後ろ盾があって初めて可能だったわけで、そうなるとアメリカは世界の警察官としての地位保全の協力者を、おそらく日本に求めることになっていたであろう。
 仮定の話を続けても仕方がないので、ウクライナ紛争に関連して、なぜ日本がロシアへの制裁を始めたのか。安倍さんも、さすがに「オバマ大統領の命令に従って」とは言えない。やむを得ずG7の連携関係重視を持ち出した。が、すでに述べたようにG7は国際紛争を解決するための機関ではない。その矛盾にメディアはまったく気づかない。昨日のブログでは日本のメディアも捨てたものではないと書いたが、手のひらを返すようだが、やはりアホ集団と評価を変えることにする。
 はっきり言えば日ロの経済関係の緊密化や平和友好条約の締結は、ロシアの国益がかかっている。が、日本にとっても重大な国益がかかっている問題でもある。
 ロシア領土のシベリヤや樺太には膨大な資源が眠っているとみられている。少なくとも石油や天然ガスなどのエネルギー資源の宝庫であることは間違いないようだ。他にどんな資源が眠っているか。調査すらほとんど手つかずの状態だが、日本の先端産業に欠かせないレアメタルやレアアースなどの資源が眠っている可能性も大きいようだ。
 が、ロシアには、その資源を開発する技術も資金も不足している。かつ、せっかくエネルギー資源を開発しても、売り先が見つからなければビジネスにはならない。まさか現在のヨーロッパへのパイプラインを延長してペイするなどとは中学生でも考えまい。だからロシアは、北方領土問題の解決を釣竿の先にぶら下げて、日本に資源開発のための技術と資金面の協力を求めてきたのだ。
 一方、日本にとっても大きなチャンスだった。北方領土問題を一気に完全解決することは無理だと思うが、とりあえず2島返還、残り2島は次世代に任せようというくらいの線で折り合いは付けられると思う。また産業界にとってもビッグチャンスが転がり込んできた話だった。まず、技術を売り込み、資源開発の技術の延長で新幹線技術や宇宙開発技術の共同開発など、日本の技術力でロシア産業の近代化を実現してやれば、そのこと自体が日本産業界にとって大きなビジネスになるし、さらに開発したエネルギー資源の買い手としても日本はきわめて有利なポジションを得ることになることは疑いを容れない。
 日本のエネルギーコストは欧米先進国に比べ極めて高い。日本への輸出国に
とって日本は完全な売り手市場であり、天然ガスなどは国際相場の倍で日本は輸入している。「国際相場にのっとって、もっと安くしてくれ」と日本は何度もお願いしているが、「この値段を呑めないなら買わなくてもいいよ」と、完全に足元を見透かされている。ロシアから安い天然ガスや石油が輸入できるとなると、現在の日本への輸出国も競争原理が働くから、当然値下げ要求に応じざるを得なくなる。足元を見るのは、今度は日本になる。
 さらに安全保障面では、日本はかつてないほど安定する。ロシアはアメリカに次ぐ世界第2位の軍事大国であり、そのロシアと平和友好条約を結べるようになれば、中国や北朝鮮も身動きが取れなくなる。アメリカの属国的な屈辱外交を続ける必要もなくなるし、沖縄の防衛はもう必要ないから沖縄から米軍基地は撤去してくれ、と大きな顔をして言えるようになる。
 ロシアにとっても安全保障面のメリットは大きい。日本がロシアと仲良くなったからと言って、アメリカが日本を敵視することなどありえない。そんなことになったら、国際社会からアメリカは見捨てられる。EUだって「そんなアメリカにはとてもついていけない」ということになる。アメリカが孤立を避けるには、腰を低くして日本との友好関係を維持したいと、そういう対日外交政策をとらざるを得なくなる。
 中韓との関係も激変する。いま中韓は日本敵視政策で共同歩調を取ろうとしているが、日ロの友好関係が確立すれば、中国の態度は一変する。ロシアを敵に回して勝てるわけがないから、むしろ日本との関係をよくしてロシアを敵に回すことを避けるという外交政策に転換せざるを得なくなる。もうそうなれば、いつまでも慰安婦問題で日本に対する敵視政策を続ければ、韓国がアジアで孤立化する。
 私は、そうした国際環境の激変に乗じて日本が再びアジアに覇を唱えるなどとバカなことを考える政治家が将来出てこないとは限らないから、かつて軍事政権を育てたメディアが再びバカなことはやらないという前提で書いている。
 その矢先にウクライナ紛争が生じた。これもはっきり言うが、ウクライナがどうなろうと、こうなろうと、日本の国益には微々たる影響もない。知らん顔をしていればよかったのだ。お隣の韓国のように…。
 が、どうしても日本をアメリカ合衆国の第51番目の州にしたいオバマ大統領にとっては、日本が金魚の糞のようにどこまでアメリカの穴にくっ付いてくるかの試金石になるケースでもあった。で、安倍総理に、ウクライナ紛争に関連してロシアへの制裁を始めるよう命じた。どんな弱みをオバマに握られているのかはわからないが、なぜか安倍総理はオバマ大統領の恫喝に唯々諾々と応じることにした。「もっと制裁を強めろ」と言われれば、そうしてきた。アホか、と言いたい。
 いまウクライナ情勢がようやく沈静化に向かいだした、この時期にプーチン大統領が安倍総理にラブコールを送ってくれたことの意味を大切に考えたい。もちろんまだウクライナ情勢は混とんとした要素を残してはいる。が、東部の分離独立派は、一部の跳ね返り武装集団も民意が我に非ずという現実を認めざるを得なくなったようで、いまはポロシェンコ政権との条件闘争に入っている。最終的にはドネツク州など分離独立派が優勢な地域が一つにまとまって、自治共和国として「国家内国家」という自治権拡大の状態をポロシェンコ政権が認めるという形で決着がつくのではないか。ちなみにメディアはウクライナ東部の分離独立派を「親ロシア派」と定義しているが、この定義もアメリカの受け売りだ。そんな定義をしている国は海外にほとんどない。お隣の韓国がウクライナでの対立関係をどう位置付けているか調べてみたらすぐ分かる。
 そうした状況の中で、プーチン大統領が再び送ってくれたラブコールだ。今度こそ「G7との連携」がどうのこうのと、バカな発想から抜け出して「日本の国益にとって本当の大切なことは何か」を思考のど真ん中において、安倍総理はプーチンとの首脳会談に臨んでほしい。安倍さんはNHKの国際放送の収録で「国益を重視して」とは言ってくれたようだが、まだ腰が引けているのが垣間見える。もう60歳。ど根性を据えてもいい歳だ。

