松ひとり言

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宮本輝の《二十歳の火影》と流行歌【かりそめの恋】

2014年07月31日 11時47分49秒 | 日記

輝さんの”二十歳の火影”を最近になってブックオフで手に入れた・・・・・

  

私は宮本輝文庫なるものを勝手に自宅に設けている、もちろん単行本で

あと三冊ほどが抜けている中の一冊がこの”二十歳の火影”だった

輝さんと富山は切っても切れない・・・じめっとした中にほのかな甘さがある

この本の中にある、『私と富山』を読んでいて、・・・・

ふと、母と1年近く過ごした伏見での思い出のごく一部が、鮮明に浮かんでくる

母は、平成23年の1月の3日に91才で天寿を全う致しました、・・・

その顔はピンク色で微笑んでいるではありませんか、近所の学会員さんが

「私もこんな死に顔で逝きたいもんや」と言われたぐらいの大往生でした・・・・・

そんな母と6歳の私が伏見へ引越したのが昭和24年やったと記憶しています

その時母は、ある社長さんのお世話になっておりました、その人の妹さんの家に

住む事になったのでした、・・・・・細かい事は何も覚えておりませんが・・・その日

伏見に着いたときの事、・・・商店街から”かりそめの恋”が聞こえてきたのでした

もちろん6歳の私が、口ずさんだわけありませんが何故か不思議に覚えているのです

~夜の銀座は七色ネオン、誰にあげよか唇を、かりそめの恋、ああ虹の恋・・・・・~

なぜこの歌が、耳から離れないのか・・・・わかりません・・・

今でも、懐メロで聞くとあの商店街が・・・・・(歌手は三条町子だったかな)・・・

なのにその商店街が伏見の何処にあったかもわかりません、

それから何ヶ月過ぎたのかもわかりませんが、昭和25年の4月に伏見の板橋小学校に

入学するのです、でも二学期は東山の六原小学校に転校しています・・・・・

もう一つ鮮明に覚えているのが、伏見から移った東山松原の家に祖母が

私を引き取りに来た事です、「いやや!行かへん・・・」と言って泣いた事です

そんなわけで、三学期からは、祖母の北区の鳳徳小学校に転校しました

私が結婚するまで北区紫野の祖母と祖母亡き後は伯母(母の姉)の世話に・・・

私の思い出は殆んどこの紫野でのことですが、伏見の思い出だけが今も・・・

”かりそめの恋”と共に母と二人だけの、たった一つの甘酸っぱい思い出として

消えることなく残っております・・・・・私が宮本輝の大フアンなのは、

言葉の素晴らしさはもちろんの事、何故か全編に富山の風が色濃く漂っていて

妙に落ち着く感じが好きだからかも知れない・・・今、≪30光年の星たち≫を二回読み

三回目に入る前に、【二十歳の火影】をゆっくりと読んでいるところです

 

 

 

 

    


チェロ・カルテット≪クワトロ・チェリ≫のコンサートに行って!

2014年07月30日 11時26分00秒 | 日記

ドイツのチェロ・カルテット集団、≪クワトロ・チェリ≫日本初来日とか

もちろん私も初めて聞いたわけですが、パンフレットを見ていると凄い4人組

演奏ももちろん素晴らしかったけど、パフォーマンスが観客の心をつかんだ

4人其々が相当なチェリストであり、チームワークも結成17年の重厚さがあった 

   

プログラムも色からして、何か重厚さを感じませんか裏の(右側)下に

スケジュールが書いてますが、何とわずか6か所なんです、モッタイナイ

しかも西日本は京都だけなんです、クワトロさんのスケジュールの都合

   

演奏の内容も、クラシックが少なめで映画音楽が中心のコンサートでした

最初は、バッハの『G線上のアリア』から自然に入っていきましたが・・・

次に(スパイ大作戦)のテーマ、今は(ミッション:インポッシブル)の題で・・・・

そして、次なんです・・・二人がソデに戻って行ったかと思うと、な・なんと二人が

白い棺おけを掲げて出て来たんです、よく見たら棺おけでなく”白いチェロケース”

