気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

今年の御礼

2008-12-31 20:52:06 | Weblog
今年の3月に妻を病で失いつらい年でした。内向していくなかで、ふっと思い立ちいきなりブログをはじめました。書くことは落ち込みそうになる自分を何とか引き上げて生きていくことを考え続けるような、つぶやきのような営みでした。

申し訳ないと思いながらも、読みに来てくれる皆さんが心の支えでもありました。

ひとりであることに面と向かうことはつらいと思えるときもあり、ときどき遁走するように自分をごまかして集まりにかまけたことも。ときどきどころじゃないかも。

書きあぐねて予定通り書けずに午前様もたびたび。何日もだめだったり、書き出しても何時間も進まないこともよくあり、書いているうちにまちがえて全部消えてしまってこともしょっちゅう、注意してくださいと書いてあるのに。最近では書きながらワードにコピーしながらです。

今年思ったこと。もっとことばにならない、躊躇しているようなひとりひとりの「思い」にもっと心静かに耳を傾けるように近づくこと。その人自身さえ気づかないような、生きていくために思わず出てしまうこころならずものしきたりのことばの裏の思いを読み取ること。そして自分のなかの同じようなことばを手探りすること。

うまくことばにならない、生まれるのを待っているようなつまずいて歩いているようなことばを自分にもっとわかりやすくすること、はっきりさせること。

でも失敗ばかりです、それがわかってるから、よけいに注意しているのに。でもそう思って周りを見るとどうしてこんなにみんな仕事のような付き合いのようなことばばっかりで生きてるのか不思議に思えてきます。

もっとたたずんでる自分に語りかけようよ、そこから言おうよ、って気になります。漱石じゃないけど現代でも「とかくこの世は生きにくい」のはまだ変りない。

中島みゆきの「歌姫」というのにこんな出だしがあって好きになったのも今年でした。

「淋しいなんて口にだしたら誰もみんなうとましくて逃げ出していく
淋しくなんてないと笑えば、肩の荷物なお重くなる・・・」

長く浪費してきた残りの自分をせき止めていくのは難しいかもしれませんが、まだ続けていく以外にない気がしています。影があるのかないのかわからないようなとぼとぼ歩きです。

どうも今年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。あと30分で今年も終わりです。みなさんよいお年を。

 

飯島愛のブログと死

2008-12-31 09:48:06 | Weblog
あまり関心もないひとも多いと思います。まあすこしかわいいけれど芸もないよくあるタイプのおしゃべりタレントといった感じだと思います。

でも彼女が芸能界にいるあいだに本を書いたときに、なぜか直感的に好奇心もあったのでしょうが読んでみたいと思いました。芸能人の本ははじめてでした。その内容はよく覚えていないけれど、「隠し事ができないまっすぐな無防備な心のひと」だなと思いました。そのときからちょっと関心もってテレビ見てました。

そしたら、もう去年(2007年3月)になるらしいけど、まだ人気あって惜しまれたけど自分から宣言して芸能界から引退したのです。理由は「歌や(お笑いの)ライブなど、板の上(舞台)に立つ仕事ができないと、芸能人としては限界がある。あと、病気で休んでいる時に、私の代わりになる若手はいっぱいいると思った」(飯島愛-Wikipediaより)といっています。

でも人気があるうちにこんなやめかたするのめずらしいですよね。そのときふっと思ったのは、病気だけが理由だたら治ってまたでればいい、やめる必要はない。きっとさみしくなるけどひとりに戻る時間がもっとないとだめになるタイプかなと思いました。ふっとでしたけど。

こんどの死を聞いて思ったのは引用すれば下記と同じ感想です。
ひとつは12月28日のサンデージャポンの太田ひかるの「ここでは普通はまじめにいわないけど」とことわっての発言。

「彼女は「ほんとのこと言えよ」と嫌なとこ突いてきた。中途半端なところを許してくれなかった。もしそれを自分に向けていたとしたら、きつかったと思う」

もうひとつは2006年、『ウチくる!?スペシャル』に江原啓之が出演した際の発言。

「“とにかくかわいそうなくらい繊細過ぎる。外見の印象と全く違う人。オーラの色はきれいな紫の色を持ってるが微弱。他人を信じ過ぎて、疑う事を知らな過ぎたために、さんざん、裏切られた事がいっぱいある。他人からの愛を信じられない所がある。他人への施しは程々にして、自分の幸せを考えなさい。去年まで人間関係、ゴタゴタ、色々とあったが、全部、切り捨て、今年から気持ちを切り替えて、新しい方向へ行きなさい。今まで一度も甘えた事が無い。自分自身が甘えられる環境を作る事がこれからの課題。幸せはある”と守護霊からのメッセージがあった」
(飯島愛-Wikipediaより)

