気まぐれ人間の気まま情報新聞

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被害妄想と迫害妄想の違い。悲しいひとたち「シリーズ終回」

2008-07-29 00:23:39 | Weblog
被害妄想では、まだ、「悪口を言われている」というように、まだ受身的な、弱さの感じがあります。しかし、迫害妄想では、迫害的なイメージに先鋭化し、彼はそれを避けねばならず、緊張を強いられる状態になってきます。自分が作りだしたイメージもかかわらず、それにおびえることになるのです。そして、自分を追い詰める敵を見付け出し、反撃しなくてはならなくなります。でも、敵は彼が作り出した幻影です。ですから、彼は思い込んだ他者を敵にでっち上げることになります。テレビに出る事件はこうして、無関係な普通の人が、被害にあうことになります。


ところで、ここで重要な問題があります。それは先の回に触れた点ですが、この、悪口をいう、非難する、追い詰めるものに、家族、つまり、親、兄弟がなることは普通ないということです。

そうしますと、これまた、さきに「三つの主戦場」としてあげた「家族」と「自分」が抜かれることになります。そうすると残るは、「自分が人々のひとりである場所」、つまり、「学校」や「会社」つまり、「社会」にいる人々のうち自分以外の他者」が、この「悪口をいうもの」「非難するもの」「追い詰めるもの」ということになります。

彼は、自分でいるとき、家族でいるとき、あまり問題はなかったのに、あまり親しくもない人々がいる場所に、不安、おびえを感じるということなのです。これは、実は登校拒否などにも関係した問題です。


そうです、それは、小さい頃誰もが少しは覚えがある、見知らぬ人が家にきたとき、ちょっと怖くて、親にしがみついたように、大きくなっても、「見知らぬ人がたくさん周りにいる社会」に自立して、出て行くことが出来ないということをあらわしているのです。

もっといえば、社会のなかでは、自分ひとりでいるときのように、また、家族でいるのとは違うように、振る舞わなければいけないのに、そのやり方が、出来ないということなのです。その、自信のなさ、不安、おびえが、被害妄想、迫害妄想のような異常性として出てくるのです。

そして、このおびえは、昨日書いた、母(的存在)とのあいだで、ついに持てなかった自信の発現なのです。愛されるということはそれほど重要なことです。それは自分が生きていていいということを肯定されることであり、存在が許されることです。そのなかで、彼は自信をもって「人々の世界」にも、堂々と出て行く勇気が出てくるのです。

ここまできて、こう思います。彼の病気の症状は、自分が愛されたかったという無意識の奪還の希求が、それを妨げようとする「敵」に必死に抵抗している淋しい、悲しい姿なのではないかという気がしてきます。「僕は悪いことはなにもしていない、なんで僕を責めるんだ」と必死に抗弁している姿、それが本質かもしれません。しかし、皆さんの知るとおり、それはあるときそれは異常性までいき、犯罪にもなってしまうのです。彼は犯罪者としかいわれなくなるわけです。






 

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