吉田松陰、 田中河内介、 真木和泉守
すごい先生たち-46
田中河内介・その45 (寺田屋事件ー34)
外史氏曰
【 生麦事件ー2 】
4名のイギリス人は、東海道を 川崎方向に 早駆けで馬を飛ばした。 神奈川宿より一里( 約4キロメートル ) 程川崎寄りの地点で、まず輿に乗った武士に率いられた 数人の武士団(7、8名)と出会ったが、双方とも さして気にも止めずそのまま進んだ。
これは 久光の行列の先駆けをしていた 供頭海江田武次らで、海江田は 奈良原喜左衛門と一日交代で供頭( 供目付が本職、供頭は臨時職 ) を勤め、行列の遥か先を進んでいた。
久光の駕籠脇 その他、行列の中にいたのは当番だけで、非番の多くは随意前方を徒歩で歩いていたのである。 海江田はこの日 非番であった。
さらに進んだとき、道路いっぱいに進んで来る 大行列と遭遇したのである。
マーシャルらは、リチャードソンとボロデール夫人を先行させ、自らはクラークと前後一列になって、道路の左側を小駆けになって、馬の手綱を取っていた。
先行するリチャードソンは内側にいて、時折横座りに騎乗しているボロデール夫人の足先が、自分の馬に触れそうになるのを気にしながらも、愉快に話しかけていた。
久光の二列行進の前駆 ( 行列の先導者 ) は彼らの側を通過した。
次いで本行列が 道路の全幅を覆うようにして 進んで来たので、リチャードソンは馬をさらに路の左側に寄せ、並足にして速度を落とした。
道幅は3、4メートルしかない。 左側には砂防垣がところどころにあり、人家もあった。 松並木もつづいている。
リチャードソンとボロデール夫人は 旅行者のため、大名行列に出会ったら路傍に避け、下馬して行列の過ぎるのを待つという 我が国の仕来りを知らない。
そのときの 4人の位置は、リチャードソンとボロデール夫人は、マーシャルやクラークよりも 約9メートルほど前を先行しており、行列に向かってリチャードソンは内側に、ボロデール夫人は外側に馬首を並べていた。 内側にいたリチャードソンの馬は、大行列にやや驚いたのか、ボロデール夫人の馬を押したので、夫人の馬は片脚を 道路側の溝に踏み外した。
そのため彼女は 馬を道路に戻そうとし、前に少し進め列中に入ってしまった。
この時 久光の乗物との距離は 約20メートルであり、駕籠廻りの若党( 中小姓 )の行列が2人によって乱されて止ってしまった。 中小姓(ちゅうこしょう)の列から飛び出して、刀の柄に手をかけ、詰め寄る者もいた。
久光の乗物の右側後方に従っていた 供頭(ともがしら) 奈良原喜左衛門は、この様子を見咎めると、近習役の側を通り抜け、疾風のように中小姓の列の前まで来ると、リチャードソンの前に駆け出して来て、何やら右手で手まねきをした。 おそらく、下馬せよ! 引き返せ!と言ったのであろう。
後方からその有様を見ていたクラークは、「 引き返せ! 」 と叫び、またマーシャルも「 並行するな! 」 と叫んだ。 そこでリチャードソンとボロデール夫人は、これは大変な事になるかも知れないと感じ、馬首を返そうとしたが、もたもたして思うようにいかず、かえって馬首を行列の中に入れてしまった。 そのため行列は 一時立往生してしまった。
これを見た奈良原は、無礼者! とばかり、薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう) の抜きの早業で、馬上のリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し左肩から切り下げた。 するとたちまち 彼の左腹から 血がほとばしり出た。 彼はその創口を左手で押さえ、右手に手綱を取って馬首を立て直すと、約100メートルほど逃げ延びたが、こんどは、行列の中から躍り出た鉄砲組の 久木村利休(くきむらとしやす) ( 当時、十九歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役 ) が再び斬りつけた。 リチャードソンは懸命に馬を駆って 約700メートルほど逃げ、生麦村字並木( 字松原 ) に達した時、ついに力尽きて落馬した。


リチャードソンらが斬りつけられた現場から 旧東海道を横浜方向に見る (2010.6.17)