あと彼女のブログからの抜粋の引用(死の報道の25日にあるのを知ってずっと読みました。やめる2年前の2005年4月から立ち上げてます)
※期日順序バラバラ(とてもたくさん部分引用してあるので覚悟して読んでください。でも素敵ですよ。気に入ったら彼女のブログ全部読んでください。下ネタ、化粧、音楽も面白い)

・人間の身体はデリケート、精神的なストレスや不安で免疫が落ち病気に成るものだ。

・この2ヶ月ほど、軽いノイローゼで大変でした。
精神疾病です。
抗うつ剤を処方されたので凹みました。抗うつ剤なのに....
仕事をやめて、腎臓は良くなった。とっても体調は良い。
プラプラ遊んでホントに楽しかったし、色んな経験ができた。
そして、今は、これからを案じて不安になってる。
勿論、芸能界を辞めるときから分かっていた。辞めれば今より大変になる。って、こと。
いっぱい生きて来た、頑張って来たつもりでも、先はまだまだ長く...続いている。
さらっと書きましたけど....いやー、キツかったです

・痛みがない病気や、目に見えない怪我は、我慢してしまいがち。
疲労、ストレス、緊張、睡眠不足、などの言葉で一切片付けてしまう習慣があるね。
大げさに悩む必要はないケド... 人間ドックの様にメンタルケアーも大切だと知りました。
話せる人がいて信じられる人がいて救われた。

・人は独りでは生きていけないなぁー。

・楽しみな反面、不安もあり
不安な時ほど眠れず、心の隙間にある寂しさがムクムクと現れて
愛しい人の名前を呼んでしまいます。
眠りたい。
でも、次の朝は、また彼を思っている。
恋している場合じゃない時にいつも、そう。

・純粋に好きすぎて、寂しくなるよ。

・私には、たくさんのコンプレックスがある。
気にするかしないかは、本人の性格次第なんだよなぁ~ きっと。
コンプレックスと、人は簡単に言うし、
『気にするなって』って、肩をポンっと叩いて励ましてくれるけど ..
そんなんじゃ片付かない。
本人にとっては、心が傷ついてしまう程、深い悩みだったりする場合もあるから

・自分を受け入れてくれる人ばかりじゃないけから、
負けないで、自分の全てを受け止める事の出来る、自分でありたいたい。
そして、素敵な恋をしたり、認めてくれる人がいると、整形なんてしないでも
女は奇麗になれるものですから。
なぁ~んちゃって、まとめようとしたケド
私は、そんな器じゃないので、これは、きれいごとに過ぎなぁ~い。

・『昨日は楽しかったです!! また、近いうちに会いたいです!!』
取り敢えず、ありがとうメールは簡単。でも、逢いたい気持ちを100%出せない
から、近いうちに...って書いてみちゃう。逢いたいって漢字で書くのはまず無理。
とにかく、返信に期待!!って感じです。

・うつ病』が流行ってる。
原因は、社会?不景気?天候?周囲? なんだろう?
でも、私はこう考える。
『精神病』にはなりたくない。そうなってしまったら知られたくない。  BUT
『心の病』にはなりかねない。だって ... と、話してしまう。
病名従来のイメージが、表現法を変えたことで、受け入れやすくなった。
私も、鬱気味な時期があったの。 歳を取れば色々あるよね。BUT
ポップテーンの取材をしてたら、最近読者に、鬱で悩んでる子が多い為
今月のテーマは『プチ鬱』を取り上げたいと言う。
10代や20代前半の子が....?? 嘘でしょ?? 楽しくて仕様がないハズの歳。
応えようがない 。ただ自分が経験した、廃人の様な日々を思い出すと、
一つ言えるのが『鬱病なんじゃない?』と言うヤツには腹が立った。
拒絶したのは、正解だから..。
『私も、ちょうど30歳頃 鬱っぽくて.. やる気が0だったな~』
ちょうど本が売れてドラマだ映画だで、浮かれていたのが20代最後。
そのブームも通り過ぎた頃、なんかポカンと穴が空いてしまった心。
空虚感が襲ってきて...ボーッとしてばかりで、 仕事にならない。
ホントにどうにもならない。仕事したくない。 無理。 そんな夏があった。

