日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ

近隣諸国との摩擦が表面化し、過去の侵略歴史の認識や反省が国民にないまま、国家存続の岐路に立たされています。

日本社会の病的体質、嗜虐的な弱者、少数者排除の論理 part2

2013-04-12 00:56:00 | 過去の日本の戦争犯罪、戦争責任
日本社会の病的体質、嗜虐的な弱者、少数者排除の論理 part1よりの続きです。



 "働かないアリにも意義がある"という本があるが、アリやハチといった昆虫は働きバチ(アリ)は全員が我武者羅に働いているというイメージがいるが、そうではありません。働かずにぶらぶらだらだらしなが一生を終えるものも多数存在します。
 働きもせず、子孫も残しもしない働きアリ(バチ)が存在するかといえば、彼らの中には反応閾値の違いというのがあります。人間でも宿題があればすぐに始める人と、期限ぎりぎりまでやらない人。少しでもゴミがあれば掃除する人と、ゴミ屋敷の中でも掃除をせずに平気でいられるような人がいます。反応閾値の低い個体は餌があればすぐに反応し取りにいくのに対し、高い個体はよっぽど空腹に迫られないと動かないという個体差があるということです。全員が反応閾値の低い個体ばかりで構成されていれば、餌を集めたり、巣を広げたりする上で効率的だと思える。しかし、実際は全員が全員働き者で構成されたとしても、多様性を欠いた場合、存続はできません。同じタイミングで一斉に働き出してしまうと、いざコロニーを守るにもアリが出払ってその役割をするものがいなかったり、一斉に疲労が蓄積して動けなくなったりするとそのコロニーの存続が危うくなります。これがアリやハチなどの社会的生集団生活を営む昆虫社会の仕組みで、普通は一部のアリしか働かないけれども、忙しくなったり、何らかの外的な要因で多数の個体が死にコロニーの存続が危うい緊急事態の場合、普段働いていないアリが働き始める仕組みになっています。働かない個体がいる、一見非効率的なシステムがアリやハチなどのコロニーにおいてコロニー全体を存続させる上で重要なのです。アリやハチなどの昆虫社会を単純に人間社会に当てはめていいとは思いませんが、一考の価値はあるのではないでしょうか?
 近年ではニホンザルでもボスザルが弱いものいじめがあった場合、弱い側に介入し、強くいじめた側を懲らしめるという行動が観察されているといます。チンパンジーなんかではボスは決して力だけで群れを支配せず、メスや小さい子供たちに優しく気配りもあってこそ支持されているという報告もあります。
アフリカのサバンナなんかでも草食動物が自分の子供ばかりか、異種の子供が肉食動物に襲われそうになった場合でも助けるという行動もあります。自分と異なる異端者や弱者を庇う、助け合う行動や概念は野生動物ですら存在しますが、嗜虐的まで少数派、弱者を蔑み、甚振って快感を感じるような在特会のような右翼連中の道徳の破綻しようは動物以下だと断言できます。
 熱が40度近くあった女の子に無理やり登校させて クラス全員を無遅刻無欠席を達成させたというとんでもない美談があったのを思い出す。「会社に寝泊りした」、「20連勤やったとか」「週100時間越えの残業」をやったとかという社畜自慢なんていうのも社会に溢れています。
 人間社会がすべて"いわゆる強い人"で構成されていたとしたらどうだろうかと考えたりもします。そういう週100時間の残業をこなしたり、睡眠1時間でも平気な超激務に強い、ストレス耐性のある人間だけだったら、徴兵制を試行したい安倍自民や経団連やブラック企業は大喜びするでしょうか?殺鼠剤入りの餌を一生食い続けても平気なスーパーラットという鼠がいる。1000ミリシーベルトだろうと何千シーベルト被爆し続けようと、一切の障害を起こさない放射線への抵抗力が強い人間だけにしたら。福島やチェルノブイリの放射能汚染の問題だって解決するのではと。
 しかし、少なくとも私はいわゆる”強い人間”だけでは健全な人間社会は成り立っていかないと思います。そういう文明は滅ぶと思う。ストレスや負荷に耐性・抵抗力をもつ”強い人間”は、弱い人間が感じているストレスやストレスに苦しむ弱い人間の苦痛に対して極めて鈍感であると思います
 いわゆる強い人間に”弱い人間”が感じる痛みや苦しみ、気持ちを教えるには家庭や学校で行なう教育しかないと思います。そういう教育を行なうためにもいわゆる”弱い人間”は必要であると思います。社会の利便性の発展や追及、社会保障制度、再生医療や医学の数々の発展だって、弱い人間、弱者や障害者を助けるべくなされてきた側面があることをみるべきです。得意不得意もいろいろあって、好き嫌いや趣味興味も多様で、いろんな人種や民族もいて、いわゆる”弱い人間”、弱者、障害者、少数派もいて多種多様ないろんな構成員がいるからこそ、紆余曲折があっても、今まで人類が文明の発達を続けてこられたのです。みんなが同じ”強い人間”で同じ価値観・思想をもち、同じ方向を向いて進むような社会だったら、住みよい社会にはなっていません。反応閾値が低い働きものアリばかりで構成されたコロニーが滅びるように、そういう文明だったらとっくに滅びています。ここに多数派が弱者や少数派を権利を与え保護するメリットというのが導きだせるのではないかと私は思います。
 そもそも、民主主義の根幹をなす個人の権利というのはそもそも国家・行政権力という"強者"から、個人の人間という"弱者"がその権利を獲得(国家権力に命令)するために、国王や少数の特権階級が牛耳る封建制を幾多の人柱、涙、苦しみ、流血、犠牲の上に倒した(市民革命)上に勝ち取ったものです。神の視座からデメリット、メリットなどと述べ弄ぶこと自体がおかしいです。
 同じ社会の構成員の中の多数派と少数派・弱者についても考えてみますが、その少数派・弱差の権利はその議会制民主主義の多数決の原理では決して保護されないものです。また日本に住んでいるが日本国籍を持たず選挙権がなく、民主主義の枠外すら外される外国人の方もいます。そうした方たちの権利は国際人権規約などの国際的な人権保障の枠組みや、国民主権や基本的人権の尊重、生存権、法の下の平等を定めた素晴らしい日本国憲法の下に名目上は保護されていますが、しかし、、生活保護のバッシングや自立の名の下に隔離と死に追いやられるような障害者・病人の存在、犯罪者扱いされ迫害・強制収容される在日外国人の存在など、そうした権利の保障からは実態は程遠いのが現状です。さて、安倍自民党や日本維新の会が目指しているものはこれに輪をかけて韓国や中国の在日外国人の方を迫害し、国民の多数派が同じ”強い人間”で同じ価値観・思想をもっていて同じ方向を向いて進む過去の大日本帝国と同じ画一的統制社会です。弱肉強食の競争原理を露骨に押し出され人の心を蝕み、弱者・少数派を見出して虐げることに個々の存在価値を見出そうとするファシズム社会であります。安倍自民党や日本維新の会などの極右勢力の試みを断固阻止するとともに、過去の正しい歴史認識を持ち、大日本帝国・日本軍の犠牲者や被害者、過去の侵略戦争と重ね合わせながら、あらゆる少数派・弱差の権利の不可侵性を認識し、多数派である日本国民1人1人が思いやり「ともに歩み築き上げる社会」に向けて不断の努力を続けていかないといけないと思います。

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