ついに朝日新聞が木村社長の引責辞任のホントウの理由を明らかにした。(前)

2014-09-21 08:33:54 | Weblog
 朝日新聞がようやく、朝日新聞報道事件問題の核心を少し明らかにした。が、そのことを正式に理解できたメディアが、どの程度いるか。
 朝日新聞が20日付朝刊で自社の責任者処分の第1弾を発表した。記事のタイトルは『朝日新聞社、報道局長・編成局長を解任』である。同記事を転載する(紙面には掲載されている処分対象者の氏名は伏せる)。

 朝日新聞社は19日、5月20日付朝刊の「吉田調書」報道の間違いを認めて記事を取り消した問題で、ゼネラルマネジャー兼東京本社編成局長とゼネラルエディター兼東京本社編成局長の任を解き、それぞれ編集担当付とし、特別報道部長を東京本社報道局付とする人事を決めました。(中略)いずれも19日付。関係者の処分は今後、調査を進めたうえで決めます。

「少し明らかにした」と書いたのは、とりあえず木村社長が記者会見で事実上の「引責辞任」を明らかにした緊急記者会見で、木村社長が引責辞任と関係者の処分に追い込まれた理由を正確に伝えなかったことにも一因はある。
 木村社長が11日午後7時30分という異例な時刻に緊急記者会見を開いたのは偶然かもしれないが、一部の民放は午後4時から、残りの民放も5時から、NHKは6時から報道番組を組んでおり、うがちすぎかもしれないが、生中継されることを避けたのかもしれない。が、どうしても11日中には記者会見を開き、少なくとも各新聞社の翌日朝刊の締め切りに間に合うように配慮はしたと考えられる。
 NHKはこの日、午後7時30分から予定通り『クローズアップ現代』を放送したが、同番組は7時27,8分頃には終わる。8時からのバラエティ番組(ドラマもあるが)までの2~3分の時間はBS放送やNHKスペシャルの放送予定を紹介する。が、NHKはその2~3分を割いて朝日新聞社木村社長の記者会見の一部を武田アナウンサーが緊急報道した。異例の対応と言ってもいいだろう。が、私はそれでも納得できず、なぜ緊急生中継しなかったのか、とNHKふれあいセンターの上席責任者に抗議した。これは朝日新聞社というコップの中での出来事では済まない。メディアの言論・報道の自由とその権利の大きさに伴う責任の重さが問われた戦後初めてのケースだ。特別報道体制を組んで、木村社長の記者会見を生中継すべきだった、と。
 NHKふれあいセンターの上席責任者は、私の抗議の意味を十分には理解できなかったようだ。ま、無理はないかもしれない。が、事はそれほど重大だった。私は直ちに読売新聞読者センターには記者会見の重大性を伝えた。読売新聞読者センターの担当者はその日の新聞記事に対する読者の意見に対応するのに精いっぱいで、休憩時間にはネットなどでリアルタイムで進行中の事件などについて調べたりするしかない。私が電話したときは、担当者は木村社長の引責辞任の記者会見も知っていた。私が「これはねつ造記事を書いたことの責任をとるということだよ。朝日新聞が吉田清治と同じことをやったということだ。明日朝刊では、木村社長の記者会見の意味を正確に伝えるべきだ」とアドバイスしたが、無駄だったようだ。
 私自身は翌12日早朝に『朝日新聞の「吉田調書」報道は誤報か? 違うよ、ねつ造だ』というタイトルをつけたブログを投稿し、記者会見の意味を読み解いた。実は木村社長の記者会見はBSフジの『プライムニュース』が当日午後8時から放送予定を大幅に変更してかなりの時間を木村社長の記者会見の録画中継に割いた。前にもBSフジの『プライムニュース』を高く評価したブログを書いた記憶があるが、国内政治問題に限らず、社会問題、国際問題など遠慮会釈なく切り裂いている。キャスターの個性によって報道番組の風格がこれほど違うのか、とさえ思っている。おかげでNHKのバラエティ番組の後の首都圏ニュースやニュースウォッチ9を見る機会が激減した。
 そんな私の個人的な感想はどうでもいいことだが、この時点で木村社長の引責辞任記者会見の意味を読み解けたメディアは、残念ながらたった一つもなかった。その理由は木村社長の「引き際(まだ辞任してはいないが)のまずさ」にもあった。木村社長が、「吉田調書」報道と、慰安婦報道や池上氏の原稿ボツ問題やその後の対応のまずさなど、さまざまな朝日新聞が起こした問題を並列的に並べ立て、「第三者委員会の調査を待って」と時間稼ぎをしたことにも、その後の各メディアによる報道の混乱の原因があった。もっとも、メディアに多少論理的思考力のある人がいたら、木村社長の引責辞任の理由も、その時点で明確になっていたはずだ。私は12日に投稿したブログでこう書いた(要点。すべてを知りたい方はブログを読んでください)。

