→PART1
→PART2
本業(?)のレビュー記事をほったらかしにして最近こんなことばっかし書いてるもんで、もしかしたら読者のみなさんはうんざり気味かもしれないなあ、と思いつつ、でも中途半端で放り出すのもイヤ、ってなわけで、こんな感じの記事はとりあえず今回で一旦打ち切りにしようかと。
takaさんがいろんなコメントをくれたんで、それを受けての意味も込めて自分の立場を明確にしておくと(まあ自意識でしかないんだけど)、おれは「映画は娯楽」だと思ってる。
いや、こう書くとまた「娯楽って何?」という命題が浮上してしまうんだが、多分おれが娯楽だと思う映画って、やっぱりアメリカ映画っぽいものなんだろうな。
それこそ、タルコフスキーの『ストーカー』よりもドン・シーゲルの『ダーティーハリー』の方が好き、みたいなノリ(タルコフスキーが嫌いなわけではない)。
だから、takaさんにはちょっと悪いけど、多分好みはだいぶ違うと思います。笑
結局、芸術という言葉の響きがもうイヤなんだよね。
なに?その偉そうな響きは?みたいな。
ヨーロッパのお利口なゲージュツ映画とかほんっとに嫌い。
つまらんもの。
通俗性が決定的に欠落してる。
チャン・イーモウの『HERO』とか、もう駄目。
あんなのゲージュツぶりっこでしかないと思う。
あと、こないだ観たばっかりの『デュエリスト(日本版)』もそう。
そういうことを考えていくと、恐らくおれが定義する「娯楽」っていうのは、アメリカ映画的(必ずしもハリウッドではない)で、通俗性に満ち溢れていて、かつユニークで、新しい感じがすれば最高、ってとこかな。
なんとワガママな。
でも、それがおれにとってのエンタテイメント映画、少なくとも今は。
さらに言えば、ここで言う「ゲージュツぶりっこ」というのは、「我輩は芸術家であり、すばらしく美しいものを世の中に示してやろう」という態度のことで、つまり観客を楽しませようという通俗的野心がハナっからないもののこと。
で、おれが定義する「娯楽」というのは、作り手は作り手なりに観客を楽しませようとしてるもののこと。
それを判断するのは(おれの頭とこのブログ内では)おれです、ってことでしかないけどさ。
でも結果論なんだよね、今世の中で主に流通してる「娯楽」の定義って。
結果的に大衆から支持されたものがすばらしいとか、すんげー下らない世界観だなって思う。
もしくは、経済的社会貢献とかリラクゼーション(癒し)とかお祭り騒ぎとか。
そういうことにしか興味ないのかね、日本人は。
「文化的見地」というものがもう最初っから(ごく少数しか)存在しない。泣
まあ、同じように「ジャーナリズム」ってのも日本にはほぼまったくないとおれは思ってるんだけど、これは偏見。
で、結局何が言いたいかっていうと、「映画を観るときの心構え」なわけで。
映画を観るときは、それこそ童心に戻って、ポップソングを聴くときのように、映画そのものを受け入れてみる、ということ。
で、その後で、いろいろ考えてみたりする。
それでいいんじゃないかと思う。
ただそのときに、今観た映画のおもしろさとは一体何だったのか?という命題に直面したとき、そのときこそあなた自身の「映画批評」が始まったんだと、そういうことなわけ。
映画ってのは、観ながら主体的に思考するメディアじゃない。
どんな種類の映画であれ、その「映画に接する姿勢」だけは忘れて欲しくない、と思う。
映画は物語だけでも、映像だけでも、それらが別々に存在するメディアでもない。
「映画は、文学性を孕んだオーディオ・ビジュアル・メディアである」というのが、当面のおれの結論。
終わり。
業務報告
●レビューの方は、『かもめ食堂』と『トムヤムクン!』は傑作だったので書きます。
『スケバン刑事(あやや)』はめんどいので書きません。
●でも、『スケバン刑事(あやや)』もおれはすごくおもしろい映画だと思うので、みんな暇だったら観に行ってね。
過疎ってると思うけど。
むしろ過疎ってるから特等席で観られるぜ!くらいの勢いで。
→PART2
本業(?)のレビュー記事をほったらかしにして最近こんなことばっかし書いてるもんで、もしかしたら読者のみなさんはうんざり気味かもしれないなあ、と思いつつ、でも中途半端で放り出すのもイヤ、ってなわけで、こんな感じの記事はとりあえず今回で一旦打ち切りにしようかと。
takaさんがいろんなコメントをくれたんで、それを受けての意味も込めて自分の立場を明確にしておくと(まあ自意識でしかないんだけど)、おれは「映画は娯楽」だと思ってる。
いや、こう書くとまた「娯楽って何?」という命題が浮上してしまうんだが、多分おれが娯楽だと思う映画って、やっぱりアメリカ映画っぽいものなんだろうな。
それこそ、タルコフスキーの『ストーカー』よりもドン・シーゲルの『ダーティーハリー』の方が好き、みたいなノリ(タルコフスキーが嫌いなわけではない)。
だから、takaさんにはちょっと悪いけど、多分好みはだいぶ違うと思います。笑
結局、芸術という言葉の響きがもうイヤなんだよね。
なに?その偉そうな響きは?みたいな。
ヨーロッパのお利口なゲージュツ映画とかほんっとに嫌い。
つまらんもの。