・最近、映画の世界を現実に見た。
NYのテロの映像は、映画の1シーンの様で、現実とは受け入れがたい映像だった。
映画は、人が創りしもの。良くも悪くも人間の想像が投影されて映像のなる。
未来はどこまで経験するのかな??なんて、思わない??

・ここでは、素直な1人の女性でいれる場所にしたいと思って始めた。
最近の私は皆が思っているような飯島愛ではないので報告。
最近の私は、毎日をただ送っているだけ.....って感じ。
だから、忙しい芸能人。身体を大切に、努力家ですね、
みたいな応援メッセージを頂くと.... ありがたい反面申し訳なくなる。
ごめんね。ダマされてるよ私に。(でもこれが私のいいとこなの♡)
卑屈な訳でもなんでもないよ。本当に違うんだ。
鬱病でもないよ。やる気の問題です

・等身大の自分を知ることがどれだけ大切だと思います?
日記は、自分を知る一つの手段です。本当の言葉なら...だけどね。
ブログって、例えると、渋谷の交差点の真ん中で、
『今日でもう7年と38日SEXしてね~』とか『私は水虫でっすう』とか
『くしゃみで尿がもれちゃうのよ~』とか
『下痢でトイレに駆け込んだら紙が無かったぜっ!!ポケテッシュはもらっとけ!』
と、大声を出すくらい恥ずかしい事だと思う。

・んか、不安になった。
結婚したいとか、したくないとか... あまり考えてなかったケド
このまま、独りで生きるのは、寂しいですっ 。
病気で凹みましたぁ。
旦那さんとかいるといいなぁ~&子供いたら大変だなぁ 。
主婦は偉いなぁ.... でもなぁ~ とかなんとか考えた。
生活にお金も、温もりも欲しいね。

・皆のコメントに全部応えることはむりだよ。ごめん。
正直書くけど、今も昔も、私は皆が思うほど強い人ではない。
仕事を辞めて、世の中との距離が出来ているのは実感する。
私は、ここの場のコメントが好きです。
今、感じた事をありまま書き残す事は、今を生きている存在価値だ。
大げさだ。そりゃそうだ。
とにかく、関係ないー。
って、寂しいじゃん。

・オリンピックへのボイコットが、チベット問題の解決の糸口には成らないような気がするのですが...
もう、チベットの方は聖火の邪魔をするのはやめたほうがいい。取材等他のやり方を選ぶべき?
人権問題は、いつの時代も何処かで行われています。ただ、今回は余りに近い中国のことです。

・・皆の気持ち。
一行でも生きている言葉には、誰かに何かを与えているハズ。
人にこう有るべきだと言い切るほど立派に生きている人はいないさ。
経験していないコトの全ては、わかんないもんだ。
誰かの悩みに救われるコトもある。
あ、私も!!!って...
独りで抱えるのはキツいね、カッコつけて生きていたら肩が凝るし。
のって間抜けな字だな。
みんなも色々大変なんだよねー。でも、素直だね。ホントに素直な人が多い、だから私もそうなれる
ねぇ、ここで書いてるコト、本当に伝えたい相手には、そのまま言えてる?
うん、そこだなんだよなー。
そこ。
え、どこ?ここ?どこ?そこ。
そこーーーーーーー。

裸に成ると余計な言葉はいらないね。伝わるんだ。

・仕事は、初めてます。
皆が思う様な[凄いこと]ではないよ。
地味。

・でも、現実は厳しいのだ。2008-03-07
げげげーん、幻聴が聞こえんだぜっ。
キィーーーーーーーーーーン
って、
て、アラレちゃんかよ。
バイチャ!!バイチャ!!