 木村社長は「吉田調書」の報道に誤りがあったと認め、引責辞任を表明した。慰安婦報道と「吉田調書」報道は全く別次元の問題であり、慰安婦報道での責任は取ろうとしなかったのに、「吉田証言」報道での責任をなぜ取るのか、という問題である。これは報道の在り方と報道の目的に関する本質的な問題なのだ。 「報道の在り方」という面から考えると、取材や記事は絶対に「色眼鏡」から解放されないという自覚を、ジャーナリストがどの程度持っているかによって大きく異なってくる。自分は公平(あるいはフェア、公正)であると勝手に思い込んでいるジャーナリストは、すでにその時点でジャーナリスト失格である。私もブログを書く際、自分自身の色眼鏡をかけて書いている。その色眼鏡が曇っているかいないか、確認するためにメディアの窓口にしばしば電話をして、反論があり、かつ合理的なものであればブログで書く内容を変更する。
 次に「報道の目的」である。これはメディアのスタンスや方針に直結する問題だ。社員が自分の属する組織の方針にある程度従わざるを得ないのはやむを得ないと思う。が、組織の方針と多少異なった主張をしても、それなりに論理的合理性がある主張についてまでボツにされることは、そんなにはない。メディアの記者には、それなりの自由度は認められている。そうした自由度が保証されていなければ、メディアは政党の広報紙と変わらない。
 朝日新聞は「吉田調書」の全文を入手して分析した結果として5月20日の記事を掲載した。そして「調書」には書かれていなかった「東電社員らの9割に当たる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発に撤退した」と報じた。これは慰安婦問題誤報とは異質なケースである。慰安婦問題は明らかに誤報である。誤報であることが判明したのちも頬被りし続けた朝日新聞の体質は問題があるにしても、吉田清治のようなねつ造小説を書いたわけではない。検証せずに鵜呑みにしてしまった結果である。
 が、「吉田調書」報道問題は、「吉田調書」を情報源と特定しながら、調書には書かれていなかったことを、あたかも調書に書かれていたかのように書いた。この行為は、吉田清治と本質において変わらない。もはやメディアとしては自殺行為だ。
 実はすでに朝日新聞のねつ造記事を指摘していたメディアもあった。問題は、その時点では頬被りをした朝日新聞が、なぜ11日になって急きょ木村社長の引責辞任会見を余儀なくされたのかということだ。当日の午前、菅官房長官が急きょ記者会見で「吉田調書」を官邸のホームページで公表すると発表した。しかも、いつもはノーネクタイの菅氏が、その日に限ってネクタイをきちんと締めた。独裁体制を築きつつある安倍総理が、安倍政策に批判的な朝日新聞を、この際徹底的に叩いておこうという意図が、垣間見えるような気がしてならない。私の「読み過ぎ」ですめばいいのだが…。