リチャードソンが落馬・絶命した現場付近 ( 道・東海道を横浜方向に見る。 道の左側は海岸に近い )
フェリックス・ベアト写真集 ( 横浜開港資料館編 )
【 ベアトは 事件1年後に 来日している。 現場を特定出来なかったので、
想像で人家から離れた場所で撮影したのであろう ( 生麦事件参考館館長・浅海武夫氏の談 ) 】
つづく 次回
すごい先生たち-46
田中河内介・その45 (寺田屋事件ー34)
外史氏曰
【 生麦事件ー2 】
4名のイギリス人は、東海道を 川崎方向に 早駆けで馬を飛ばした。 神奈川宿より一里( 約4キロメートル ) 程川崎寄りの地点で、まず輿に乗った武士に率いられた 数人の武士団(7、8名)と出会ったが、双方とも さして気にも止めずそのまま進んだ。
これは 久光の行列の先駆けをしていた 供頭海江田武次らで、海江田は 奈良原喜左衛門と一日交代で供頭( 供目付が本職、供頭は臨時職 ) を勤め、行列の遥か先を進んでいた。
久光の駕籠脇 その他、行列の中にいたのは当番だけで、非番の多くは随意前方を徒歩で歩いていたのである。 海江田はこの日 非番であった。
さらに進んだとき、道路いっぱいに進んで来る 大行列と遭遇したのである。
マーシャルらは、リチャードソンとボロデール夫人を先行させ、自らはクラークと前後一列になって、道路の左側を小駆けになって、馬の手綱を取っていた。
先行するリチャードソンは内側にいて、時折横座りに騎乗しているボロデール夫人の足先が、自分の馬に触れそうになるのを気にしながらも、愉快に話しかけていた。
久光の二列行進の前駆 ( 行列の先導者 ) は彼らの側を通過した。
次いで本行列が 道路の全幅を覆うようにして 進んで来たので、リチャードソンは馬をさらに路の左側に寄せ、並足にして速度を落とした。
道幅は3、4メートルしかない。 左側には砂防垣がところどころにあり、人家もあった。 松並木もつづいている。
リチャードソンとボロデール夫人は 旅行者のため、大名行列に出会ったら路傍に避け、下馬して行列の過ぎるのを待つという 我が国の仕来りを知らない。
そのときの 4人の位置は、リチャードソンとボロデール夫人は、マーシャルやクラークよりも 約9メートルほど前を先行しており、行列に向かってリチャードソンは内側に、ボロデール夫人は外側に馬首を並べていた。 内側にいたリチャードソンの馬は、大行列にやや驚いたのか、ボロデール夫人の馬を押したので、夫人の馬は片脚を 道路側の溝に踏み外した。
そのため彼女は 馬を道路に戻そうとし、前に少し進め列中に入ってしまった。
この時 久光の乗物との距離は 約20メートルであり、駕籠廻りの若党( 中小姓 )の行列が2人によって乱されて止ってしまった。 中小姓(ちゅうこしょう)の列から飛び出して、刀の柄に手をかけ、詰め寄る者もいた。
久光の乗物の右側後方に従っていた 供頭(ともがしら) 奈良原喜左衛門は、この様子を見咎めると、近習役の側を通り抜け、疾風のように中小姓の列の前まで来ると、リチャードソンの前に駆け出して来て、何やら右手で手まねきをした。 おそらく、下馬せよ! 引き返せ!と言ったのであろう。
後方からその有様を見ていたクラークは、「 引き返せ! 」 と叫び、またマーシャルも「 並行するな! 」 と叫んだ。 そこでリチャードソンとボロデール夫人は、これは大変な事になるかも知れないと感じ、馬首を返そうとしたが、もたもたして思うようにいかず、かえって馬首を行列の中に入れてしまった。 そのため行列は 一時立往生してしまった。
これを見た奈良原は、無礼者! とばかり、薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう) の抜きの早業で、馬上のリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し左肩から切り下げた。 するとたちまち 彼の左腹から 血がほとばしり出た。 彼はその創口を左手で押さえ、右手に手綱を取って馬首を立て直すと、約100メートルほど逃げ延びたが、こんどは、行列の中から躍り出た鉄砲組の 久木村利休(くきむらとしやす) ( 当時、十九歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役 ) が再び斬りつけた。 リチャードソンは懸命に馬を駆って 約700メートルほど逃げ、生麦村字並木( 字松原 ) に達した時、ついに力尽きて落馬した。


リチャードソンらが斬りつけられた現場から 旧東海道を横浜方向に見る (2010.6.17)


リチャードソンが落馬・絶命した現場付近 ( 道・東海道を横浜方向に見る。 道の左側は海岸に近い )
フェリックス・ベアト写真集 ( 横浜開港資料館編 )
【 ベアトは 事件1年後に 来日している。 現場を特定出来なかったので、
想像で人家から離れた場所で撮影したのであろう ( 生麦事件参考館館長・浅海武夫氏の談 ) 】
つづく 次回