まっぴら左近・なんにも千夜一夜

「やってみなけりゃわからない」だけどやらない俺(ぷろぱがんだむ ◆PG/VFHZrxg)

隅田川はらみ大会

2006年07月30日 | 人生
じゃなくて、花火大会だ。
ハラんでどーする。や。あながち間違ってないよーな・・・ゲホンゴホン

焼肉食いたいなー、ハラミとか(違)

・・・なんの話だ。

もちろん見に行った!・・・などというフツーの記事が当山に載るわけもなく。
しこしこ仕事してたし。

祭りの雰囲気をコロンのようにまといつかせた人々の後ろで
その匂いをくんくん嗅いでるだけの仕事帰り。
・・・あやしいオヤジにしか見えんな。

うなぎの煙で飯食ってるみたいなもんか。・・・なんだろね、このビンボ加減は。
まあいいか。

いいすねー、梅雨もまあなんとか明けたみたいだし。
夏祭りはシーズン真っ盛りだ。
そこらじゅうで花火だのお祭りだので大騒ぎ。



気恥ずかしそうに下を向いてウチワを弄ぶ白い浴衣の女の子。
傍らでは少し後ろを歩いている白いTシャツの少年。

ヒュルルルル、ドーン。パラパラパラ。
どよめきが渚のように引いたときに少年が少し女の子の側による。

「・・・あの、さ、おれ」ヒュルルルル、ヒュルルルル、ドーン。

振り向いて少しななめ下から少年を見る女の子。
微笑みが少しだけ曇って見えるのは、少年の気のせいか。

「・・・おれ」
「ごめん」
ヒュルルルル、ドーン。ヒュルルルル、ドーン。ポン。ドーン。

「好きなひとがいるの」

ヒュルルルル、ドーン。パラパラパラ。

ウチワをくるくる回しながら歩いていく女の子。
立ち止まる少年。

ヒュルルルル、ヒュルルルル、ドーン。ドオ――――ンンンンン。


誰かさんとこのコメントにも以前書いたな、こんなの。
なんで花火、つーとこんなシチュエーションしか思いつかないのかなー。
心底ひねてるなー俺。

「夏」と「お祭り」というタームにはいつもこんなトラジディなコメディがつきものであるらしい。
ん?逆かな。

そういや、こないだ東金のほうのとある祭りに行ったが、ちょっと変わってた。

こんなでかい高さ6メーター級の山車2台
4メーター級(「屋台」と呼ぶらしい)が7台。
総勢9台にプラス太鼓と神輿で東金の日吉神社から菅原神社を経由、ここで見得を切って一礼。
あとは市中引き回しの上打ち首獄門、・・・じゃねえや太平洋岸まで練り歩く。
けっこう派手だと思うが。

それだけなら盛大、つーだけで別に変わっちゃいないんだが、どこが変わってるか、つーと

観光客がいない。全然いない。
いや、いたのかもしれないが、地元民の波に埋もれて全然わからない。

なんせこのお祭り、ん百年だか続いてる伝統行事らしいのだが
宣伝、つーものを一切していない。ためしに「東金祭り」で検索してみるとわかる。
ぐぐってもなんにも出てこない。こんなに派手なのに画像ひとつ引っかからないのである。

テキヤひとつ出てない。「なんとか祭り」みたいな派手な看板も幟のたぐいもない。
必ずしも閉鎖的、つーわけでもないみたいだが、いわゆる「神事」としてやってるお祭りらしい。

9台の山車と屋台のあとに、白装束に烏帽子姿の禰宜がお神輿を担いでしずしずと歩いていく。
うーん、変わってるぞ。

しかしまあ、本来「神」の「輿」であるわけだから当然なのかもしれないが
騒々しいお神輿見慣れてる目にはいささか奇異に映る。

そーいや、浴衣姿、てのもいなかったなあ。
ハッピにももひき姿でない地元民は・・・紋付羽織袴!すげー。
なんか奇祭、つー感じで結構面白かった。

それはともかく

ウチの近所の町会も今日明日でお祭り。
昨日帰ったら座敷にガキ共がぶっ倒れてて、かたわらには小皿に乗っかったゲソ焼き
まるで祭りの後の静けさを形にしたように、ちゃぶ台の上で所在なげ。

「おとう食べていいよ」
「・・・は?」

おみやげですかい!

