なんだか最近また明日と言いつつも明日が来ない日が多いですね。
すみません。
今は「非まじめ」のすすめの本の絵を描いてるんですが、大体5割りはおわりました。
あと半分です・・間に合うでしょうか・・・・
では、今日の出来事はあまりにもあたりさわりのない出来事だったので、
早速「『非まじめ』のすすめ」感想文を大学に送る前に乗せちゃいます!
作文用紙9枚なので長いです・・・読む気があれば読んで感想もいただきたいですね。
非まじめの定義 (名前)
最初この本を渡されたとき「つまらなさそうな本だ。」と思ったが実際読んで見ると案外面白く、すらすらと没頭して読むことができたので、自分でも驚いた。
なぜこの本をそんなに楽しんで読めたかというと「非まじめ」な性格が実は私の理想の性格であることに気づいたからである。
「非まじめ」とはぐうたらな「不まじめ」でもなく、頭が固い「まじめ」でもない。「非まじめ」とは、言わばセサミ・ストリート。「遊び」と「学び」とが融合し、思わず楽しく勉強できてしまうようなことだ。
この言葉は芸術作品にも言えることだ。「不まじめ」に描く作品はどう見てへたくそで、心がぜんぜん入っていない。「まじめ」な作品は、見る人にいい作品だと思わせたいの一点張りで、完成した作品はなんだか堅苦しく見える。
では「非まじめ」な作品はどうだろうか、自分の思った事をそのまま好き勝手作品にぶちまけ、見ているこっちもすがすがしくなる。そんなことをこの本は私に教えてくれたのだ。
そしてこの本を読むことで私は「まじめ」な人間でも「不まじめ」な人間でもなく、実は「非まじめ」に近い人間だとわかった。
例えば、この本の中に「地下鉄にはなぜ窓があるのか?」という疑問があった。実は私もこの疑問は中学のときに思い、父に聞いてみた。
「そんなの決まってるだろ、駅へついたとき窓がないとわからないからだ。お前そんなこともわからなかったのか?」
「いや、私は外の電車にも窓があったので、ただ、そのままそれを地下に置いたのかと思っただけだ」
そういうと思いっきり笑われてしまった。
しかし、この本では私の出した答えはいい答えと書いてあったのである。正直うれしくてこの本を持って父に見せ付けてやった。
他にも、「物を見るためには我々の眼球がピリピリ動き、首が動くからだ」と、書いてある。
実際眼球の振動を止めると何も見えなくなり、ただ平面的な光の世界になってしまう。
しかし、それを知るのに、何か気難しい本を読んだり、誰か詳しい人に聞いたりなどはしていない。自分で体験することによって立証したのだ。
ただ瞬きをせず、まっすぐ一点をずっと見つめていると、最後にはただ何もない真っ白な世界が見えた。
しかしその世界は瞬きを一度してしまえば消えてしまい、元の世界へと戻ってくる。
これをしたのは高校二年の体育の授業中である。体調が悪くて見学席でなんとなく運動をしている人たちを見ているとふと、友人の言葉が頭に浮かんだ。
瞬きしないと景色が真っ白になるらしい。私も試してみたが、途中やはり瞬きをして、ちょっと白くなっただけで完全に真っ白とまではいかなかった。
それで私は他人の運動しているところを見ているのも退屈したので、この話が本当かどうか実践してみることにした。
遠くに見える一本の木をずっと見る。でも案外うまくいかず、途中で瞬きをしてしまったり、長々と目を開けていたせいで眼球が乾き、涙が出てきたりした。でも私はめげずにずっとその一本の木を体も動かさず見続けるとついにスッと全体が真っ白になったのだ。
そこで瞬きをしないと景色が白くなるということがわかったが、この本では「瞬き」ではなく「眼球の振動」と書いてある。
これは私が思ったことなのだが、瞬きをすれば必ずまぶたが瞳に触れてしまう。それで眼球が振動するのではないか、実は瞬きとは目の乾燥を防ぐためだけではなく、目に振動を送るためにも必要だったのではないかと思った。そうなると瞬きには他にもまだたくさんの意味が秘められているのかもしれない。
本当にこの「『非まじめ』のすすめ」という本は共感できてとても楽しいのだが、時おり耳が痛くなる部分もやはりあった。
