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大分紀行(7) 妻垣神社

2006-05-21 | 神社・仏閣
無事に下山後、安心院観光協会へ立ち寄りしばしお話をして、妻垣神社へ向かいました。
「妻垣」ですが普通に読むと「つまがき」ですが、ここでは、「つまがけ」と読むんだそうです。あまり知られていないようですが、ここが注目を浴びる理由に、なんと!記紀に、ここの伝承があるのです。
「神武天皇」が東征の折先ず最初に立ち寄った所が、筑紫の国の「菟狭(宇佐)」の地で天皇は、ここで『菟狭津彦』と『菟狭津姫』の兄妹に会う記述があります。彼らは天皇を向かえ入れるため『足一騰宮(記)一柱騰宮(紀)「阿斯毘苫徒鞅餓離能宮」(アシヒトツアガリノミヤ)』を造り「饗」(みあえ・祭祀)していたと書かれているのですが、この宮があったところが、安心院の「妻垣神社」であると言い伝えられています。神代から祭祀されていたという古い歴史を持つ神社なのです。ここで出てくる『阿斯毘苫徒鞅餓離能宮』とは、果たしてどんな宮だったのでしょうか?

ちょっと調べてみたところ「一足で上がれる宮」「水の中に支えの柱が一本でている宮」「テントの如く中央に一本の柱がある宮」「さっさと作った宮(笑)」とかいろいろ解釈されてるようですが、なにしろ神武東征中の出来事ですから、出迎えた兄妹側は、急に来られていい迷惑だったことでしょう。大騒ぎした挙句急ごしらえの宮を造ったものが『阿斯毘苫徒鞅餓離能宮』であったのではないでしょうか。
本居宣長が「水の中の柱」説を押してますが、確かに海辺や川辺に建てれば、撤去も簡単でしょうから「さっさと造った宮」が、案外正解かも知れません。(^_^;

もうひとつ「一柱騰宮」の解釈で面白い説があります。
「一柱」とは、“ひとはしら”「騰」とは、“あがり”を意味し即ち“死”を現し「宮」は、寺や墓を意味する事から「一柱騰宮」とは、「一柱の女神が死んで祀られた場所」を意味しているという解釈です。実は、ここは卑弥呼の墓伝説でも有名な場所です。何でも境内にあった墓を妻垣山の元宮巨石の下に移したと推測されているのですが「一柱の女神が卑弥呼だった。」のかも知れません。

境内は、日が大きく傾きかけ、とても静かで訪れるものもなく前方には、卑弥呼の墓があると伝わる妻垣山(共鑰山(ともかぎやま))その90度方向には、お椀を伏せたような竜王山がみえます。何でも妻垣山で水道工事が行われた際、大きな遺物が出土されたそうですが何も検証されないまま破壊されたそうで、前述の「一柱騰宮」を裏ずける大きな証拠だったかも知れずとても残念でなりません。

社殿の裏手には、大きな楠木が聳えていました。旭さん曰く古代、ここで船が作られていたのではないかと推理を働かせます。
妻垣山の麓にある元宮「米上(めーとる)のイワクラ」までは、けっこう急斜面の階段を登ります。イワクラは、急斜面に続く階段を上りきった鬱蒼とした木立の中の静かな山の中腹にありました。ここで、玉依姫が安堵の御心を抱いたのも理解できる気持ちのいい場所でした。(写真:妻垣神社 元宮 米上(めーとる)の磐座)

以下は、縦看板の記述をご紹介します。

共鑰山の院(御神山)の謂われ(ここより米上(めーとる)の磐座)

八幡宇佐宮御託宣集「御遊化(ごゆうげ)の部」に(通称、ここ「御神山」は)
比大神(神武天皇の御母、玉依姫)の御在所(院)であり。
かつて応神天皇の御霊が霊界修行の時、ここ院の内において、
玉依姫と共に、利生(衆生済度)の語らいをされた時、
玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、尓言うなり。
と、説かれていて、ここは共鑰山の「ご神体に相当する」場所である。
従って、「安心院」の名称は、玉依姫様が、この磐座の、
院の内において「安心」された事に、由来する訳である。
(※以上「共鑰山の院(御神山)の謂われ」説明看板より引用 読みやすいように一部改行編集しました。)

妻垣神社 山門

境内の楠木

竜王山とかつて宇佐の神学校があった跡地

妻垣山(共鑰山)

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