まっぴら左近・なんにも千夜一夜

「やってみなけりゃわからない」だけどやらない俺(ぷろぱがんだむ ◆PG/VFHZrxg)

押売ジャイアンツ:『ラスト・サムライ』

2006年06月29日 | 映画いまむかし
そういやなんでジャイアンツなんだろ・・・。
あ、「侍ジャイアンツ」か。古いなあ。
やだやだ、おっさんは。

しかし今頃正月映画のレビューだもんなあ・・・。
我ながらあきれかえってヒヨコが生まれそうだぜ。
まあいいや。こればっかしだが。今に始まったこっちゃないし。

そんなわけで『ラスト・サムライ』

とりあえず、面白い。いろんな意味で。
吉野の国にヤシの木が生えてるとこから始まって、ぜってー日本じゃねー的風景にとりあえず大笑い。

まあ、それはいいや。風景キレイだしね。
『ブラック・レイン』なんかでも同じような風景的違和感があったけど
消化力としてはリドリー・スコットの勝ち。

ハンパなんだよなー、開き直り方が。
なまじっか半チクに桜だの雪だのちゃらちゃら見せて
「ほーれ、ニッポンですよ~」みたいな描き方するからアホな絵面になっちゃう。
R・スコットの場合、日本だろうがアフリカだろうが撮ったトコは全部「俺様世界」。
サボテンが生えてよーがニシキヘビが出てこよーがお構いなし。
字幕なんか入れない。
キューブリックなんかもそんな感じだな。そのあたりの差か。

笑いながらも見ていたが、だんだん笑えなくなってきた。

それは単に、負けた勝元が切腹しない、とか亭主のカタキの毛唐を面倒見るあり得ない武士の妻、とか
足軽に到るまで鎧兜だとか、明治時代なのに銃一丁持ってないで決戦する反乱軍とか
戦術戦法が子供だましの白兵戦とか唐突に忍者とか(くどいね)

そんな設定上の大雑把加減が、なんか微妙に内容の視点と関連してる気がしてきたからだ。

ほかのレビューでもケヴィン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ』
リチャード・ハリスの『馬と呼ばれた男』を思い出した、つー記事があったが
同じ印象は確かにある。

インディアン虐殺の回想シーンなんかでは、『ソルジャー・ブルー』
なんかを思い出したりしたが、歳かな(ちなみにこっちを思い出した人も、もう歳だ歳

そこにあるのは「ネイティブ」を見つめる「自称・文明人」のまなざしだ。
言っちゃなんだが、そこには常に

慈愛と傲慢さと勘違いがある。

「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かるものなり。」と、直茂公仰せられ候。
本気にては大業はならず。気違ひになりて死狂ひするまでなり。
又武士道において分別出来れば、はや後るるなり。
忠も考も入らず、武士道に於いては死狂ひなり。
この内に忠孝はおのづから籠もるべし。(葉隠)

ある種、偶像化された「サムライ」の死にザマは
ロマネスクな色でカリカチュアライズされた「ネイティブの生き方」なんだろう。

ガトリング砲の連射の前に打ち倒されていくネイティブたち、という
倒される人種倒す武器が違うだけの、かつて何度も見た同じ場面を眺めながら思った。

そこには勝海舟の老獪さも西郷隆盛の計算も、徳川慶喜の打算もない。

これがあんたらにとってのサムライなわけだな。ふーん。

軍国主義のプロパガンダとして好んで用いられた『葉隠』のエッセンス
ヒートアイランドの時代を通り過ぎたころ、コンクリートの下で
いつの間にか「サムライ」そのもののメタファにすりかわっていたりすることに
当の日本人すら気が付いていないうちにとっとと21世紀は来ている。

その是非なんかをどうこう言うつもりはない。
まあ、エンタティンメントは面白けりゃ勝ちなんだし。

ただ、すべてのネイティブを描いた映画には、多分にそんな罠が潜んでいるのだ、
ということは今回、改めて気づかされたな(遅いか)。

「彼はどうやって死んでいったのか?」
「どうやって死んだかよりもどうやって生きたかを話しましょう」(本編より)

死を選ぶサムライと生を選ぶサムライの
どちらが「最後のサムライ」なのか、という問いに
なんで「死んだインディアンだけがよいインディアンだ」という誰かのセリフがダブるんだろ。

我ながら根性ひねてるような気もする。

「大義」や「忠義」が絵空事ほどの説得力も持てず
儒学のまぼろしの中にノスタルジアすら見出すことのできない時代にとって
結局、最終的に説得力を持つのは
「腹いっぱいの飯のために戦う」という至極単純な動機なのではないか、などと
「サムライ7」なんてものを見ると思ったりもする。

しかし好きだね、「セブン」。
案外黒澤明の影響力とは関係ないのかもしれないな。

「エウレカセブン」とか。
「ワイルド7」に「エロティカ7」、「ナターシャセブン(古!)」に「女性セブン(待)」に
なにはともあれお約束の
ウルトラセブン!