・『最後のお願いだ。受験してくれないか? おまえ、どうやって生きていくつもりなんだ』
幼い頃から勉強地獄、娘の夢など聞いた事も無い両親、反抗して生きている自由な今、
でも、どこかで、社会の大枠から外れて置いてきぼりな自分に、恐怖感を抱いていた。
だから、久しく会話をしていなかった父のその言葉に『うん』とうなづいたの。

・あたの意見は良いと思うのもある... でも、酷いのも沢山ある。
他の人の書き込みに中傷し、自分の知識をWeb上で自慢したいの!?
敵だと思うとすぐに牙を向け、人を見下している。その性格はお見事だ。
私にだけは何を言ってくれても構わないよ。内容に関して指摘すべき点は多いに結構!!
だけど、集まってくれてるうちの子達に手をだすな!!!
この子達の何人かが被害を訴えててきたら、更に管理は厳しくお願いする。

・去年は、楽しかったなぁ....なんて。
きっと、人は嫌な事を乗り越えて生きている。
逃げ出したとしても、それも正解。乗り越えたんだよ。
自分の思うがままに....自分を信じて..あなたならできるから。
私も、そう言い聞かせて頑張ってきたんだよ。
だから、自分の選んだ道を、この道を行こう。

・中国という国家が民主主義になり、発展して行く上海や北京の街や人と交流を持ったぶん同じ時期に、チベットで起きている野蛮な事実に、共産主義国家だったことを思い出す。
閉鎖された国。言葉を失います。いや、発言するには難しい問題で自国の歴史も含め学ぶべきです。

・裁判して、勝ち取っても、そいつにお金がなければ返ってこないんだよ。
私は、処罰なんかどうでもいい、刑務所入れてもしょうがない。
一層、苦しくなるだけでしょ、 だって、お金を返して欲しいんだもん。
信頼関係とお金は、もう二度と取り戻せない。
それにね、人を憎むのにも、もの凄いパワーがいる。負のパワーだ。
ならば、さっさと忘れて自分の為に良いパワーを使いたいと思う。
そう、言い聞かせたのに... ムリ。
安易な事ではないのだ。
安易な事ではないのだ。

・加賀まりこと言う大女優がいる。
いつまでも 『小悪魔 』 このイメージがぴったりの女性だ。
彼女は、昔、愛する人の子供を妊娠した。
しかし、その男性とはすでにさよならしていた。
ただ、ただ、自分のおなかに命が宿っている事に幸せを感じ、子供を産む。
全盛期の売れっ子女優が、1人の女としての幸せを素直に選ぶ。
当時の日本人の発想に『シングルマザー』という概念は全く無かった。
まるで、犯罪者の様な扱い。そんな時代だったらしい。
宿った命に罪は無い。
世界を的にまわそうが、幸せを感じて毎日を繰り返し、そして、出産を経験する。
手に抱いた赤ちゃんは、とても可愛い女の子だった..。
母となったまりちゃんは、安心してか、その後眠りについた。

『生きていれば、あんたと同じ歳なのよ。』
1972年の冬、小さな命は、母の寝ている間に天国へ飛び立っていったのだ。
『愛、子供は産んだ方がいいわよ』 
優しく微笑むまりちゃん、この先、一生幸せでいて欲しいと切に思った。
あの日、まりこちゃんと2人で朝まで色んな事を話して過ごした。決して忘れない。

・私は、大人じゃない。 まだ、親を恨んでいる。 裏切ったあの人を憎んでいる。
前向きに、動こうと頑張ったけど 頑張ろうとしただけで また、人間不信になっている。
所詮、こんなもんさぁ....辛い2年だった。 この理由を書いた日は最後だ。
かっこつけて、平気なフリして、飯島愛でいたかっただけ。




















テレビ 爆笑問題 ビートタケシ 飯島 愛

2008-12-28 20:41:16 | Weblog
おそらくお笑いの人間がまじめに政治や社会のことを取り上げ、テレビで語るときには、どこかで風刺漫画のようにお笑いにしてしまわなければ様にならないという気持ちがあると思います。

お笑いをしながら、「俺ほんとはお笑いばっかりじゃなくてまじめなとこがあるんだぜ」というのはお笑いを選んだときから封印していると思えます。お笑いは中途半端な気持ちでは人気は取れないのを芸人は知っているからです。