通俗性が決定的に欠落してる。
チャン・イーモウの『HERO』とか、もう駄目。
あんなのゲージュツぶりっこでしかないと思う。
あと、こないだ観たばっかりの『デュエリスト(日本版)』もそう。
そういうことを考えていくと、恐らくおれが定義する「娯楽」っていうのは、アメリカ映画的(必ずしもハリウッドではない)で、通俗性に満ち溢れていて、かつユニークで、新しい感じがすれば最高、ってとこかな。
なんとワガママな。
でも、それがおれにとってのエンタテイメント映画、少なくとも今は。
さらに言えば、ここで言う「ゲージュツぶりっこ」というのは、「我輩は芸術家であり、すばらしく美しいものを世の中に示してやろう」という態度のことで、つまり観客を楽しませようという通俗的野心がハナっからないもののこと。
で、おれが定義する「娯楽」というのは、作り手は作り手なりに観客を楽しませようとしてるもののこと。
それを判断するのは(おれの頭とこのブログ内では)おれです、ってことでしかないけどさ。
でも結果論なんだよね、今世の中で主に流通してる「娯楽」の定義って。
結果的に大衆から支持されたものがすばらしいとか、すんげー下らない世界観だなって思う。
もしくは、経済的社会貢献とかリラクゼーション(癒し)とかお祭り騒ぎとか。
そういうことにしか興味ないのかね、日本人は。
「文化的見地」というものがもう最初っから(ごく少数しか)存在しない。泣
まあ、同じように「ジャーナリズム」ってのも日本にはほぼまったくないとおれは思ってるんだけど、これは偏見。
で、結局何が言いたいかっていうと、「映画を観るときの心構え」なわけで。
映画を観るときは、それこそ童心に戻って、ポップソングを聴くときのように、映画そのものを受け入れてみる、ということ。
で、その後で、いろいろ考えてみたりする。
それでいいんじゃないかと思う。
ただそのときに、今観た映画のおもしろさとは一体何だったのか?という命題に直面したとき、そのときこそあなた自身の「映画批評」が始まったんだと、そういうことなわけ。
映画ってのは、観ながら主体的に思考するメディアじゃない。
どんな種類の映画であれ、その「映画に接する姿勢」だけは忘れて欲しくない、と思う。
映画は物語だけでも、映像だけでも、それらが別々に存在するメディアでもない。
「映画は、文学性を孕んだオーディオ・ビジュアル・メディアである」というのが、当面のおれの結論。
終わり。
業務報告
●レビューの方は、『かもめ食堂』と『トムヤムクン!』は傑作だったので書きます。
『スケバン刑事(あやや)』はめんどいので書きません。
●でも、『スケバン刑事(あやや)』もおれはすごくおもしろい映画だと思うので、みんな暇だったら観に行ってね。
過疎ってると思うけど。
むしろ過疎ってるから特等席で観られるぜ!くらいの勢いで。
名前を連呼していただいて恐縮です…。
「ダーティハリー」つい最近見まして、気に入りましたよ。
特にあのナイフを突き刺されて「キョエー」って叫びが。
でも「HERO」も好き(笑)。
映像の澄みきった感じ、とか。
なんかラストの矢の数のもう思いきっちゃった感じとか。
ryoddaさんはたぶん気に入らないかもしれませんが(笑)
似たようなタイトルで今年
「PROMISE」っていうの見まして、
バッファローより速く走るチャン・ドンゴンに爆笑しました。
しかも後半、ちょっと感動すらしてしまいました(笑)。
タルコフスキーは「惑星ソラリス」すら見てないんですが
どーなんでしょうか。映像は(ワクワク)。
見てみます。
過疎といえば思い出すのが「HINOKIO」で
友人は当時、自分も含め2人しかいない劇場で見たそうです。
また何か変化があったらPART4お願いします。
>でも「HERO」も好き(笑)。
映像の澄みきった感じ、とか。
なんかラストの矢の数のもう思いきっちゃった感じとか。
いやー、なんかあの、上品な感じが駄目なんですよ。
もっとぶっちゃけてくれるといいのに!とか思ったり。
『LOVERS』の方がいいと思います。
>似たようなタイトルで今年
「PROMISE」っていうの見まして、
ああ、それ、観たいと思ってました。
なんかすごい映画だって一部で話題になってたみたいなんで。笑
観てすごかったらレビュー書くかも書かないかも、です。
>過疎といえば思い出すのが「HINOKIO」で
友人は当時、自分も含め2人しかいない劇場で見たそうです。
ふふふ、まだまだですね。
自分など、1人ぼっちのときが2回もありましたよ。
ハッハッハ(と夕日に叫ぶ)。
ということでコメントや
トラックバックなんかはされていませんが
たぶんこことかを読まれて思ったことなのかな、
ということを例のブログ様が、
「オトシモノ」の
項目で書かれていましたので
チェックしてみてはいかがでしょうか。
リンク貼ろうと思いましたがやめます。
でも、こういうのって
直接対決して論議されたほうが
見ているほうにとっては面白いんですけどねえ(笑)。
はっきり言って、もうこの人とは関わりたくないんです。苦笑
程度が低いですよ、悪いですが。
おすぎのどこがいいかって、「わかりやすいところ」と主張するような人ですよ?