最後はこんなもんでございます。

いつものコトか。アハハハハハ

(笑うなよ)

空に棲む火の元に:『SOLARIS』

2006年06月23日 | 映画いまむかし
こないだひっさしぶりにビデオ見た。
なぜかセガレが選んだ『ラスト・サムライ』と二本立て。
『ラスト・サムライ』も笑ったなー。大笑い。
これはいずれまた再考しよっと。

わが家のDVD再生機であるところのPS2は、最近なぜかDVD再生だけができなくなっちまって
修理に出すべきかどーか検討中。

んで、例によって半額セールを狙ったわけだが、最近ビデオのほうが少なくなりつつあるせいで
かなり種類が限定されてたりする。
そんな中。

今年3月の訃報を聞いていながら、これ見てから記事にしよ、とか思ってたら
ずーるずる伸びて三ヶ月も経ってしまった。

『ソラリス』。

いや、確かにJ・キャメロン製作でS・ソダーバーグ監督で主演がG・クルーニー、と聞いた時点で
ヤな予感はしてたんだ。

でも原作者スタニスワフ・レムの(あんまり熱心じゃない)ファンでもあり、
『惑星ソラリス』の監督タルコフスキーの(あんまり熱ry)ファンでもある
不詳小生としては、訃報についてはなんとかレビューに引っ掛けたい、
などとさもしい考えを持ってたわけなんだが、正直言って

見なきゃよかった。

あちこち見てると、どうも純然たるレムのファンはもともとタルコフスキー版が
あんまり好きじゃない、という。
「レムの『ソラリス』」じゃなくて「タルコフスキーの『ソラリス』」になってるとこが原因らしいが。

そーゆうヒトにはキャメロン版のほうが「男女間の感情的な部分に焦点を合わせている分潔い」
とかいう感想になるようだ。
500歩譲って、それも一理ある、としよーじゃないか。しかしだな

どー見ても宇宙に悪いコトしに来たようにしか見えないG・クルーニーのマッチョ加減まで
大マケにマケて大目に見たとして

あのもこもこのむきむき姉ちゃんが奥さんだっつーのだけは絶対に許せん。

ナターシャ・マケルホーンがどんな女優なのかは知らないし、あんま興味はない。
タルコフスキー版のクリス・ケルヴィン役、ドナータス・バニオニスも結構画体良かったから
まあこの際逆立ちしても心理学者には見えないけどG・クルーニーは仕方ないとしよう(くどい)

しっかしナターリャ・ボンダルチュクの旧作奥さんハリーの線の細さ、つーか
いかにも置いてかれるとあたし死んじゃうもん的なはかなさと比較しちゃうと
ソラリス来る前にイヌ二匹とオトコ一匹食ってきましたみたいな顔して出てくる奥さんレイヤは
どう見たってダンナに嫌われて睡眠薬飲むようには見えない。
つーか、瓶1ダース飲んでもけろっとして「眠れないの」とか言いそうだし。

あんまり比較するのも野暮みたいだけど、旧作の場合、あの線の細さがあるから、
部屋に置いていかれたときにパニックを起こして、ステーションの鋼鉄の扉をぶち破る、つー場面に
インパクトがあるのだ。

引き戸を開き戸と間違えて鉄扉を引きちぎりそうな奥さんじゃ説得力なさすぎだってば。

まあ役者の件はいいや。よかないけど。
なんにしても作りが大雑把すぎらあ。アメリカ人はこういうの向いてないよ、やっぱり。
リメイクではなく原作『ソラリスの陽のもとに』を独自に解釈した、
つー話だったから多少は期待したんだがなあ。
それなりの解釈、つーことなんだろな。