 以上が12日に投稿したブログの要点である。メディアは木村社長の記者会見を大きく取り上げたが、少なくともその時点で会見での正式コメントの発表と、その後の記者とのやり取りも含め、その重大性を正確に認識したのは私一人だった(私が知らないところでネットなどで主張していた方はいたかもしれない)。
 昨日朝刊で、朝日新聞はようやく木村社長引責辞任の原因が、慰安婦報道の混乱にあるのではなく、「吉田調書」報道に関してねつ造したことにあることを事実上認めた。 
 報道局長と編成局長を解任して編集担当付きにしたという。事実上の懲戒免職人事だ。懲戒免職処分にすると、退職金も企業年金も受給資格を失うから、穏便に済ませたいという「親心」なのだろう。が、そんな程度の処分で済ませ
ていい問題だろうか。やはり「ねつ造記事」を出してしまったことに対する責
任者の処分としては、甘すぎるのではないだろうか。処分された二人が、直接「吉田調書」を読み解いたわけではないだろう。そんな個々の事件を直接担当する立場にはないはずだ。管理責任を問われたということなのだろうが、根本的な問題はメディアの体質にある。これは朝日新聞だけではないので、何度も様々な問題を通じてメディアの在り方を私はブログで問うてきた。
 この事件が、一時的にメディア界を激震させたというだけでなく、先の大戦でメディアが果たした役割について、いぜんとして自らの責任を軍部になすりつけたまま、軍部の言いなりになったとしおらしく反省して見せて、それでみそぎは済んだとしている、メディア界に共通したスタンスに対する根本的な見直しから逃げまくっていることに根源がある。もう外出時間が迫ってきたので、この続きは明日書く。

  

スコットランドの住民投票がなぜ予想外の大差になったのか――世論調査はもう無意味だ。

2014-09-20 06:07:44 | Weblog
 私の予想が外れた。どうして外れたのか。
 予想したのはスコットランドの独立を問う住民投票の結果である。もちろん、独立賛成派が勝つ、などとは予想していない。
 私が昨日早朝に投稿したブログで書いたのは、こうである。

 今朝の新聞報道によれば僅差で独立反対派がリードしているようだが、世論調査のアナウンス効果がどう出るか。もちろん大差がついていると雪崩現象が生じるのがアナウンス効果でもあるが、僅差の場合は逆効果になるケースが少なくない。ただ今回の場合、まだ態度不明としている人たちが4%前後の少数なので、果たしてアナウンス効果が生じる余地があるかどうか、私はアナウンス効果による逆転の可能性は少ないと見ているが…。

