飛鉄(HITETSU)

飛行機、鉄道などの撮影のあれこれを綴っています。

昼寝を狙って

2015-10-31 07:00:00 | アーカイブDF50
当時高松~新居浜を1往復する191~192レという 運用があった。高松を朝でて新居浜を夕方発で戻ってるという 運用だ。新居浜では返しまで3時間半ぐらいあって 釜は完全昼寝状態だ。恐らく番号潰しもあって海岸時の次は この列車を狙ったようだ。着いてみると案の定、ヤード片隅にて ぽつんと置かれた釜がいた。なんの変哲もない番号だったからか ホーム先端で撮影して終わっている。この場所は外周からでも 綺麗に撮影できる場所だっが、33号機ということもあって 早々に次なる場所に移動したのだと思う。 今もこの場所はあるようだが、駅南側には貨物ヤードが出来て 当時とはまったく様子は変わっているようだ。 DF5033(高) 新居浜 1981年8月19日

予讃本線へ繰り出し

2015-10-30 06:26:55 | アーカイブDF50
多度津を離れ今度は予讃本線に繰り出した。 土讃本線が山あいの線区に対して、予讃本線は 瀬戸内海沿いに走る路線であまり高低もないが 海をバックにというロケーションが魅力だ。 そして方程式どおりのカットを納めに海岸寺を に降り立った。今も多分そうであるが、有名 お立ち台だ。当然今は電化されいてこのような すっきり感はないが、右手に瀬戸内海が入る 場所だ。残念ながらこの日は晴れなくて青い 瀬戸内海の海とはならかった。 181レ DF5055(高)多度津での停車していた貨物。 ここは本来下り向きではないが。 120レ DF5059(高) 124レ DF5026(高)元お召し機の銀帯車だ。 すべて予讃本線 海岸寺~詫間 1981年8月19日

2年ぶりの再会

2015-10-29 07:00:00 | アーカイブDF50
夜明けを迎え今日の撮影も本格的にスタートした。 初っ端は、271レで、24号機だった。 24号機といえば、2年前に亀山の留置線で3両繋がれた うちの1両だった。四国へ渡り生き残っていた。 20番台は最初の番号が未撮影に終わっている。 多分、20、23、24、26、27、28、29しか 撮影できていない。 24号機の土讃本線下り271レ出発後に、予讃本線下り181レの 釜が繋がれた。55号機だ。並びとならず残念。 271レ DF5024(高) 多度津 1981年8月19日 181レ DF5055(高) 多度津 1981年8月19日

夜明が明けてきて

2015-10-28 07:00:00 | アーカイブDF50
多度津といえば跨線橋だが、駅から見える留置線もDF50が 一時たたずむ場所で必ずチェックしたものだ。 今もあるがもう機関車の姿はいない。 いまは電車が佇んでいる。 DF50全廃後はプレートがはずされたDF50がその 解体を待っていた場所でもあった。 多度津 DF5055、65(庫内)と記録に記載があった。 1981年8月19日

多度津に移動して

2015-10-27 07:00:00 | アーカイブDF50
高松で撮影した121レに乗車して多度津へ移動した。 撮影がメインでなかなかDFの牽引の列車に乗ることは 少なかった。ある意味こういう日の出前だから出来た 貴重な体験だった。この時代には、多分今で言う、乗り鉄 などという言葉はなかったと思う。 一つ残念なのはMAN型であったことで、スルーザー型 なら申し分なかった。よく覚えてないが、音が聞きたくて 一番先頭のの箱に乗ったような気がする。 多度津では、多度津発の伊予西条行き123レを撮影している。 この頃にはすでにDE10の試運転を兼ねた列車があり これも最後尾にDE10が連結されている。 この年の10月でDF50の客車牽引の運用は 消滅したようで、まさに消滅間近だったといえよう。 二両目にはスハフ432が連結されていた。 まだ夜が明け切らない多度津のホームで一人撮影した。 架線も無くすっきりした非電化のホーム。まさにこれが ディーゼル王国四国だった。 123レ 多度津 DF5029(高)+雑4B+DE1078(高)1981年8月19日 

高松に戻って

2015-10-26 07:00:00 | アーカイブDF50
高知からは恐らく快速764Dの高松行きに乗り高松へ 戻ったと思われる。この時代は夜行列車がまだまだ頻繁に 運転されていた時代で、お金のない少年には移動する寝床だった。 高松着が3:22で、4:25発の松山行きの121レを撮影している。 まだMAN型が運用されていた時代だった。 500番台は四国で活躍したものはほんの数両で、1両1両が貴重な 存在だった。 高松駅も先端部分はホームに屋根がなく、光が乏しく対面のホーム からの撮影が以外に少ない。 121レ DF50570(高) 高松駅 1981年8月19日

深夜の高知駅で

2015-10-25 07:00:00 | アーカイブDF50
284レの先頭に立ったのは昼間散々撮影した18号機だった。
重連かと思いきや、次位には無動の56号機がぶら下がっていた。
多度津入りするためで、多分検査入場だと思う。
何気に18号機はよく撮影した釜だった。
なぜかストロボを使って撮影している。多分高知駅の先端は
光が極端に乏しくバルブでは厳しいと思ったのだろうか。
結局この日は、18号機に始まり18号機に終わった1日だった。
昼間はあまり気がつかなかったが、何気に18号機は綺麗な
部類の釜だった。

284レ DF5018+56(無動) 高知駅 1981年8月18日

夕刻の交換

2015-10-24 07:00:00 | アーカイブDF50
とにかく限られた時間内で一番多くの列車を
撮影することが目的でもあり、多くの番号を潰せるとも
思っていた。
夕刻は伊野から高松方面に向かい貨物の交換風景を
撮影した。
偶然にも上り貨物はMAN型の572号機だった。
逆光が残念だった。
下りは55号機でこれまた初番号だった。
あまり記憶がないが土讃線でMAN型を撮影したのは
これが最初だったような気がする。
MANはスルーザーのよう焼玉エンジン音とはまったくの
別物で馬力も若干高いスペックだった。
エンジン音に記憶がまったく無いが、四国でも数両となっていた
500番台を撮影できたことのほうが嬉しかった記憶がある。

270レ DF50572(高)
275レ DF5055(高)
土佐大津 1981年8月18日

重連同士の交換のはずだったが・・・・・

2015-10-23 07:00:00 | アーカイブDF50
須崎からは貨物を従えて780レになって高知へ戻ります。 これで昨夜からのA203運用は終わりを告げます。 途中の伊野駅では、今夜からの運用に充当される781レと 交換します。しかし下り781レはなんと単機でした。 つまり今夜から明日にかけては石灰列車が運休を意味します。 一日ずれていたら大変なことでした。 18日は火曜日でした。水曜日がお休みという規則があったかは 覚えていません。 46号機は夕日を受けて一層のオレンジ色を輝かせました。 重連でないのが残念です。 以前にもご紹介したこの伊野駅、当時とほとんど変わっっていない 感じでした。 DF5018+47 780レ DF5046 781レ  ともに 伊野駅 1981年8月18日

吾桑のタブレット

2015-10-22 07:00:00 | アーカイブDF50
午前中の最後の列車の5796レは斗賀野でホキを切り離して
重単で須崎に向かいます。吾桑では、タブレットの受け渡し風景が
見られました。桜の時期には背景の桜も入れて撮影出来、のどかな山あいの
駅の風景っていう感じがよくでる感じでした。

単787レ DF5047+18 吾桑 1981年8月18日