当時高松~新居浜を1往復する191~192レという
運用があった。高松を朝でて新居浜を夕方発で戻ってるという
運用だ。新居浜では返しまで3時間半ぐらいあって
釜は完全昼寝状態だ。恐らく番号潰しもあって海岸時の次は
この列車を狙ったようだ。着いてみると案の定、ヤード片隅にて
ぽつんと置かれた釜がいた。なんの変哲もない番号だったからか
ホーム先端で撮影して終わっている。この場所は外周からでも
綺麗に撮影できる場所だっが、33号機ということもあって
早々に次なる場所に移動したのだと思う。
今もこの場所はあるようだが、駅南側には貨物ヤードが出来て
当時とはまったく様子は変わっているようだ。
DF5033(高) 新居浜 1981年8月19日
多度津を離れ今度は予讃本線に繰り出した。
土讃本線が山あいの線区に対して、予讃本線は
瀬戸内海沿いに走る路線であまり高低もないが
海をバックにというロケーションが魅力だ。
そして方程式どおりのカットを納めに海岸寺を
に降り立った。今も多分そうであるが、有名
お立ち台だ。当然今は電化されいてこのような
すっきり感はないが、右手に瀬戸内海が入る
場所だ。残念ながらこの日は晴れなくて青い
瀬戸内海の海とはならかった。
181レ DF5055(高)多度津での停車していた貨物。
ここは本来下り向きではないが。
120レ DF5059(高)
124レ DF5026(高)元お召し機の銀帯車だ。
すべて予讃本線 海岸寺~詫間 1981年8月19日
夜明けを迎え今日の撮影も本格的にスタートした。
初っ端は、271レで、24号機だった。
24号機といえば、2年前に亀山の留置線で3両繋がれた
うちの1両だった。四国へ渡り生き残っていた。
20番台は最初の番号が未撮影に終わっている。
多分、20、23、24、26、27、28、29しか
撮影できていない。
24号機の土讃本線下り271レ出発後に、予讃本線下り181レの
釜が繋がれた。55号機だ。並びとならず残念。
271レ DF5024(高) 多度津 1981年8月19日
181レ DF5055(高) 多度津 1981年8月19日
多度津といえば跨線橋だが、駅から見える留置線もDF50が
一時たたずむ場所で必ずチェックしたものだ。
今もあるがもう機関車の姿はいない。
いまは電車が佇んでいる。
DF50全廃後はプレートがはずされたDF50がその
解体を待っていた場所でもあった。
多度津 DF5055、65(庫内)と記録に記載があった。
1981年8月19日
高松で撮影した121レに乗車して多度津へ移動した。
撮影がメインでなかなかDFの牽引の列車に乗ることは
少なかった。ある意味こういう日の出前だから出来た
貴重な体験だった。この時代には、多分今で言う、乗り鉄
などという言葉はなかったと思う。
一つ残念なのはMAN型であったことで、スルーザー型
なら申し分なかった。よく覚えてないが、音が聞きたくて
一番先頭のの箱に乗ったような気がする。
多度津では、多度津発の伊予西条行き123レを撮影している。
この頃にはすでにDE10の試運転を兼ねた列車があり
これも最後尾にDE10が連結されている。
この年の10月でDF50の客車牽引の運用は
消滅したようで、まさに消滅間近だったといえよう。
二両目にはスハフ432が連結されていた。
まだ夜が明け切らない多度津のホームで一人撮影した。
架線も無くすっきりした非電化のホーム。まさにこれが
ディーゼル王国四国だった。
123レ 多度津 DF5029(高)+雑4B+DE1078(高)1981年8月19日
高知からは恐らく快速764Dの高松行きに乗り高松へ
戻ったと思われる。この時代は夜行列車がまだまだ頻繁に
運転されていた時代で、お金のない少年には移動する寝床だった。
高松着が3:22で、4:25発の松山行きの121レを撮影している。
まだMAN型が運用されていた時代だった。
500番台は四国で活躍したものはほんの数両で、1両1両が貴重な
存在だった。
高松駅も先端部分はホームに屋根がなく、光が乏しく対面のホーム
からの撮影が以外に少ない。