ビールを開けてひと口かじってみた。


お祭りでフラれた少年のTシャツみたいな味がした。

もちろんそんなもの食ったことはないんだが。

深夜プラスおやじのもっとも危険なちがった空:ギャビン・ライアル『本番台本』

2006年07月22日 | 本だららった本棚だった
毎度ぐちぐち愚痴ばっかの当山ではございますが。

まったくもー、営業やるわ現場手伝うわ彼女とピー(待)
んでその合間に補償算定やってるんだもんなあ。忙しいっちゃありゃしねー。

あ、言い訳です言い訳。

当社の親方のボケ加減も相変わらずでございまして
夏の手当に愛想を付かして兵隊が二人も減ってるのに
なにを血迷ったか、営業停止を食らってるK村建設で余ってるOBを引き取って役員にしたり
瀕死の土建屋の手先と手を組んで、業務提携と称して役員の取り替えっこしたりしている。
50人100人いる部隊ならともかく、実働の生産部隊は5班10人しかいないのだ。

兵隊が減ってるのに将校増やして戦争できるとでも思ってるのか、カス。

無論兵隊の士気は下がる一方。
困ったもんだね(←ほとんど他人事)

そんな中で、自分は一体なにをやっているのだろう、とふと思う。
なにがしたいのだろう、とも。

若い頃は「いまなにがしたい?」と訊かれたら、あれとこれと、うーんやっぱあれも、
などと次から次へと出てきたもんだが。
いま訊かれたとすると「とりあえず寝たい」ぐらいしか出てこない。

これでいいんだろかなー、おっさんの人生。

まだ、昔の本を読み返す日々は続いていたりする。
こんな状態の中だから、さらにセリフや表現にリアリティを感じるのが
ギャビン・ライアルの『本番台本』。

ライアルの傑作群のうちでは『深夜プラス1』『もっとも危険なゲーム』が有名どころだが
自分の好みとしてはこっちの方が上。

革命騒ぎに巻き込まれるプロの戦闘機パイロット、という展開はあんまり珍しくないが
おのおのの思惑でそこに関わりあうのがハリウッドの大物俳優一味、てのがちょっと斬新。

「集結するプロフェッショナル」型の展開だが、ラインナップが一味違う。
ジョン・ウェインとヘンリー・フォンダを足して二で割ったような「ボス・マン」
ウォルト・ウィットモアと
若い頃のジュリアーノ・ジェンマみたいな俳優ルイス・モンテレー。
顧問の辣腕女性弁護士、J・B・ペンローズ。
この三人が主人公のキース・カーにからむ。

敵はキースの元戦友で同じ戦闘機パイロット。現在は独裁者に雇われて大佐になっている
ネッド・ラフター。
キースたち一味はいろいろな事情から革命軍ヒメネスの側につかざるを得なくなる。

うろちょろチマタをさ迷うおっさんには、
そんな彼らのセリフの一字一句がぐさぐさ胸に突き刺さるのだ。

「戦闘機のパイロットは空のアーサー王、などというのは信用しないことだ。
すべては、いかにして相手に不意打ちをかけて背後から撃つか、にかかっている。
・・・相手の虚をつけないとわかったら、無理をしないで逃げたんだ」

そんなセリフを吐くキースのことを、ネッドはこう評する。

「鉄砲だけが殺し道具じゃあねえんだ、お姉ちゃん。
中にゃいくらあっても使い道を知らねえのもいる。そんなものがなくたっていいのもいる。
要は、その人間が殺し屋かどうかってことだ。キースは殺し屋なんだよ」

