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地獄の黙示録が意味すること。

2020-04-17 | ウィン・ウィン王国
 4月17日  金曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


生きることが神の命なら、死は神の命令である。

一度、思い込みを脇に置けば、死は自然の営みだ。

生は死を保証する。その約束は破られない。

感覚的なものの内、

あるものは存在を知性を通じて得られるものから、

あるがままに烙印された心の迷いであり、

あるものは存在するものから来たような、

単に見せかけに過ぎない心の迷いである。

またそれには理性的なものとそうでないものとがあるが、

それは想像の産物であり机上の空論である。

思想であればもっともらしく、

なければもっともらしく聞こえないが、

そしてあるものはそのいずれでもあり、

またあるものはいずれでもない。

人は混乱や新しいものが出現しても、

それを古いものに還元し試みた後でしか

混乱や新しいものを理解し始めないものである。

物質社会とは観念の全体であり、

その観念は思考が停止した状態のものである。

快苦のかなたにあるもの、

人は生活に愛着を持っている。

死への恐れもまた、

文化の源泉として力を発揮することが出来るのだ。

歴史は儚い物語だという。

死と生は驚きもせず説明もなく示されているからだ。

歴史はある意味で死者たちの尺度だといえる。

我々は死の心配によって生を乱し、

生の心配によって死を乱している。

備えなければならないのは死に対してではない。

それにはあまりにも私達は無知である。

後がない、害のない、苦痛のない特別なもの、

恐れは無用なのである。

死の準備に対して備えるのであれば、

偉人たちの言葉に耳を傾けよ。

「死を常に目の前に見よ。」

「その時が来る前からこれを予見し考察せよ。」

「不死などとは人生最悪の出来事だ。」

そう説いている。

お釈迦様は 「諸行無常」「一切皆苦」 を悟り、

旧約聖書には、楽園から追放されたと書かれ、

新約聖書には、人は罪びとと示される。

コーランには「アラー」以外に信ずるものはないし、

プラトンは「人間は神の玩具だ」と言い残し、

トルストイは「生きんと思えばさっさと死ね」と言う。

また徳川家康は、

「人生とは重き荷を背負って遠き道を行くが如し」だ。


死は生の終末には違いないが、

いかに生きるかは人間の義務であり、

いかに死すべきかは神の義務である。

どこで命が終わってもそれはそれで全部なのだ。

死んでも不幸だった者を見たことはないが、

なぜ、運命に向かって不平を言うのか。

今日一日を見たのであれば全てを見たのだ。

それはただ一瞬のことであるから、

ただ思考によって初めて知覚される出来事だ。

死そのものは、みんなが期待するほど痛みはない。

ほんのちょっとの苦しみは人生最後の罰なのだろう。

人はみな安楽死で終わる。なぜなら、

死は神からの贈り物だからだ。

死神に見えるのはこの世が地獄だからであり、

この世の究極の目的は死の克服だ。

ノストラダムスの大予言によるメッセージとは、

「死に至る」つまり「死の克服」を意味している。

これは人類の生涯において必ず目指ざるを得ない最終目標だ。

実際、哲学にせよ、宗教にせよ、修行にせよ、

すべて死に対する備えに他ならない。

死の無視は生きることへの無視である。

確実な根拠は今のところどこにもないが、

確かなことはこの世に神は存在しないということだ。

事実、それは科学が証明している。

だからといって、未だかつて何人とも

死そのものの主題を徹底的に調べ尽くし

論ずることもなかったし、また知ってもいなかったのである。


話が長くなってきたが、

最後に興味深い話がある。


とんちで著名な室町時代の一休さんが、

亡くなる直前、こう書き残した巻物が残っている。

一休は言う。

「よいか。私が死んだ後、
 本当に困った、もうどうしようもない時以外は、
 この巻物を絶対に見てはならぬぞ!」

そう、言い残してこの世を去る。

そして、ついにその時がやって来た。

皆が集まり、一休が遺したその巻物を、

恐る恐る紐解いて見ると、

たった一言、こう書かれていた。

「心配するな。なんとかなる。」


日本の喜劇王こと、

志村ケンさんは生前こう言っていました。

「だいじょうぶだ。」 と。



    つづく。



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