まじめなところが見せたい芸人は大御所になると横山ノックや西川きよしのように政治家になったりするわけです。

しかし、おそらく太田ひかるとビートタケシは政治家にはならない気がします。しかし、両人ともすごいいいろいろ考えているわけです。

タケシがフライデー事件を起こしたり交通事故で大怪我をしたあと、ある時期から映画にまじめに行きました。

自分では頂点まで行って、目標を達成してしまった空虚感もあった気がします。これはオリンピックの選手がいったん金メダルを取ると目標を失って、精神的にも肉体的にも続けることも重荷になって苦痛になるのと似ています。

ビートタケシはその頂点の世界を続けることができましたが、彼は達成の後だらだら続けることに虚しさ感じたのだと思います。それは観客としてのぼくらからしたらあまり思い及ばないことです。

しかし彼のなかではたいへん深刻な問題だったと思います。それはかれのなかにあるまじめなもうひとりの自分です。

そして彼の虚しさを避け、別の自分に向かいたいという方法は精神的自殺に近いものでした。それは自分の支援してきたお笑いのファン、仕事関係、人間関係をすべてゼロにする以外できないことを彼はよく知っていたし、彼は誰にも言わずお笑いとお別れをしようとしたのです、礼儀も含めて。

フライデー事件は書いた記事に対する殴りこみでフライデーの事務所を襲った事件です。タケシほどであれば笑い殺せばいいのです。でも彼はそうせずにお笑いの世界から別れるのに、「お笑いにならない事件」を実行したのです。
でも、それでさえ、世間はタケシのお笑いのひとつと見て受け入れたのです。タケシの虚しさは消えませんでした。タケシはおそらくほんとに自殺に近い虚しさを持ったと思います。

あのオートバイ?事故は自己抹殺願望であり、すべての支援者へお詫びと孤独願望です。あのような方法でしか、もうひとりの自分に戻れない、周りはひとりにしてくれないと思ったのです。

かなりひどい事故だったみたいです。でもそれについていっさいしゃべっていません。
今でもケガの後遺症で顔の骨に金具がはいっています。もとに戻す手術もできるのに受け入れていません。自分の罰としてそうしている気がわたしにはします。

太田ひかるはタケシをよく理解していて、タケシにいちばん似ていますが、「太田総理」をやるなかでじつにまじめを大きく笑いと両立させてタケシを乗り越えています。なかなかの達成です。サンデージャポンはそのかわりまじめはやらないと決めているらしいです。

タケシもご存知かと思いますが、最近惰性で流していた「テレビタックル」以外にお笑いでなく時事番組などでひかると違う方法でかなり発言をするようになっているので、みなさんタケシの本気具合がどの程度か鑑賞してください。


飯島 愛については本も読んでてどこか気にかかって、25日キオスクで知って
ブログがあると書いてあったので、家に帰ってきて読み始めたのですが、まだ考え少しまとまってないし、長くなりそうなので、あさってくらいまでにまた書きます。

でも今日のテレビの中のお笑いとまじめにやっぱり関係あるような気がします。

国や企業の主導による不況克服はもう不可能な時代がきた

2008-12-23 11:22:37 | Weblog
おそらく国家や企業は高度消費社会となった時代を制御できない時代が来たのです。

前々回、国や企業が経済を主導してきた時代が終わり、消費者という個々は微細な存在が重要な経済の主体としてせりあがってきたといいました。

これまでは国家が、生産者が好況を主導していくと考えることが一般的だったと思います。しかし、高度消費社会になった時代では、この状況は逆転し始める兆候がもうずっと以前から出ていたのです。それを指摘し、その重要性に言及していた人はあまりいない気がします。

それはあるときから、皆さんがヤマダ電機やコジマなどの量販店で買う電化製品やファッションなどにも兆候は出ていたのです。

それは以前は生産者が値段を決めていて、わたしたちはその価格であるときまで買っていたのです。しかし、ある時期から生産者の設定した値段は「メーカー希望価格」に変わってきていたという事実です。ファッションなども購入者の多様性にあわせ価格破壊が進行してきていたのです。値段も「消費者」の意向を入れなくては需要にこたえられなくなったのです。

これは実は消費者が主体になってきつつあった兆候と考えるべきだったのです。そしてとうとう消費者であるわたしたちは「買うことを控えてしまった」のです。「今は新規に、また買い替えも控えます」と皆さんは「ノン」を一人ひとりが言ってしまったのです。

給料も上がらない、未来も不安定だというとき、「消費者」として意志表示をしたということです。ひとり一人の意思表示なのですが、それは消費者という普遍性の多数として圧倒的な意思表示をしているということなのです。