 投票の結果は、皆さんご存知の通り、反対55.3%、賛成44.7%だった。賛成派の逆転はならなかったという点では、私の予想通りだったが、問題は直前の世論調査と投票結果のギャップである。
 その結果から、英国営放送のBBCは、世論調査の結果が住民の投票行動に結びついたのだろうと解説したようだ(NHKふれあいセンターによる)。そんなバカなことはありえない。イギリスのメディアは日本のメディア以上にアホばかりだということが分かったので、変な安心の仕方だが、私が厳しく批判してきた日本のメディアは国際標準から考えると、そうバカにしたものではないかもしれない、と少し安心できた。
 アナウンス効果についてネットで調べたわけではなかったので、改めて調べてみた。一番わかりやすい解説は『知恵蔵2014年版』の蒲島郁夫・東京大学教授の解説なので、転載する。あらかじめ断っておくが、正しい解説だとは言っていない。
「マスメディアによる選挙予測報道が有権者の投票行動に影響を与えること。戦局において、ある候補者の圧倒的優勢が報じられると、支持者は安心して、投票に行くことをやめるかもしれない。逆に、支持する候補者の苦戦が伝えられると、投票のコストを顧みず投票所に向かう。さらに、選挙予測報道は運動員の士気にも影響をもたらす。優勢が伝えられると陣営の士気が緩み、苦戦が伝えられると陣営が引き締まる。これは候補者にとって重大なことである。また全国的な議席獲得予想が、有識者の投票行動に影響を与えることもある。たとえば、仮にすべての新聞の予測が「与党(自民党)の安定多数」だとすると、与野党の伯仲状況を望む牽制的有識者(バッファー・プレーヤー)は、他党に投票したり、棄権したりすると考えられる」
 この東大教授の解説を読んで、私は日本のメディアに対して、さらに安心感を強めた。東大教授ほどのアホはそういないことが分かったからだ。東大教授の説によれば、選挙で最も有利なのは泡沫候補になりかねない。泡沫候補がアナウンス効果で勝利した選挙が一つでもあったか。
 別に東大が憎いわけではないが、東大教授と言うと、メディアはたちまち恐れ入ってしまう。そんな必要はないよ、と言いたいついでに、メディアにもしばしば登場する東大名誉教授で政治学者の御厨貴氏が朝日新聞で嘆いて見せた。安倍政権下で自民党の多様性が失われた原因は小選挙区制にある、と。読んでいてアホらしくなった。
 自民党内で独裁的体制を小選挙区制施行以降に築いたのは、過去には小泉総理だけである。いま安倍総理が独裁体制を着々と築きつつあることは私も否定しないが、その原因は小選挙区制にあるわけではない。内閣支持率の高さによって、安倍総理のやりたい放題にしかめっ面をしている実力者たちも、沈黙を余儀なくされているだけで、別に自民党から多様性が失われたわけでもなんでもない。
 こんなアホで非論理的思考力の持ち主が教えている大学を出た連中が、大きな顔をできる社会に、私は危機感を覚えるだけだ。
 はっきり言えば、小泉独裁体制も安倍独裁体制(まだ万全とは言えないが)も、内閣支持率の高さによって支えられており、それこそアナウンス効果の典型的ケースである。
 そういう観点から言えば、スコットランドの独立をめぐる世論調査と結果との乖離の大きさは、世論調査がアテにならない時代になったことを意味している。世論調査の誤差率は一般的に±5%とされているが、メディアによって最近は調査結果の開きの大きさが指摘されている。その落差は各メディアによる調査方法の違いによるとも言われているが、日本だけに限らず世界の先進国は少子高齢化が進行し、若者層の都心への一極集中も世論調査の誤差を拡大しているのかもしれない。
 世論調査は一般的にコンピュータによる無差別抽出した相手への電話でのアンケート方式である。が、若者層の固定電話離れは、世界的潮流で、先進国だけでなく中国などでも急速に進んでいる。と言うより、電話線などの社会インフラが遅れている国(新興国も含め)では、社会インフラの整備より携帯電話(スマホも含む)のほうが、資本投資もはるかに安上がりで済むし、また利便性も高いというメリットから、電話線を引くという行為そのものが採算性の面から考えてもう無理と言う時代になっている。
 インターネットも、NTTのバカな連中はいまだ必死になってひかりを推進しようとしているが、若者層のパソコン離れも急速に進んでいる。投資家のためにアドバイスしておくが、NTT株は売って売って売りまくれ、と言いたい。間違いなく赤字垂れ流し企業の仲間入りを果たすからだ。これはNTT商法に腹が立っているから言ったまでで、半分冗談。
 NTTのことなど、どうでもいいのだが、固定電話による世論調査の限界を、今回のスコットランド住民投票の結果は明らかにしてしまった。今回の投票は96,7%の住民がすでに態度を決めており、アナウンス効果が生じる余地はなかった。アホな東大教授は、圧倒的に優勢な候補者が不利になるケースとしてアナウンス効果を解説しているが、圧倒的に有利な候補者が油断して負けたケースなど皆無である。そんなに大きな差でリードしているわけでもないのに、「勝った、勝った」と浮かれて、選挙戦終盤で対立候補に追い上げられることはある。だから日本には「勝って、兜の緒を締めよ」という格言もある。
 アナウンス効果は、安倍総理の独裁体制構築のように世論の支持を背景に、政敵を事実上葬るというやり方を可能にする形でも現れる。対立する双方の主張について、支持率が拮抗していて、態度を決めかねている人たちがまだかなりいる場合にのみ、投票結果はふたを開けるまでわからない、つまり逆転結果が生じる可能性がある場合もアナウンス効果のひとつである。こういうケースのことをアンダードッグ効果(負け犬効果)という。
 他にも社会現象の引きカネになるアナウンス効果もある。たとえば学校でのいじめ自殺なども、そういう悲劇をメディアが書きたてると、たちまち社会現象化してしまう。知らぬ者同士がネットで知り合い、初顔合わせで「初めまして」とあいさつして練炭自殺を図ることが流行したこともある。これもアナウンス効果の一種である。アナウンス効果は選挙民の投票行動だけでなく、さまざまなケースに現れる。朝日新聞の慰安婦報道も、国際社会での日本観に大きなマイナス影響を与えたという意味ではアナウンス効果と言えなくもない。
 そういう意味では、今回の投票はアナウンス効果によるものではなく、事前の世論調査、つまり従来型の電話による無作為選択の相手へのアンケートでは、正確な世論を反映した数字は出せなくなったことを意味する。
 ではどうしたらいいか。いろいろな要素を加味した加重平均で調査地域と調査対象の年齢(20~30代、40~50代、60歳以上)や男女の性別などの要素を加味した調査対象を絞ったうえで、人海戦術による対面アンケート方式で調査するしかない。日本の場合で言えば、各メディアが個々バラバラにそういった世論調査をすると費用がかかりすぎるから、大手メディアが三つくらいのグループを編成し(各グループの構成メディアは定期的に入れ替えるのが望ましい)、各グループがそれぞれ別の調査機関に依頼して世論調査を行うようにすれば、誤差率はかなり縮小するのではないか。 
 なぜ、スコットランドの投票結果が事前の世論調査と大きく異なったかを、独立反対派が勝利した理由を探すだけでなく、世論調査そのものがおかしかったと理解すべきであろう。
 八つ当たりと言われれば、その通りなのだが、私が東大に合格できなかったからの腹いせで書いているわけではない。超有名進学校で「天才」と持ち上げられたこともあった私だが、記憶力には乏しく、すべての試験科目で平均的に一定の点数をとれないと合格できない大学だから、大学での教育も知識重視の教育をしているのだろう。だから異端の発想をするような人物を育てることより、知識で物事を解決する経験則的思考力を育てることに力を注ぐという、明治政府が官僚育成のために作った国策大学の遺伝子はちょっとやそっとのことでは消えてなくならない。偏差値では劣っているだろう京都大学がノーベル賞学者を輩出しているのはなぜか…大学教育の目的から洗い直す必要があるだろう。これは余計な話。

