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風林火山 #4

2007-03-10 16:13:46 | 戦国時代
登場武将の一口サイズの覚え書き(?)第3回。
別に歴史研究家でもなんでもないため、資料的価値はありませんのであしからず…
今回は武田家その2を。

武田信繁(タケダノブシゲ)

信虎の次男で官職の左馬助の唐名、典厩の通称で呼ばれた。
古典など学問に通じ、99項目にわたる『武田信繁家訓』を嫡男信豊に残した。
文武共に優れ兄信玄の補佐として尽力したが、永禄4年(1561)第4次川中島合戦で討ち死に。信玄はじめ武田家家臣にとどまらず、上杉謙信ですらその死を惜しんだ。
 


武田義信(タケダヨシノブ)

信玄の嫡男で妻は今川義元の娘。幼名は太郎。
第4次川中島では武功をたてるも、父の命を守らず甲軍を窮地に陥れたとされる。また、弱体化した今川を攻めようと画策する父と亀裂は深まっていき、永禄8年(1565)謀反を起こすが失敗し東光寺に幽閉、廃嫡された後自刃。
 



教来石景政(キョウライシカゲマサ)

官途は民部左衛門尉と称して、天文15年(1546)馬場家の名跡を継承すると名を信房と改める。また、永禄5年(1562)後に病死した『鬼美濃』こと原美濃守にあやかり馬場美濃守信春と称す。
信玄の初陣とされる海ノ口城攻略戦では、城将平賀源心を討ち取ったとされる。北信地域の防衛を担当、三方ヶ原では家康を追いつめるなど、戦巧者で名をはせたが、天正3年(1575)長篠の戦いにおいて殿を勤め勝頼が落ち延びると単身織田軍に突撃、戦死した。
 

原虎胤(ハラトラタネ)

受領名の美濃守から『鬼美濃』と称され恐れられた。
攻城戦を得意とし、天文20年(1551)小笠原・村上氏の拠点信濃平瀬城を攻略し城代となる。
第4次川中島合戦の前哨戦といわれる、永禄4年5月の割ヶ岳城攻めで負傷し一線を退いた後、永禄7年病死している。
 
 


駒井政武(コマイマサタケ)

高白斎と号す『高白斎記』の著者。主に外交を担当。
天文11年(1542)、伊那攻略戦で武田軍の先鋒をつとめ、藤沢頼親の福与城を火攻めで攻略。
 



真田幸隆(サナダユキタカ)

弾正忠と称し、名は幸綱との説が強い。後に剃髪し一徳斎と称す。真田信綱・昌輝・武藤昌幸の父。
天文10年(1541)武田信虎が信濃小県の海野氏を攻めると、武田・諏訪・村上の連合軍に海野平の合戦で敗北、上野の長野業政らを頼って亡命する。
代替わり後の武田晴信に従うと、旧領の真田郷に復帰、以後村上方戸石城攻略や北上野攻略などで知将として名をはせる。天正2年(1574)病死。


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