とびきりの美人でありながらクラウゼウィッツかぶれの革命軍首領の娘に大義を振り回された
キースは、こう言い放つ。

「あんたの知らない引用句をひとつ教えてあげよう。キース・カー曰く、
キース・カーは絶対に、いいか、絶対に消耗品ではない」

一度でいいから言ってみたいなー。こーいうの。

そうは言いながらも
ネッドが率いるヴァンパイア戦闘機隊が市街地を銃撃するのをくい止めるため、
大戦中の爆撃機ミッチェルにレンガの山を積んでキースは出撃する。

カネと、奪われた自分の飛行機ダヴを取り返すため、という大義名分はあるのだが
この潔さは、一体なんなんだろう。

そして、若い頃はただかっこいい、としか思っていなかった自分はいま、
どうして、こんな選択が俺にはできないのだろう、とか考えるようになっている。

「イギリス空軍の方からおれをクビにしたんじゃないぜ。朝鮮の実績もあるしね。
今頃は飛行隊長か、場合によっては飛行団長になってるかもしれないな」
「じゃあ、なぜやめたの?」
「袖に何本金筋をつけてみたところで、つねにもっとたくさんつけているやつがいる。
今は少なくとも誰にだって、勝手にしろ、と言えるからね」

そうか、そのへんの差か。
おれには言えるだろうか。いや、言えるようになる道を選べるだろうか、か。

ただ、どっちみちなにがしかの勝負どころが近づいてることは間違いない。
失うものの数が増えたぶんだけ、迷う場面は多くなる。
選ぶのも道、作るのも道だ。

どっちであろうと、その上を走る車にとっては関係のない話なのだが。

「いいかね、大事なのは、いよいよカメラを廻すときの台本だけなんだ。
しかしだ、映画のできの良し悪しに比べたら台本の良し悪しなんか問題にならんのだ。
台本のコピーを配って廻って、映画はまずいかもしれんが台本はいいぞ、
とは言えねえんだよ」

ウィットモアのセリフだが(しかし「ウィットモア」てのもコシャクなネーミングだよなあ)
人生そんなもんなんだろう、たぶん。

自分の「本番台本」はいつ回ってくるのだろう、と思ってる人は
けっこう大勢いる。ような気がする。

そんな人に限って、回ってきた台本にいちゃもんばっかつけてみたり
筋書き通りにできない理由だけを探してみたり
目の前にある台本に気が付かずに、ティッシュと間違えて鼻かんで捨ててしまったりするのだ。
自分も含めて。

「わかっちゃいないな、ここから先には台本はないんだぞ!」
「だからそいつをこの手で書き直してやるんだ!」
(志水辰夫『深夜ふたたび』)


結局、それしかあるまい。
書きながら、演じるしかないのだろう、舞台の上で。


いつか必ず訪れる、カーテンコールのその時まで。


とりあえず、ビールでも呑むか(結局呑むのかよ!)

