サンズ・トーク

自分を越えたい。時にそう思っている中高年の記。

日本スペイン交流400周年

2013-06-07 01:36:09 | 文化
昨日の朝日新聞に、伊達政宗が支倉常長らを使節団としてメキシコ経由でスペイン、ローマに送った。
それ以来400年目になるという記事を見ました。

実は、当ブログでは、先月29日、「セビリアにハポンという名の人がいる」で、この支倉使節団のことを紹介していたのです。
参照 http://blog.goo.ne.jp/san-gblog/e/d6958e5c83b24e4bb2f700ae5fc77382

遣欧使節団は、慶長18年(1613)、宮城の石巻から洋式帆船でメキシコへ向け船出したのだが、その丁度2年前、慶長三陸大地震が福島、宮城、岩手から北海道のアイヌ地までを襲い、地震と津波の大災害をもたらしていた。今の東日本大震災とそっくりの地震災害だった。
朝日の記事では、ある人が政宗はこの震災から復興するため、メキシコ、スペインとの通商を狙ったのではないかと言っていた。

当時、徳川家康は、関が原で天下の覇権を手中に収めた矢先なのに、伊達政宗の計画をよくも許したものだ。と私は思うのです。
政宗は、震災からの復旧復興が最優先などと家康を口説いたのだろうか。

徳川政権自体も、態勢固めに大童の時代だったに違いないのです。

それが証拠に徳川幕府は、
支倉使節団が欧州にいっている時期に、キリシタン禁止令に動きます。これで、支倉の通商交渉は難しくなります。
またその後、外国との通商は、幕府が独占して平戸でオランダとのみ門戸を開いて、鎖国になってしまいます。

ご禁制がふたつも出てきては、伊達政宗もどうしようもない。
こういうふうになって、支倉使節団の7年にもおよぶ通商交渉もボツになってしまったのです。
そして支倉は失意のうちに帰ってきたが、セビリアに滞留していた従者の武士たちは日本に帰らず、スペイン化して子孫を増やし、ハポンの名の人となったのでした。

(本当は、伊達政宗は容易ならぬ策謀の人、当時の大航海時代の覇者スペインを味方につけて、家康に対抗しようとする魂胆を秘めていたのではないか。と思うのです。)

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