企業は前に売れた商品にわずかの差異をつけて商品を目新しく更新して需要を喚起してきたのですが、それが限度に近づき、消費者は自身の好みに合わせて多様な選択をするようになってきたわけです。

ファッションでも車でもパソコンなどの電化製品でも「高級」志向だけでなく、好みに合わせ多様化してきていて手頃な値段で購入できるようになってきているわけです。

このような時代では企業はより消費者の意向を汲み取る以外になくなってきています。それにも関わらず、国家や企業が経済を主導できると思い込んでいるのです。

おそらく国の提出している不況対策は無効です。消費者の立場からの視点が根本的にないのです。

住宅ローン減税、車の取得税とかいってますが、それは基本的には「選択消費(生活必需消費ではない)」の話であり、それはそれでいいと思いますが、すべての消費者に共通する施策ではないのです。

それを国家や企業は甘く見て、まだ主導は自分たちにあると思い込んだままうぬぼれてきていたのです。消費者は「思わず」賢くなってきたのです。それを生産者や国家はそれをこれまでのように「笛吹けば踊る」などともう考えていてはいないのです。

消費者が主体であるなら、国家や企業は消費者を向くべきです。企業は給料を抑え続け、国家は税金や社会保険料関係を上げ続けてきました。結局はこのことが国家や企業の首を自ら絞め続けることになったわけです。

民主党は「生活者の立場に立つ」とこの不況の前からいっていました。おそらく国はそこから出発する以外にないと気づきはじめた兆候でしょう。

今は国も企業も気づかなかった罰のように困惑しています。まだ縮小は続くでしょうが、経済の主体が「消費者に移った」ことを真に自覚することから出発する以外ありません。

消費者である国民がなにを望んでいるか、行脚の旅に出るべきです。

そして、見つからなければ、その立場を降りればいいのです。消費者に直結した発想を豊かにもった企業が生き残っていく気がします。
国は企業の経営に口を出すべきではないでしょうが、賃金については内部留保が多いところは社員への利益配分についてもっとアップするよう指導するくらいの口は出してもいい気がします。しかし今の国は税収確保で胸がいっぱいです。

株主への配当が重要視されますが、結局は消費者の購買増による企業収益回復より
道はない気がします。社員の給料をけずって配当すべきではないと思います。

派遣社員解雇とか問題だらけですが、なにがどう変るかしばらく見つめながら耐える以外にない気がします。

こころ秘かなだいじなものがあると生きる支えになる気がする

2008-12-14 23:41:52 | Weblog
あまりそういう環境になかったのか、向いていないのかわからないのですが、音楽とか美術とか詩なんかも専門的にはよくわからないのですね。

ただ、この頃どこかできっと共通しているものがあるのだと思うようになりました。それは各ジャンルですごいひとはその表現がなければ生きていけないこころの衝動を持っているということです。疲れたと思っても、また時がたつとどうしても吐き出さなくては生きていけなくなる。そんな考えたいひとりの時間を持ってる。

たとえば、有名なクラシック奏者がいるとして、モーツアルトが好きとします。その奏者は他者の同曲を聞いていても、どこかで自分自身の切実な思いを、モーツアルトの同じ譜面に読み込みたくなる。そこで内的な無言の自己問答を譜面のなかのモーツアルトの思いと交わし始める。そしてそれをいつか表出したくなる。そんな気がするのです。

歌というのは自分でも遊びで歌っていてふっと思うのですが、やはりすごい歌手というのはきっと歌わないと心も身体も生きていけそうもなくなって、どうしても歌わざるを得なくなるという気がするにです。つまり歌わないとどこか病気になってしまう。表現せざるを得なくなる、吐き出さずにはいられなくなると思うのです。
歌うことには声を出すという全身的な表出の快感もある気がいます。これを味わって、ひとからの評価も得れば、無限に繰り返す衝動になる気がします。

きっと皆さんの心の恋人のようなほんとの歌手はそのような歌手だと思います。
それはどこかでこちらの生きていく気持ちとか、姿勢に深く何事かを訴えてくる点あるのだと思います。でも、それは感性的でうまくことばにできないこともある気がします。