朝日新聞の誤報とねつ造の検証――既存メディアが怖くてできない検証作業③

2014-09-19 09:43:52 | Weblog
 朝日新聞事件についてのブログは昨日で終わる予定だったが、急用ができてブログを書けなかった。すでに朝日新聞社木村社長の引責辞任の本当の理由は明らかにした。
 読売新聞読者センターとの争いのようなことは朝日新聞では起きないようなので、朝日新聞お客様オフィスとのやり取りについて、全部ではないが(私は電話でのやり取りは録音していないので、記憶の範囲で)公開する。
 はっきり言えば、いま朝日新聞お客様オフィス体制は臨戦態勢にある。相当なベテラン記者を配属して、「戦うお客様オフィス」を前面に押し出している。朝日新聞は記者にツイッターなどで自由にものが言える社内体制を構築している。いま読売新聞読者センターは、私と極めて有効な関係にあり、読売新聞がとっているスタンスに対して痛烈な批判をしても正面から受け止めてくれる。反発する人がゼロになったとまでは言わないが、大半の方は私の主張に同意してくれる。が、新聞の論調がいぜんとして安倍ベッタリズムなので、読売新聞読者センターとのやり取りは公開できない。また犯人探しをして「言った」「言わない」の対立になり、再び読売新聞読者センターが大混乱に陥るようなことになって、私も自由に話ができなくなることのほうが怖いので、読売新聞読者センターとのやり取りについては一切具体的なことはブログで公開しない。
 ただ朝日新聞お客様オフィスとのやり取りで、私の朝日新聞事件の分析が間違っていないことを確信したので、その範囲で朝日新聞社を信じてお客様オフィスとのやり取りで重要な部分を公開する。読売新聞社の記者も、早く自由にものが言えるような体制に移行してほしいと思う。実は、私とのやり取りでは、私を信じてくださっているようで、本音を話してくださる。読売新聞社も今変わりつつあるのかもしれない。他人様の不幸が引き金であったとしても、メディアの体質が変わることになれば、私のブログ活動はささやかな貢献をしたと、「自分で自分をほめてやりたい」。
 
