チワッス!ポンちゃんだよ。薬を1錠減らしたら、最近体調を崩して寝ておりました。読書だけはできるので、先週買った、「僕は、字が読めない」小菅宏著(集英社インターナショナル)を読ませていただきました。
「ふつうになりたい」。その願いが、痛々しい音を立てて私の心と共鳴した。私もそう。高校に入ったことも、大検をとったことも、大学に入ったこともみんなそう。「人と同じになりたかった」だけ。いつか、つらかった過去を笑い飛ばせるようになりたかっただけ。苦しいことを分かってほしかっただけ。私も3メートル上から落ちた(私の場合は兄弟の無理解からくる叱責が原因だから違うけど)。骨折し、寒い季節には不快感となって思い出す。私はありふれた幸せがほしいだけ。
おっと、私の話ばかりになりましたな。この本に出てくる南雲さんという青年は、凄絶な過去にも関わらず、一度お会いしたことがあるのですが、実に明るい雰囲気の、おまけにハンサムな青年です。彼はたまにこのブログに返事をくれることがありますが、内容からすると、そこらの大学生より賢いし、大人なコメントをしてくれます。そこから察しても、ディスレクシアは知能に問題があるとは言えません。
生きづらさ、という意味では多くの人がそれぞれの生きづらさを抱えていることでしょう。そして、それぞれの生きづらいことをお互いに認められるような社会になるように願ってやみません。
でも、生きづらさを抱えながら、社会でやっていっている人もたくさんいるので、私は自分の生きづらさを抱える人生に希望を持っています。
たとえば、うちの兄はどう見ても強迫性障害ですが、東京でサラリーマンをやっています。「汚い」のが耐えられない彼は、別名「クリーンルーム」と呼ばれる、パソコンのオフィスで仕事をしています。潔癖症の彼にはぴったりの職場環境でしょう。でも、発症から、10年以上たった今でも、やっぱりヘンです。東京なのに、「カーテンのほこりが汚いのが嫌」と言って、カーテンをつけずに、アパートの1階に住んでたりして、妹としては「アンタっ、なんて無防備なのよっ」と心配ですが。どうか彼に嫁さんが来ますように。星に願う私。
そういえば、大学にいたころ、何らかのLDを抱えているんじゃないかという子がいましたね。史学科の後輩なのですが、レポートの本を読んでいると、最初のほうを忘れていってしまうので、何度も読み返し、先に進まず、レポートがたまっていく、というような。この本を読んでいて、あれっと思いました。なんか、彼もどうしてなのか、悩んでいましたね。私も、どうアドバイスしていいかわかりませんでしたが。
私は同年代というものが一番苦手で(すぐライバルになるからです)、友人の少ない人生を歩んできていて、そのため、本を友とし、師として生きてきました。もし、私が、字が読めない機能不全だったら、どうだったろうと考えると、想像を絶する地獄だったろうと思います。だから、私は南雲さんに「あなた、ここまで生きてきただけでもエライよ」といいたい。そして、影が濃いなら、濃いほどこの先光が待っているだろうと。
「ふつうになりたい」。それはぜいたくな望みでしょうか。わたしはそうおもわない。ごくありふれた願い。
私も、大学に通っていたころ、興味のない授業だと、座っていることすらできず、なかなか大変でした。興味があると何時間でも平気なのですが。今でも、人と何が違うのかわかりません。検査の結果、発達障害ではないようです。でも、偏りは大きい。勉強したい気持ちはあるのにうまくいかない。親も、「うちの子は普通だ」といって偏りがあることすら認めたがらない。
自分に何ができるんだろう、と思いますが、できることは必ずあると思います。
だってここまで生きてきたんだもの。
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