121レ DF50570(高) 高松駅 1981年8月19日
284レの先頭に立ったのは昼間散々撮影した18号機だった。
重連かと思いきや、次位には無動の56号機がぶら下がっていた。
多度津入りするためで、多分検査入場だと思う。
何気に18号機はよく撮影した釜だった。
なぜかストロボを使って撮影している。多分高知駅の先端は
光が極端に乏しくバルブでは厳しいと思ったのだろうか。
結局この日は、18号機に始まり18号機に終わった1日だった。
昼間はあまり気がつかなかったが、何気に18号機は綺麗な
部類の釜だった。
284レ DF5018+56(無動) 高知駅 1981年8月18日
重連かと思いきや、次位には無動の56号機がぶら下がっていた。
多度津入りするためで、多分検査入場だと思う。
何気に18号機はよく撮影した釜だった。
なぜかストロボを使って撮影している。多分高知駅の先端は
光が極端に乏しくバルブでは厳しいと思ったのだろうか。
結局この日は、18号機に始まり18号機に終わった1日だった。
昼間はあまり気がつかなかったが、何気に18号機は綺麗な
部類の釜だった。
284レ DF5018+56(無動) 高知駅 1981年8月18日
とにかく限られた時間内で一番多くの列車を
撮影することが目的でもあり、多くの番号を潰せるとも
思っていた。
夕刻は伊野から高松方面に向かい貨物の交換風景を
撮影した。
偶然にも上り貨物はMAN型の572号機だった。
逆光が残念だった。
下りは55号機でこれまた初番号だった。
あまり記憶がないが土讃線でMAN型を撮影したのは
これが最初だったような気がする。
MANはスルーザーのよう焼玉エンジン音とはまったくの
別物で馬力も若干高いスペックだった。
エンジン音に記憶がまったく無いが、四国でも数両となっていた
500番台を撮影できたことのほうが嬉しかった記憶がある。
270レ DF50572(高)
275レ DF5055(高)
土佐大津 1981年8月18日
撮影することが目的でもあり、多くの番号を潰せるとも
思っていた。
夕刻は伊野から高松方面に向かい貨物の交換風景を
撮影した。
偶然にも上り貨物はMAN型の572号機だった。
逆光が残念だった。
下りは55号機でこれまた初番号だった。
あまり記憶がないが土讃線でMAN型を撮影したのは
これが最初だったような気がする。
MANはスルーザーのよう焼玉エンジン音とはまったくの
別物で馬力も若干高いスペックだった。
エンジン音に記憶がまったく無いが、四国でも数両となっていた
500番台を撮影できたことのほうが嬉しかった記憶がある。
270レ DF50572(高)
275レ DF5055(高)
土佐大津 1981年8月18日
須崎からは貨物を従えて780レになって高知へ戻ります。
これで昨夜からのA203運用は終わりを告げます。
途中の伊野駅では、今夜からの運用に充当される781レと
交換します。しかし下り781レはなんと単機でした。
つまり今夜から明日にかけては石灰列車が運休を意味します。
一日ずれていたら大変なことでした。
18日は火曜日でした。水曜日がお休みという規則があったかは
覚えていません。
46号機は夕日を受けて一層のオレンジ色を輝かせました。
重連でないのが残念です。
以前にもご紹介したこの伊野駅、当時とほとんど変わっっていない
感じでした。
DF5018+47 780レ
DF5046 781レ
ともに 伊野駅 1981年8月18日
午前中の最後の列車の5796レは斗賀野でホキを切り離して
重単で須崎に向かいます。吾桑では、タブレットの受け渡し風景が
見られました。桜の時期には背景の桜も入れて撮影出来、のどかな山あいの
駅の風景っていう感じがよくでる感じでした。
単787レ DF5047+18 吾桑 1981年8月18日
重単で須崎に向かいます。吾桑では、タブレットの受け渡し風景が
見られました。桜の時期には背景の桜も入れて撮影出来、のどかな山あいの
駅の風景っていう感じがよくでる感じでした。
単787レ DF5047+18 吾桑 1981年8月18日