 まず今回の問題の発端は、8月5,6の両日にわたって朝日新聞が大々的に公表した慰安婦問題についての誤報を明らかにしたことである。
 私も吉田清治の『私の戦争犯罪』はフィクションであることをとっくにブログで明らかにしており、メディア界では常識だった。問題は朝日新聞がなぜ誤報であったことをいままで頬冠りしてきたのか、そして今頃になって済州島まで調査取材に行って吉田証言は虚構だったことを確認したのか、ということにある。
 そもそも、その原因を作ったのは安倍総理が設置した第三者委員会による「河野談話の作成過程の検証作業」にあった。その検証結果を政府が公表したため、メディアも大騒ぎになった。私が慰安婦報道に大きな関心を抱くようになった
のも、正直のところ、この大騒ぎがきっかけであった。
 いま韓国は必死になって安倍総理が設置した第三者委員会による検証結果を覆そうと必死になっており、当時の金政府が探し出し日本側に証人として送り込んだ自称「元慰安婦」の河野プロジェクトによる聞き取り調査の録音の一部の公開に踏み切っている。菅官房長官はきわめて不快の念を記者会見で明らかにした。この問題は、ここまで来ると、今さらなかったことにしようという外交的駆け引きは不可能になった。
 安倍政権は河野談話の作成過程について検証作業を行い、韓国の金政権による要請によって慰安婦問題の調査を始め、韓国側が証人として送り込んだ16人の慰安婦の証言だけを根拠に「軍による強制性」を認めたのが河野談話だった。
 吉田証言の信ぴょう性を確認せずに吉田清治を「自らの戦争犯罪を告白した勇気ある人」と英雄視するがごとき報道を繰り返して国際世論に大きな影響を与えたことと、河野談話の作成とはまったく別の問題であり、吉田清治のフィクションが国際社会で慰安婦問題についての認識として定着した過程で朝日新聞が果たした役割とは、また別の次元で論じなければならない。
 そのあたりの問題をごっちゃにして朝日新聞批判を他メディアがし始めたため、メディアの混乱はより拡大した。
 問題点を論理的に整理しておく。私の指摘は朝日新聞批判を繰り返しているメディアの方の多くも同意されている。どのメディアのどういう立場にある人かは書けない。書くと、また不毛な「言った」「言わない」から「犯人探し」に発展して、私が「ねつ造者」呼ばわりされかねないからだ。
 まず安倍総理が「河野談話」を見直そうと考えたのは第1次内閣のときからだった。すでに多くのメディアから吉田証言に対する疑問が出されており、韓国内でもメディアの一部や学者が自称「元慰安婦」証言についても疑問が出されていた。政府が「河野談話」の見直しをするのは当然であり、その前提として段階を踏んだのが「河野談話の作成過程の検証」であった。
 安倍総理が中途半端なのは、あたかも「信念の政治家」であるかのように装いながら、信念のひとかけらもないタダの権力主義者にすぎないことをメディアがまだ気づいていないことに問題が混乱した最大の原因がある。そもそも「河野談話の作成過程の検証」を行うことにしたのは、「河野談話の見直し」をするための根拠を見つけることにあったはずだ。私も「河野談話の作成過程」の一部が検証されたことで、読売新聞や産経新聞、日本経済新聞などが主張しているように「河野談話」自体の検証と見直しをすべきだと考えている。
 河野談話が作成されることに至った経緯はかなり明らかになってきた。当時慰安婦問題で韓国内で反日感情が高まっていた金政権にとって、日韓関係がこじれたままだと日本企業の韓国進出にも歯止めがかかってしまい、韓国が目指していたエレクトロニクスをベースにした技術立国の先行きに暗雲が垂れ込めかねないという危惧が大きかった。
 そのため金大統領は、国内の反日感情を鎮静化するため「金銭的補償は要求
しないから、慰安婦問題について謝罪だけしてほしい」と頭を下げて日本政府に頼んできた。それがのちに、どう尾を引くか考えなかった当時の宮沢総理の名前が、なぜか「河野談話」問題の議論の中で登場しない。「河野談話」を発表したときの河野洋平氏は、宮沢内閣の官房長官を務めており、その立場で「河野談話」を発表している。
 官房長官は「総理の女房役」とも「政府のスポークススマン」とも言われている。つまり総理の意向に最も忠実な人物であり、総理に何かあった場合、代理を務めるくらいの地位にある(副総理がいる場合は副総理に次ぐ)。当然、総理と一心同体であり、自民党政権では(現自公連立政権も含め)総理派閥内で総理がもっとも信用する人物を総理は選ぶ。つまり「河野談話」は宮沢内閣の意を体したものであり、談話の責任は発表者の河野氏ではなく、宮沢総理にあることを意味する。
 過去、私が知る限り総理の意向に逆らった官房長官は、細川内閣の武村官房長官だけである。このときは、細川総理が唐突に「消費税を廃止して、社会福祉税を導入する」と独断で税制改革構想を発表したのに対して、定例記者会見で真っ向から武村官房長官が批判したという、異例中の異例のケースである。が、細川政権はもともと野合政権にすぎず、細川総理率いる日本新党に官房長官を務められるほどの見識ある国会議員がいなかったため、やむを得ず親友でもあった他党の党首を官房長官に抜擢せざるを得なかったという事情があった。
 が、宮沢内閣時における河野官房長官の地位は、武村氏のような立場にはなく、現在の菅官房長官と同様の立場にあった。河野氏が、宮沢総理の意を受けずに勝手に「自分の私見」を発表できるわけがなく、いま「河野談話」の見直しをするのであれば、当然宮沢内閣の慰安婦問題についてのスタンスが問われなければならない。だから、河野氏だけを血祭りにしようという安倍総理の姿勢もまた問われるべきである。
 いずれにせよ、「河野談話の作成過程の見直し」で、全容ではないにしても日韓での談話作成についてのすり合わせのプロセスの一部が明確になった。当時の日韓両政府による政治的配慮によって作成されたのが「河野談話」であったことが明らかになった以上、「河野談話」を継承するかどうかは別にして「河野談話の見直し作業」は当然行わなければならない。
 そして「河野談話」の根拠とされた自称「元慰安婦」の聞き取りと言ういい加減な「調査」が「慰安所設置と慰安婦募集、さらに慰安所における慰安婦の生活」が軍の強制によるものではないという事実が明らかになったら、国際社会における認識の誤りを正すのが安倍総理の責任になるのは当然だ。
 が、肝心の宮沢内閣や安倍内閣の責任追及を怠ったまま、あたかも朝日新聞の報道だけが日本を貶めてきたかのような、朝日新聞に対する追及の仕方がメディアとしてフェアと言えるのか。
 私の朝日新聞への批判の厳しさは、朝日新聞お客様オフィスが悲鳴を上げるほど手厳しいことは朝日新聞お客様オフィスの多くの方が認めている。「こんな手厳しい批判を受けたことがない」と言いつつ、私の主張に納得される。もっとも、NHKや読売新聞もそうだが、私と話し合った人たちが納得されても、私の意見が紙面やテレビのニュースに反映されるケースはきわめて少ない。
 過去において私の主張が反映されたのは、安保法制懇の位置付けに関して、NHKがアナウンサーの発言だけでなくテロップ(字幕)でも「政府の有識者…」とオーソライズした報道を続けていたのに対して連日上席責任者に抗議を続け、ついにNHKが「安倍総理が設置した有識者…」と位置付けを変更したことくらいである。
 もっと昔には女子フィギュアスケートの国際大会であるNHK杯を録画放送していたのに強烈に抗議し(この抗議は私だけではなかったと思う)、NHKが生放送に変更したことがある。
 いま私はNHKと朝日新聞に対してウクライナ紛争の当事者の一方について「親ロシア派」という位置付け方はおかしいと申し入れている。いまこの記事を書きながら思い出したので、ついでに書いておくが、ポロシェンコ政権が正式に誕生する前の対立構図について、すべてのメディアが「暫定政権vs親ロシア派」と位置付けていた時期がある。当事者の一方を「親ロシア派」と位置付けるなら「暫定政権」は「親欧米派」と位置付けるべきだと主張し、ブログにも散々書いてきた。これは特定のメディアにだけそういう指摘をしてきたわけではないので経緯は不明だが、いつの間にか全メディアがウクライナにおける対立の構図を「親欧米派vs親ロシア派」に変えた。
 いま私はNHKと朝日新聞に「親ロシア派」という位置付けについて、いったん、そういう位置付けをしてしまうと、その位置付け自体が政治的意味合いを持って独り歩きを始めてしまうと指摘している。NHKは「多分報道部門は分かりやすさを重視しているのだと思う」と返答されたので、「分かりやすければいいという話ではない。NHKが何らかの政治的意図をもってそう位置づけているとは私も思っていないが、政治的意味合いを持つ位置付けが正確でなければ、視聴者に対するマインド・コントロールにつながる。報道における表現の厳しさに対する自覚がメディアになさすぎる」と指摘した。
 この指摘にはNHKも朝日新聞も同意してくれたが、どう位置付けを変えるか。NHKには「親ロシア派」という位置付けに変えて「(ウクライナ)東部の分離独立派」という位置付けに変えるべきだと申し入れているが、まだ朝日新聞にはそういう新位置付けの提案はしていない。おそらくNHKはウクライナ東部の反ポロシェンコ勢力について、私の提案を受け入れた位置付けに変えると思う。