せめて、「海の表面に様々に形態を変えて生まれては消える謎の物体」だけでも映像化してほしかったんだがなあ。
「手足と首のおのおのがあり得ない方向にばらばらに動いている島ぐらいの大きさの赤ん坊」とか。
見たいよねえ?俺は見たいぞ。
ロシア映画じゃできそうにないもんな。

タルコフスキーは故郷を失った郷愁の映像詩人。
レムは冷徹な科学者の眼を持つロマンの人。

接点はたぶん「海」だろう。
勝手にそう思っている。

「星の世界の「菓子」の味は実際にそれをかじってみること以外に知る方法がない」
「宇宙は拡大された地球のコピーではない」

いずれもレムの有名なセリフだ。
これだけでも天下の爆発野郎J・キャメロンじゃちょっと無理じゃない、
とか思うのは俺だけじゃないような気もするが。

や。あれはあれでけっこう好きだけどね。

しかしこのアメリカ的大雑把加減は、もう一本の『ラスト・サムライ』で
さらに深刻な考えを抱かしてくれるに到る。

が、ちょっと面白いネタだから次回また考えよう。


スタニスワフ・レム。
2006年3月27日、ヤギェウォ大学病院にて死去。享年84。

原作読み直してみるかなあ。

ちなみに今回の妙なサブタイはすぐる昔、書店で原作本を注文したときに
店員が目の前でメモした言葉だったりする。

それはそれで読んでみたい気もするなあ。


しないかw

故意はみどりの壁の中

2006年06月17日 | 妄想
梅雨もちょっと一休み。でももう夜には相変わらずの
雨。

まあ梅雨なんだから当たり前といやあ当たり前だし
大事な米の出来にも関わるから、しょうがない。

ただ営業に回る身としては雨続きは憂鬱。
気分も沈むし。

雨に沈む千葉の奥地の山ん中なんか走ってると
ムジナとかももんがあとかポン引きとかわけわかんない怪しげなものが出てきそうだ。
道端にぽつねんと錆びた古いポストが立ってたりするが
ほとんど妖怪ポスト。



昔よく聞いた怪談バナシを思い出すなあ。
夜ひとりで運転してるとびっしょり濡れた女がおいでおいで、とか。
白い浴衣の少女に首がない、とか。

まだちょっと季節が早いか。

しかしなんだな
「びっしょり濡れたおんな」とか書くと、別のイメージが村々

・・・まあいいや。

どうもしかし千葉の山奥だと「ムラムラ」つーよりは「村々」だな、イメージが。
船橋からでも成田あたりまでたかだか50kmぐらいしかないんだが。
どう見てもクソ田舎。

赤錆びたモーテルの看板の向こうに亡羊と佇むプレハブ小屋みたいな
ホンモノのモーテル(!)とか。

蔦の絡まるチャペル・・・じゃなかった。鉄工所の資材置場のネットフェンスとか。
雑草も雑木林もここんとこの雨と気温でもう茂る茂る。

話は違うが

最近役所なんか率先して「ヒートアイランド防止」とかぶち上げて
屋上緑化だの外壁に蔦生やすだの効果があるんだかないんだかわかんないようなことに
税金ぶちこんだりしてるみたいだが、田舎モン的に見てると
「管理された緑」つーのは、どうも元気がないように見えて仕方がない。

ゴルフ場と雑木林の違い、といえばなんとなくイメージ近いかな。

なんかなだめたりスカしたり甘えさせたりして育てている緑つーのは
人間と同じようにぶったるんでくるんじゃなかろうか、という気もする。

よく「植物にも感情がある」と言われるし、
冗談だか本気だかわからないが『植物感情センサーPLANTONE(プラントーン)』
なんてのもある。

もしも植物が喜んだり悲しんだりするんだとすれば、のぼせ上がったりヒネたりイジケたりとか
嫉妬したり憎悪したりやっかんだりもする、つーことになるな。

全部声になったらうるさいだろうな。ゴルフ場なんか凄いぞ。
一打するたんびに周りじゅうの木が「やーいやーい下手糞ー」とか
植えられた芝草が「いてえじゃねえかこの野郎!」とか大騒ぎする。
パットなんかできないぞ。

管理された緑がそれだけうるさかったら、雑木林なんか凄いことになる。
おちおちアオカンなんかしてられない(なんでそっち行くかな)

都会のほうが静かになるかな。
誰も緑化推進なんて言い出さなくなる。ヒトなんて勝手なもんである。

ヒトだってケモノだって管理されて育てられれば元気もなくなるさ。
緑も同じなんだろう、たぶん。

野生は元気だ。いろんな意味で。
こんなの見てると、ふと思う。


しっかしどうしてこう、追い詰められるように過ぎていくかな、日々は。


相変わらずアホなことしか考えつかない、雨あがり。
ケモノになりきれないおっさんは独り雲に吠える。

わおおおおおおおおおーん・・・

わんわんわんわん!

