気まぐれ人間の気まま情報新聞

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個と公とかいう考えについて 2

2017-07-17 23:20:04 | Weblog
前回はじめのところで「個人の自由とか平等をわがままなほどかなり優先したいほうなので「公」というのは好きではないですが」と書きました。
それは僕のなかで、歴史が進んでいけば、当然文明も文化も進歩し、それに従って人間も「自ずと理性的になり」、個人の自由も平等も理性的に認められれていくだろうというように世界全体がなっていくだろう、と思っていたのが、なんかどこで思い切り舵を取り間違えていたのではないかという気がしてきたのです。どうも時代の流れは「個人の自由平等」というようなことを文明が進歩すれば自動的に達成してきるようなものとみなして安心しているのではないか。そんな気がしてきたのです。そして結果的に「個」は「公」よりちいさいように見えるゆえに、その根本的重要性を僕個人も含め、忘れていて、安心しすぎていないかという気がしてきたのです。
でもそんなとき、次のようなことばを見つけました。

「人間の内在史(精神関係の歴史)からみれば近代は外在的な文明の形と大きさに圧倒され、精神のすがた形はぼろぼろになって、穴ぼこがいたるところにあけられた時期とみることもできる。外在的な文明にに追い詰められ、わずかに文化(芸術や文学)の領域だけを保ってきた。そして文明史はこの内在的な文化(芸術、文学)の部分を分離して削りおとすために、理性を理念にまで拡げる過程だっと見なすことができる}(吉本隆明:アフリカ的段階について―史観の拡張:平成10年))

※文明とか文化のはばなしい外在的発展からは、あまりこじんまりして生活的に隠れて見えぬにくいですが、それに対応した心の自由の進化も自然に伴うだろうと想定されている気がします。しかし彼はそれは相関をそれほど信用していないのだということです。逆に内在的歴史は取り出して独自に検討すべきだというのです。どうも文明の発展には内在的文化は勘定に入っていない。
ここで「理性を理念まで拡げる過程だったとみなすことができる」とは、「人間には、まちがわずに歴史を正しいほうに導いていけるだろうという、「理性」が備わってきているのだから、理性を「絶対的な正しい導きの思想」として信じていけば、文明や文化は進歩していくだろう。そう信じることが「理性を理念まで拡張」の意味です。しかし一見華やかな文明の進歩の中で、本当は真にだいじにすべき心のだいじさが、華やかさとにぎやかさの中で、「削りおとされている」というのです。「理性」ということばを語る人は皆さん気を付けてくださいね。僕はある時からとても気になるようになりました。皆さん私も信用しないでくださいね。「理念」というのは「実現されるはずの最高の思想」というほどの意味です。

家族内殺人、虐待、好きな人を簡単にあやめる、学校でも会社でも、いろんないじめ、自殺、うつ病などの心の病気の増加。こういう些細に見えて大事なことがどこか狂ってきているのは一見文明的、文化的に楽天的に「公」的なものだけを重視?してきた繊細さの足りない「理性」幻想のつけなのだとおもいます。人間理性だけでは生きていません。もっと心で生きています。

僕たちは負けそうになっても、くだらない猛々しい理性の心無い、冷たい「いわゆる理性」を、ひとつひとつ確認しておきましょう。テレビ見てるとまるでショーのようにこの頃よく見えますね。

まだ、「公」にはいろんなことが吹き寄せてきて気になることがあるので、また次回書きますね。

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