「同じ事を繰り返す必要がある」という言葉だ。
はっきりいって私は同じことを何回も聞くのは好きではない。たまに、ぼんやりとして聞き漏らしてしまった場合は別だが、ちゃんと聞いているときに何回も繰り返されると嫌気がさしてしまう。
でもそれは自分がわかったつもりになっていただけだという事に気づかされた。
母が重要だからと最初に言った後、大切なことを一度しかいわなかったことがある。私もその時わかった気持ちでいたが、三日もたつとその言葉をきれいさっぱり忘れてしまい、後で散々怒られた。
実際一度聞けば自分ではわかっていると思っていてもそれはただの思い込みであって何回も聞かないと本当に頭の中には入ってこないのである。
私はこの本を通して気づかされ、正直自分の考えの愚かさにあきれはててしまった。
その他にも、この本には納得するところがたくさんある。「うまくいったら用心せよ」「善は悪にひっくり返る可能性をもっている」「悪がきても善になし得ると思えば、そこに救いがある」という言葉だ。私はその部分を読んで、そういうことかと思った。
たしかに、私がとある景品に応募したとき、当選したという連絡が入ってとても喜んだのだが、実はそれは人違いでの連絡であったことを知ったときは本当にショックを受けてしまった事がある。
反対に、とある人からかなり批判的なメールが送られてきたとき、私はその人に対して批判で返すのではなく、やさしく話を聞き、ちゃんとした言葉で返すと、相手から送られてくるとげとげしいメールは減り、いつの間にか和やかな関係を築きあげたのも事実だ。
それに、この本の中には「美術」「音楽」「書道」「科学」「物理」「古典」「英語」に関する非まじめさも見つけ出している。
よく出てくる人は「ハイドン」という音楽家である。事実彼は非常に非まじめな人だ。「さよなら交響曲」を作り出した理由など、なんて非まじめな人なんだと私も思った。ぜひ、今度オーケストラのためにハイドンが作曲したあの曲があるときは鑑賞したいものだ。
私がもっとも愛する画家「ダリ」の作品も実に非まじめな絵といえる。一つ一つの絵を描いた理由はさまざまだが、よく出てくるのは「夢で見た」ということだ。夢の世界に広がるあの矛盾した世界をダリはたった一枚の布にすべて収めてしまう。他にも身近にあるものをとてもユニークに演出して、この世に存在し得ないものをあたかもそこに存在するかのごとくリアルな作品に仕上げるのだ。
しかし、「ありえない」と思った部分もある。
「制限速度をこえるとハンドルのまん中のシャフトからピストルの弾丸がとび出して脳天をぶち抜くように作っておけば、誰も絶対にスピード違反をしない…。」
確かに人は死にたくないからこんなことをすればスピード違反をする人もいなくなるだろう。
だが「非まじめ」にもほどある、というよりもこれは「不まじめ」の部類に入るのではないか。人の生死をこうもあっさり決めてしまっては本当に恐ろしことになる。冗談で話していたのかも知れないが、私はこの話には賛同しかねる。
それにしてもこの本は矛盾したこともさらりとためらいなく書いているので驚きだ。
本を書いている本人が「本はあまり読まないほうがいい」といっているのだ。
これは「私の本も読む必要は無い」ともとれるが「この本を読んだ後、あまり他の本は読む必要が無い」ともとれる。まったく不思議な感情をこの作者は与えてくれる。
最後に「非まじめの定義」についてもう少しだけ考察した。
世の中には、しなくてはならない事が必ず出てくる。その時、「不まじめ」な人は「めんどくさい」と思い、投げ出してしまう。「まじめ」な人は「これにはこんな理由がある、だからこれは絶対しなくてはならないのだ」と思い、いやなことでもがんばる。一方「非まじめ」な人は「こうすればやりやすいし、自分も楽しくできる」とどうにかして自分がやりたくなる方法を見つけ出し、それを実行するのだ。
「『非まじめ』のすすめ」は私にこのような新しい道を示してくれた本と言えるだろう。
いじょうです。
ではまた明日♪絶対明日は絵を載せます。
何の絵かは未定です・・・・
(今日の天気)
のち