キャインキャイン
(またかよ)

我はヒモの子しがらみの:ロス・トーマス『五百万ドルの迷宮』

2006年06月09日 | 人生
現場が少ないので、このくそうすら寒い雨の中、
井戸調査に駆り出された。

ずぶ濡れになりながら橋の下をひとり、ファイル片手に傘差して
古井戸探してうろちょろしたりしてみると
人生がいかにアホらしいものでできているかを思い知る。

たまにはいいかもしれない。たまにだが。

それはともかく

最近、昔読んだ小説を読み返してみたりしている。
全然本を読んでいなかったのだが、昔読んだときの感性と今読んだときの感性の間に
どれぐらいの差が生じているかを知りたくなった、と言えば聞こえはいいが
要は単に新しい「面白い本」を探すのが面倒くさかっただけだったりもする。

『五百万ドルの迷宮』 ロス・トーマス

「フィリピン新人民軍の指導者を五百万ドルで買収し香港へ亡命させろ――
テロリズムの専門家ストーリングズのもとに大仕事がまいこんできた。
彼は工作を手伝ってもらうため、中国人ウーとそのパートナー、デュラントら、
海千山千のプロを極東に集結させる。それぞれの思惑が交錯するなか、
五百万ドルをめぐる虚々実々のゲームが開始された!」

てなもんだ。・・・まあ、粗筋としてはこんな感じだが、
改めて読んでみると、「オトナ」な小説、てのはこういうのを言うのかな、
などとつくづく思う。
とにかく会話といい、メタファといい、垢抜けてる。
洒落てる、とか粋だ、とかいう形容では、なにかが違って伝わるような気がするのだ。

うーん、やっぱり「オトナ」だなあ、という表現が一番しっくり来るな。

「まだドイツ人に反感を抱いてるのか?」
「五万五千ドルの車を見せびらかす必要のある人間と取引きするのはあまり好きじゃない、というだけのことだ」
「お前さん、何者なんだ、ジャック――芝居でもしてるのか?」
「俺の娘婿から聞いていないのか?俺は間抜けじいさんを演じるんだ」
「ちょっと神経にさわるんだ」
「それが狙いなんだ」
(同書 菊池光・訳)

最近の小説を読んでないからなんとも言えないが、しれっとこういう事を書ける才能、
てのは昨今でも見られるものなんだろうか。
どんな場所からこんな会話が生まれてくるのだろうな。

オトナは描くものではない、ただ、オトナであること。それだけだ。
読んでいるとふと、そんな事を考える気になる。

「彼と、なんといったかな、モットと話した後、マリブ図書館へ行ってあんたのあの本、『テロリズムの構造』を借り出したんだ」
「『テロの構造』」
「そうだったかな。とにかく、読んだよ。正直言って大部分読んだが、四分の三読んだ辺り止めた。理由を知りたいか?」
「いや、べつに」
「あんたがどっちの側なのか、わからなかったからだ」
「結構」

(同上)

主人公ブース・ストーリングズはもうとっくに孫がいてもおかしくない歳。
かつてはテロリストだった、と自分のことを言う。
子供たちが成長して、自分がそんな年齢に近づいていくのを実感し始めるからこそ、
あるいはそんなしがらみの「重さ」がわかってくるのかも知れない。

何につけ、『ハードボイルド』というジャンルにはそんな「受け取る側」の年齢の問題を
読むことによって逆に突きつけられる、というそんな側面があることを今回知った。
ちょっと、思い知った、かもしれない。

考えすぎかもしれないが、かつて極微の世界を表象するために用いられた
「ブーツストラップ仮説」というものがある。

世界の究極の構成要素、というものを追求していく過程で、
「綾なす紐」が用いられたが、たぶんこれが最初だったかもしれない。
いや、「二重螺旋」があるか。
ここから「スーパーストリング(超ひも理論)」が導き出されてきた、と聞く。

