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因幡山名氏

2015-12-10 | 但馬の中世史

https://blog.goo.ne.jp/rina-go/e/eab66d789602de722f1a15c19b4eb80d 寺山城


1479年(文明11)春、因幡一国をほぼ治めるまでに強大になってた私部城・毛利貞元は、若桜鬼ヶ城・矢部定利ら国人衆を束ね、因幡守護・山名豊時に対して反乱を起こした。(第1次毛利次郎の乱)
蜂起から半年程度は優位に戦いを進めてたけど。
赤松政則が将軍・足利義尚に出仕を止められたチャンスに、惣領・山名政豊が但馬へ下国。
鎮圧に向かい、翌年(文明12)春頃には終息した。
因幡毛利氏は永享年間から幕府奉公衆を代々務めた家柄で、貞元も奉公衆を務めてたんで助命され。
1487年(長享1)12月、蔭涼軒主・亀泉集証の働きかけで正式赦免。
されると翌年(長享2)、赤松氏支援の下、新守護・山名政実を擁してまた反乱を起こす。(第2次毛利次郎の乱)
も、戦況は豊時の優勢で推移。
9/5、矢部氏一族の北川氏の離反もあり、徳丸河原合戦で敗北。
11月には豊時の軍勢に攻め込まれ、毛利貞元は私部城で自刃した。
若狭鬼ヶ城に逃れた山名政実、矢部定利も包囲されて自刃。

http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20160819 布施天神山城
子供がないまま急死した豊治の跡を継いだ誠通。
家臣に反対する勢力があったんで、総領・誠豊に支援してくれたら旗下に属すと頼んで可能となった。
が、信頼関係は瓦解し、1526年(大永6)には但馬から攻め入られ、上野坂表で戦火を交えるに至る。
1528年(大永8)2/14、誠豊死去。
後継の祐豊は対立を静めてたけど、1541年(天文10)6月に再開。
但馬から攻め入られ、岩井表で合戦。
1542年(天文11)頃、尼子晴久と同盟を結び。
1545年(天文14)、出城として鳥取城&新山城を築く。
1548年(天文17)、八上口に出兵して城内が手薄の時、隙を窺ってた但馬山名氏が攻め寄せ、誠通は討死。(申の年崩れ)
後継がBabyちゃんしかなかったため、総領・祐豊は弟・豊定を城主にし、田公豊高を添えた。
宗鏡寺の住職だった弟を還俗させて三上豊範と名乗らせ、道竹城に入れる。

武田高信が安芸毛利氏や三上豊範と結んだりして、因幡一帯に勢力を拡げだす。
1563年(永禄6)4月、因幡守護・山名豊数は鳥取城を攻めたけど、お仕置き失敗。(湯所合戦)
1564年(永禄7)、高信は誠通の遺児を殺す。
9/1、総領・祐豊は徳吉城に入り鳥取城を攻めるも、決定打を与えられず。
1569年(永禄12)6月、祐豊の協力を得てお家再興を目指す尼子勝久&山中幸盛は出雲へ。
大友氏と挟撃して毛利の属城を次々と陥れた。
8月、毛利元就は信長に但馬攻めを依頼。
出雲からも尼子氏を追い出す。
若狭鬼ヶ城・矢部氏は与して、11月、鳥取城・武田高信を攻撃した。
1571年(元亀2)、武田高信は芦屋城・塩冶高清を攻めたけど大敗。
1572年(元亀3)、山名豊国を助けた山中鹿之介との戦いでも大敗し、鵯尾城へ退いた。
1573年(天正1)10月、尼子氏に協力した山名氏をボコるため、毛利氏は因幡に侵攻。
早々に降伏したんで12月に帰宅すると、陰で信長の支援を受ける尼子氏が因幡入りし大半を攻略。
尼子氏に大きな顔をされるのが嫌で、山名豊国は毛利方に寝返る。
1575年(天正3)9/2、毛利氏は鳥取城に入り、翌日から尼子勢が籠城する私部城&若狭鬼ヶ城に攻めかかった。
翌年(天正4)2月、宮吉城・田公新右衛門を落とされ。
5月初め頃、尼子勝久は京都へ逃亡。
因幡国は毛利氏の勢力圏に入った。

播磨を平定した秀吉は、因幡へ。
1580年(天正8)6/9、羽柴秀長が鹿野城を1日で攻略し、毛利輝元が取ってた人質を解放。
鳥取城を包囲してた秀吉が、山名豊国に娘の命と引き換えに降伏を迫り、7月に開城。
したけど、家臣の森下道誉&中村春続は反抗し、豊国を追い出して毛利氏に支援を要請。
派遣された吉川経家は1581年(天正9)3/18に入城するとすぐ、丸山城を築かせて兵糧攻め対策を施す。
秀吉は事前に米を買占め&百姓たちを襲って城に逃げ込ませ食い扶持を増やしてから、2回戦に出陣。
7/12、丸山城を包囲。
鳥取城を囲む12kmの包囲網を築いた。
食糧は早々に尽き、10/25、吉川経家の切腹で降伏となった。