 私がこの連載ブログで書きたかったこと。
 その最大のポイントは、「あらゆる自由の中で、言論・報道の自由は民主主義社会を一歩前進させるために(民主主義を守るためではない。民主主義にはゴールはない)、最も大切な自由だ。が、自由の権利だけを主張する一方、権利の大きさには権利の行使に伴う責任の重さが、べったりへばりついているという自覚をメディアが失っているのではないか」という一点である。
 先の大戦においてメディアが報道の自由を軍部によって制限されていた事情は、私も認めるにやぶさかではない。が、メディアが報じた様々な「美談」や「竹槍で戦え」と国民の戦意を高揚してマインド・コントロールしろとまでは、いくら軍部もメディアに命じていないはずだ。先の大戦におけるメディアは、軍部の言いなりになったと、しおらしく反省はして見せているが、本当の責任は軍部に逆らわなかったことではなく、軍部に自ら媚を売って若い人たちの命を犬のように扱ってきたことだ。
 安倍総理が、「今日の日本があるのは、先の大戦で尊い命を捧げてくれた方たちのおかげだ。感謝の念を表すために靖国神社に参拝する」と言うなら、メディアの代表者たちは、「私たちのせいで、あたら招来ある青年たちを犬死に追いやったことに対して、謝罪の念を表すために靖国神社に参拝」すべきではないか。メディアが取るべき責任の在り方について、とりあえず、この連載ブログを終える。

 なお今日午後にはイギリス・スコットランドの住民投票の結果が判明する。すでに開票作業に入っていると思うが、状況はまだ不明だ。独立派と半独立派が拮抗しており、イギリスは現在の国家になって以来最大の危機を迎えている。今朝の新聞報道によれば僅差で独立反対派がリードしているようだが、世論調査のアナウンス効果がどう出るか。
 もちろん大差がついていると雪崩現象が生じるのがアナウンス効果でもあるが、僅差の場合は逆効果になるケースが少なくない。ただ今回の場合、また態度不明としている人たちが4%前後の少数なので、果たしてアナウンス効果が生じる余地があるかどうか、私はアナウンス効果による逆転の可能性は少ないと見ているが…。