亡くなってから知った尾崎 豊なんか今聞いてて共感した若者がいたのはよくわかります。彼はすごい歌手かどうかわかりませんが、詩をつくり歌うことでやっと自分を支えていたような気がします。歌うことの原点をパセテイックに感じます。

小説でも音楽でも絵画でもマンガでも哲学でも科学でも思想でもなんでもいいですが、そのすぐれた人はコミュニケーションのことばにならない共通の秘かにだいじにしているものとの問いと答えを無限に繰り返していると思います。


そしてそれは結局誰もが持っていたら誰に知れなくても生きる支えになるような気がします。でもわかってほしい、ことばにしたいと思うようにもなりますね。
それはまたほかの人との共感の原点にもなる気がします。

でも世の中うまくいきません。そこからそれたことばばっかりしゃべってます。

皆さんはおだいじに。








今度の不況で見えてきたこと、「消費者」という存在。

2008-12-07 05:25:51 | Weblog
それは国家でもなく、経済でもなく、おそらく「消費者」という側面です。消費する人は、また、生産にもたずさわっているでしょうが、その部分より、「消費者」の面がせりあがってきているように思えます。

それは、消費者が生活する上で使う支出を必要消費(衣食住など)と選択的に支出する選択消費とするなら、必要消費にも気を使い、選択消費を削減したとしたら、その極限では企業の収益は圧迫され、国家の予算は減っていくわけです。

これまで、国家も企業もおそらく国民の「消費者の面」を甘く見てきたのです。
企業は売れ行きのみ気にして号令をかけ、国家は企業の発展のみ気にしてきたのです。グローバル経済は「新興国」にも先進国にもメリットがあると企業も、国家も楽観ししていたのです。

しかし考えてみれば、この15年くらい、消費者の面から見たなら、実質収入は増えていないのです。実力主義という名のもとに、企業は優秀なものは多く得られるとして巧妙に実は賃金抑制を進め、心的疲労者を量産したのです。

企業合併は基本的には体力が強くなりますが、そこでは役員報酬は大きくなった分だけ大幅に引き上げられますが、社員給与は低い会社にあわせられます。内部留保と株主への配当に役員は腐心し、社員への還元はいっこうにふやしません。役員努力はその努力とプライドです。

給与所得者は、淡い期待を抱きながら、この高度消費社会の一員と自分をみなしたくてがんばってきましたが、この十年以上で結果的には消費を減少させざるを得なくなってきていたのです。

それが今回、国家、企業の幻想のおごりと消費者の実質収入のギャップとして、その誤差を露呈したのです。アメリカのサブプライムローンはその幻想と消費者現実の誤差そのものです。

ここに、高度消費社会ということばの意味がはじめて現れてきたのです。

つまり、高度消費社会とは「消費者がすべてを決定する主体」となるという国家や企業にとっては恐ろしい時代なのです。実はそれは庶民から見れば希望でもあるのですが。

国家も企業も実は消費者の顔などあまり気にしていなかったのです。ほどほどの給料を支給していれば、がんばってくれるものとたかをくくっていたのです。
「消費者」という人間はいないのです。実質は具体的に生活をする生身の人間たちなわけです。それをのっぺらぼうな「消費者」として機能的に群れとしてしか見ていなかったのです。

まず企業は余力のあるところは内部留保と役員報酬と株主最優先を抑制し社員給与を上げるべきです。それしか結果的に需要は喚起できません。それが収益拡大の第一だと知るべきときです。

国家はのっぺらぼうに「国民」とか「消費者」などと考えずに、生身の生活者として、なにを国民が望んでいるかをはじめて問い直し、反省すべきときです。

そして、国家も企業も少しづつ「消費者」がいかにだまされなくなってきているか気づいていくでしょう。

そして「消費者」は自分が個々に主体であるということに自覚を持つべき時代になってきたということです。これは重要な現代の兆候だとわたしには思われます。

その意味で国家や企業は実は「消費者」を無視しては成り立たない存在であることを自覚すべきです。それを自覚したとき、自らを変えざるを得ないことに気づくと思えます。まだ幻想はさめるのに時間はかかるでしょうが。

それは個人が自分をなかなか変えられないのと同じです。しかし、自分が変らないと思っても、世界の変化によって、自分を変えざるを得ないことがありうると知ることは重要だと思います。変らないより、変える勇気も必要なときがあるということです。