ひたすらわかりやすいものを大衆に与え続ければ、どんどんバカになっていくんじゃないかと自分は思います。
それに何度も言ってるように、一番言いたいのは「わからないものをなんとか理解しようとする好奇心が映画、あるいは世界をよくしていくだろう」ってことなわけで、この人は「大衆は、わかるものにしか反応しないものである」という前提でものを言ってるじゃないですか。
見下してるんですよ、根本的に。
だから、こんな程度の人とは対決めしたくないですし、関わりたくないです。
乗り込んできてくれるまで
楽しい展開はおあずけのようです(笑)。
「ナイロビ」の議論が僕は面白かったんですよ。
さて、ひとつだけ思ったことを。
この方は
おすぎさんのいいところ、を挙げているのではなくて
おすぎさんが世間的に受け入れられている理由が
「わかりやすいところ」だって言っているんですよ。
好きではないが、という但し書きがついてますしね。
ここを指摘したからといって
この方が「大衆を見下している」という結論には
なんの変化も起こらないでしょうが、
ただ「わからないものをなんとか理解しようとする好奇心」
が大事だというryoddaさんが
「わからない人」と「関わりたくない」と言ってしまうのは
ちょっと矛盾してませんか?
いや、積極的に関われとは言いませんけどね。
「じゃあどうしろっていうんだ」と思ったらごめんなさい。
ryoddaさんは今の感じでここを続けてください。
僕は読者として今までどおり楽しませていただきます。
昨日「レディ・イン・ザ・ウォーター」見ようとしたら
「デスノート前編」再上映のあおりで
上映回数が減らされてしまって見られませんでした。
「LOVERS」そのうち見てみます。
では。
ただ分かって欲しいのは、自分がこの人と関わりたくない最たる理由は「無礼で、見下してくる人だから」なんです。
これは自分の勝手な判断ですが、こちらがいくら論理的に言葉を尽くしても、「あなたの主張は分かったが、私は私の主義を変えるつもりはない」って言われて終わっちゃう気がするんですよ。
きっと、メチャ頑固な人だとも思いますし。
そういうわけで放置したいんですが、まあもう少しして気が変わったら、コンタクト取ってみるかもしれません。
あ、これが「煽り」という行為かと
認識したのでちょっと反省します。
「主義を変えるつもりは無い、と言われそう」の
点については、僕もたぶんそうだろうな~と
勝手に思っちゃいますね。
でもそれで終わりならそれでもよいのでは。
いつか気が変わったら、ということなので
今からワクワクです(笑)。
もし今度「叫」などをメタメタにされたら、
その時こそ邂逅をいうことになりそうですね。
あ、また「煽り」をやってしまった…。
責任取ってください、takaさん!
というのは冗談ですが、さて、どうなりますかね?
便乗コメみたいでごめんなさい。ボクもtakaさんと同じことを思ってたので…反レディだなぁと
で、今のryoddaさんはポール・ジアマッティに見えます(キラキラ☆
やってきてしまったようです!
まだコメントのほう見ておりません!
今から見てきます!
うおー楽しみー(笑)
trichopteraさん、はじめまして。
いまだにレディを見てないので
反体派なのかどうなのか
はっきりしてないんですけれども、
なんだかどこかに反応してくださってたら
ありがとうございます。
あ、「デスノート」の再上映が
映画館側からの反「レディ」だというのでしたら
まったく同感です。
「デスノート」もう見たっちゅうねん!
1回でいいっちゅうねん!
…てな感じです(笑)