気まぐれ人間の気まま情報新聞

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個と公とかいう考えについて4

2017-09-18 00:46:02 | Weblog
前回「公」ということばをこのあたりなら使えるかなと書きました。「公」をいきなり当然のように受け取っては今回書く意味がありません。

前回の考えから「公」とは個々の生活している人々に共通して関わりのあることに、賛否を問う必要があり、ま、賛否の割合は例えば半数以上の50%以上を目安にすることにして決済を取り、当然反対もありうるのは前提ですが、賛成多数となった意見を「公の意見」というように使えるのではないかということです。

ここで「公」(的意見)というには、さまざまな条件がいることを確認しておきたいと思います。

まず第一に前提としては「公」(的意見)であるためには、個人がひとりひとり尊重され、認められ、自由な発言、表現が認められ、その条件のもとに意見が適正に集約され、その上で多数が決せられるという意味で、「公」(的意見)とはそれが独自に初めからあるものではなく、常に「個」(意見)尊重が前提で生まれてくる「概念」であるということです。だから本来、「公」(的意見)とは「個」(意見)の多数」と置き換えられる概念だということです。自在に使える単独の「公」などないということです。
だから「公」は誕生の地である「個」をわすれたら、成り立たない概念だということです。現憲法の「公共の福祉」ということばは、抽象ではなく、それを誕生させたのは具体的な生の「個」なのです。それは「個」の産みの努力が含まれているということです。

※「公」とは抽象的に独り歩きできる概念ではなく、要素的に「個」を必ず含んで考えなくては行けない概念であり、本来的には「個」と「公」と言ったとしても対立的な概念ではないわけです。

次に、情報は基本的に関係する人々全てに公開されなくてはならない。当然ながら不利な条件も含めてすべて判断の必要な情報は公開されなくてはいけないということです。有利な条件だけなら、誰でも楽しく言えるわけです。最近では悪い情報はほとんど隠すという最悪なケースもあるわけです。これでは判断は片手落ちです。これは正当な個人の判断の自由を犯しています。

次に個人の自由な判断を認めるわけですから反対の少数意見も存在することは承認されるべきだということです。多数であるからと言って「権力的」に押さえ込むことはあってはならないということです。
これは素朴にみじかなところではにはイジメに通じますし、パワハラにも通じることになるかもしれません。

さて、これくらいの条件を踏まえた考えのもとで、はじめて「公」的ということが認められるとします。

次に考えたいのは近代といわれる明治以降に整備されてきた国家主導による「公」(共)的というさまざまな機関は果たしてこの「公」的という「概念」を踏まえて運営されているかということです。
ところで、ここで「国家」とは、明治以降に「廃藩置県」により日本を中央集権的な仕組みとして最高位に位する位置にある「公」(共)的機関を標榜するものです。
国家主導による「公」(共)的機関の運営は「税金」を社会経済生活から吸い上げ、国民から選ばれた議員により組織された「国会」により。「公」(共)的機関の運営がなされていくわけです。
ちなみに、明治時代の現憲法の前の「大日本憲法」では天皇「主権」であり、国民「主権」ではありませんでした。従って途中で改革されましたが、国会は今のような立法権を持っていませんでした。国民主権は当然ではなかったわけです。

ここで現行「憲法」にこれらの事情がどう書かれているか取りあえず見てみましょう。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(現行憲法「前文」抜粋)

不勉強で申し訳ありませんが、なかなかいい文章でびっくりしました。誰が作ってもいい文章はいい文章です。

ただ、問題にしたいのは、これらの素敵な文章は今現在ほんとうに守られているのか、守られていないなら、それはどこに問題があるかということです。
現在の国家を最高位とする「公」(共)的機関と言われる「組織」「システム」は先に述べた「公」的という条件を、その「組織」「システム」の運営の中に最重要「概念」として、常に「繰り込み続けている」かどうかです。これが一番問われることのように思われます。

結論として先に述べるなら、すっかり現憲法の「理念」は骨抜きになってきており、国民は名目的「主権」に成り下がっている疑いがあるのではないかということです。
それはたまたまの時代の問題で修正可能なものなのか、もっと本質的な問題があるのか書いてみたいです。なかなか考えあぐねるところもあり、遅くなって申し訳ありませんが、もう少しお許しください。