世界が紐なのだとしたら、オトナだって紐なのだろう。
「ブーツ・ストリング」つー駄洒落に、秘めた意味がない、とは誰にも言えないような気もする。


「俺たちは今でもその五千を取返して、ただでお前を利用することができるんだ、ボイ」
「何年か前ならやれたかもしれん。しかし、今はだめだ。
ここを離れて年数がたちすぎたよ、アザガイ。
以前はお前が多少有利な立場にあったが、お前は他所へ行って、それをどこかで失ってしまったんだ

「お前はいまだに間が抜けてるよ」


こんな件りを読んでどきっとするのは、歳をとったせいなのか。
オトナになったせいなのか。

両方なのか。

少し考えてみてもいいか。酒の肴に。


別に呑むための屁理屈考えてるわけじゃないすよ。
いやホントだってば。

イワシてもらえば道交法

2006年06月01日 | 人生
まあ
沈みかかった船からはネズミが逃げ出す、つーけども。
こーいう状態だからまあ無理はない、つーか。

役所回り担当の営業マンT橋君が昨日付けでトンズ・・・退職。

かわいいおねーちゃんでも採用すりゃいいのだが
沈みかかった船にそんな余裕は、普通ない(し、どーせまたロクなこと考えないに決まってるからヤメレ)。

つーことで、「暫定的」(と書いて『じどうてき』と読むわけだが)にではあるが
直接役所と話す機会の多い現場担当にとりあえず引き継いでもらおう、という話に
勝手になってるし。

引き継ぐ人は・・・・・俺。

県の出先に名刺撒きながら、事前情報をつかんできたりするのだが、結構退屈。
まだ新年度単価になったばっかだから、工事のほうの発注は出てきたけど
補償のほうはまだぼちぼち出始め。
ただぶらぶら役所回って名刺バラ撒いてるだけ。

まあ、多少時間の融通は利くから、少々昼寝ぶっこいたりしても平気なのは利点だが
外回りじゃろくすっぽ更新もできやしねー。

まあ、それはともかく

今日も天気良かったなー。
しかし天気いいとどっからともなくうじゃうじゃと白バイが涌いてくるのはなんとかなんねーかな。
大雨の日なんかぜってー出てこないクセしゃーがって。

確かに千葉のドライバーはマナー悪いけどね。

特に爺婆。

車の流れ一切無視。
わが道を逝きっぱなしで周囲の状況なんか全然お構いなし。

左右も見ないで飛び出してくるし、一通逆走朝飯前。
ウインカーも出さないで三車線の端から端までいきなりワープする。
かと思えば制限速度×0.84ぐらいの

なめくじみたいなスピードで片側一車線の道路をぬるぬる糸引きながら走ってくれたりする。

ヤブの陰で野良猫みたいにコソコソネズミなんか張ってないで
こーいうゴミを取り締まれよ、メーン。

ええ、どーせヤセ犬の遠吠えですよ。はいはい。

あれしかし白バイに捕まったりネズミに引っかかったり、てのはさ
事前情報がある場合を除いて
運の良し悪しが全て、とか思うがどうか。

捕まってるの見るたびにそんな気がするのだが。俺だけかな。

あれって見てるとなんか、群れで泳いでるイワシの大群から
ぷらっとはずれた一匹がカツオかなんかにぱくっと食われる、とか
どーもそんなイメージがある。

制限速度2~30キロオーバーしてても20台とか30台とかが等間隔で続いてたら
捕まるのって先頭から2~3台かはぐれた最後尾とかそんなもんでないか?

みんなで渡れば怖くない、が
ひとりはぐれて渡ると・・・やっぱり怖い。か。

巨大な群れを形成する生物は、群れになると別個の性格を有するようになる、らしい、
とかいう説を以前、何かで読んだ覚えがある。

すべからく凶暴性が増すんだそうだ。

ヒトにもありそうだな、群集心理みたいなもんか。
たいがいの場合、群れになったヒトってろくな事考えない。

歴史が証明してるし。

しかしその一方で、時代のムーブメントもまたそういった群集の中から生まれ出てきたりするわけで
これはこれで歴史上常にひとつの大きな潮流となってもいるわけだから、
あながちマイナス面だけとも言えまいな。

ふむ。

今日から登場の「駐車監視員」。
幕張あたり通ったら結構ヤラれてましたな。
当面の間はおまわりと一緒みたいだけど。

なんかイジメに見えるのは気のせいなのかな。

さて、
捕まらない昼寝場所探さねば、な。


(結局そんだけかい、と)