落首二十五閃:月光、ほたる火、残り梅雨

2006年07月14日 | 落首逸選
長あい梅雨も もうじき終わり。
晴れ間の暮れた 暑い夜。

湿った風に 群雲揺れて、
蒼いススキが さざめくと

鉛の切れ間に 光が差して
銀のスポット 道を引く。 

ひさかたぶりの おぼろ月。
風の湿度が 身体に絡む。
 
伸びた稲の葉 波打つ畦で
自転車停めて 空を仰げば

眉墨のような 雲が開いて
濡れた光が 俺を視る。

そんな灯りを 見るたびに
離れたひとに 思いを馳せる。

夜露の翳に 漂いながら
熱い想いの 迸(はし)るひと。



月にはおんなの 影がある。

夏の陽光(ひかり)を 闇に映して
静かに萌える ひそかな想い。

そんなおんなの 瞳(め)の光。

腕(かいな)の中で うなじを反らせ
かすかに開いた 睫毛の狭間、

くちびる開いて 名前を呼べば
ぼっ、と焔(ほむら)が 眼に灯る。

そんな記憶に 囚われながら
ふと足元に 目を遣れば
かすかな灯りが 視界をよぎる。

草叢の中の 小さく深い、闇の奥底の ともしびは
月の光の 使いのような

今年最初の 蛍の灯。 

ふっ、と微笑って 
手を差し出せば
甲に ぽつりと 残り梅雨。

思わず夜空を 見上げてみれば

すでに睫毛は、閉じたあと。




梅雨の月 表情(かお)を見上げる 濡れ蛍 




週刊まっぴら、ようやく更新。
しけっぽいから、ちょっぴり艶ネタ。

しっかし暑いよなあ。まだ明けないのかな、梅雨。

湿気てるのは空気だけじゃくて
フトコロ具合もシケまくりだ。

なんだよ「夏季手当」つーのは。
しかもドアの脇っちょにちっちゃーい字でA4の紙貼って。

ちりがみ交換のお知らせじゃあるめーし。

まあ、ヤな予感はしてたけどなー。
見事的中。

×万だって。
ひと桁だよ、ひと桁。

一杯呑んだら終わりじゃんかよー。

ふ。

ヤケ酒でもするか。
そんなカネもねーや。

くそー。

と最後は結局ボヤキで締めるおっさんだった。


まるっ!

近代知コースでの貢献:『日本沈没』

2006年07月06日 | 本だららった本棚だった
しかしホント最近滞ってるなー、更新。
ヤル気はあるんだがなあ(ホントか?)

タイトル変えるか。「週刊まっぴら」とか。
四コマ漫画の専門誌みたいだなー。
忙しいのすかたんの言ったとこで所詮はヤル気の問題だもんな。

ろくすっぽ映画見てないワリに映画レビューばっかだしw

で、久しぶりに漫画本のレビューでもすっか、とか思って
連載が始まったときから多少気になってて、こないだ単行本になった
『日本沈没』なわけだが
絵はちょっとノレないとこもあるけど、面白い。

のんびり読んでるうちに、もうじき新作映画公開だって。あらま。

うーん、草の小野寺かー。
気が付くと出てくるなー、まっぷ関係。

旧作で藤岡弘、TV版で村野武範。
結構コテコテつーか
とんこつ醤油魚介風味の太麺固めに背油ちゃっちゃ、みたいなキャラのあとだかんなー。
あの細身はちょっと苦しい気もするがな。時代なのかな。

柴咲コウの阿部玲子。
消防のレスキュー、てのも時代かな。
原作ではいいとこのお嬢さんじゃなかったっけかな。セレブつーの?
それでも今風だったかもなあ。

旧作ではいしだあゆみ、TV版では由美かおるだったりしたが。

旧作映画の記憶もあんまり残ってないけど
確か人間ドラマ三割引、爆発炎上五割増、みたいな映画だった記憶がある。

特撮はそのスジ(どんなスジだ)では有名な、
火の気もないのになんでもぼかすか吹き飛ばす
爆発ショウちゃんこと中野昭慶だから、まあしょーがない(だから何がだ)。

今回はガメラ樋口が監督だから、その辺はこだわるかな。
しかし

ヤな予感がするのは・・・豊川悦司の田所博士。

今回の漫画版はどっちかっつーと旧作TV版唯一共通の小林桂樹風味みたいな気がするんだが。
だいじょぶかな、キーマンがあんなヤサ男で。


まあいいや。見もしないうちにケチつけたトコで始まらん。

高度成長のヒズミが露見し始めた頃、潜在的な危機意識がいろいろな形で表面化した70年代初頭、
時代が呼んだようなベストセラーになったっけな。
「時代的危機」が叫ばれるたびに、メタファにされる割には
この本を越えるグローバルなシミュレーションにはいまだにお目にかかれない。

30年も経ってるのに、ね。

危機意識ってなんなんだろ。
誰かが声高に叫んでも、具体的な形が見えるのは
いつだって危機が通り過ぎた後だったりする、と決め付けるのは悲観的に過ぎるか。

予算がとかプライバシーがとか株式がとか税収がとか
できないことの言い訳だけ探してるウチに

「決算の日」ってのは案外そこまで来ちゃったりしているのではないか。
その日その時、何を支払うことになるのかすら、我々は知らない。


「われわれに必要なのは自分を映す鏡だけだ。
他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない」
(S・レム『ソラリスの陽のもとに』)


あるいは、「だからこそ」その価値を作品に見出そうとしているのかもしれない。
自分たちがまだ、「希望」を信じている証として。


ミサイルが飛んでくるこの頃なのに
・・・更新滞った言い訳探してる奴が言うなと。

ああはいはいすいませんすいません。


どぶん。
ブクブクブクブク。