おもむろに、舞台中央に置き、真っ赤なバラを捧げた時に、次の曲が分かりました

【ゴッドファーザー愛のテーマ】でした、続いて今度は、指パッチンをするように云うのです、・・・

中には手拍子の人も・・・すると手拍子は”ダメ”と云います・・・指だけでないと・・・

またまた次の曲分かりました・・やはり・・・・・【ピンクパンサーのテーマ】でした、

このように一つ一つのパフォーマンスが洒落ていて風呂上り・・・(アカ抜けている)

続く演奏が極上ときているので、本当に充実したひと時でした、

今夜は東京の芸術劇場へと舞台が移ります、そして千葉県市原市と愛知県で終わり

何度も云いますが、もっともっと民音フアンに聞いてもらいたい

この四人組、2004年には初のアメリカツアーでは、全米各都市で150回以上も

熱演を披露しているのです・・・・・それなのに日本は6回だけ・・・・・また来てね~


≪第15回北前船寄港地フォーラム in 宮津・京都≫に参加できて

2014年07月28日 12時30分30秒 | 日記

このフォーラム、昨年の14回までは全て東北での開催だったようだ・・・・今回初めて京都へ

《昨年の秋田で開催されたフォーラムのポスター・・・今回まで知りませんでして、参加出来て感激でした》

《こちらが!・・・・・今回15回目にして始めての京都開催のポスターです・・・北前船!・・江戸時代へタイムスリップ

”北前船”とは・・・・・江戸時代から明治時代にかけて活躍した「買積み廻船」の名称

「買積み廻船」は商品を預かって運送するのではなく、船主自体が商品を買い

それを売買する事で利益を上げる廻船の事を言う、当初は近江商人が主導権を

握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる

   

北前船の一年一航海を見てみよう

 * 下り(対馬海流に対して順流)

    ・ 3月下旬頃、大阪を出帆

    ・ 4~5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上

    ・ 5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着

 * 上り(対馬海流に対して逆流)

    ・7月下旬頃、蝦夷が島を出帆

    ・8~10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下

    ・11月上旬頃、大阪に到着

北前船で活躍した主な船主に

大和田荘七、銭屋五兵衛、右近権左衛門、高田屋嘉兵衛、久保彦左衛門・・・・・

中でも銭屋五兵衛や高田屋嘉兵衛は有名である

さて・・・・・北前船については、これくらいにして、東映太秦映画村に・・・・・

《昨日のブログにも登場頂きました東映の岡田会長さんの挨拶から進行して行きまして、「殺陣田村」に移り》

 

《殺陣田村の勢ぞろいです・・・福本清三さんは四人目です、もう一度下の写真を大きくして見て下さい》

   

 

《レセプションが終わって中村座の外に出ると岡田会長さんと・・池坊保子さん(傘の人)公明党の議員さんの時、よくお逢いした》

では・・・・・折角なので映画村を見ていただきましょう

 

《映画村の名物の一つ、・・・日本橋です!よくテレビの時代物に出てくる橋です、向こうは階段にになってました、上から振り返ると》

 

          《橋の上から振り返ると景色が変わります・・・・・その橋を元に戻ると・・・お尋ね者の張り紙がありました

この後しばらく歩きましょう・・・・・

 

《四本共、みんな見てますわCSやBSチャンネルで毎日どれか再放送で、こちら銭形平次親分の玄関です、橋蔵さんが出てきそう》

 

《吉原の雰囲気、バッチリでした、ちょっと小型でしたけど・・・・・右の写真が大木戸?なんでしょうか・・・・エエ雰囲気やね~》

 

《郭の傍にそば屋が出てはりました・・・・もちろん二八蕎麦どす、・・・水車小屋までありました、懐かしい風景ですね~・・・》

 

《新撰組の屯所ですな!ここへ来ると時代劇のセット何でもある、こちらは寺田屋さんですが、伏見のより本物っぽいのは何故》

 

《この場所もよく撮影に使われるな~と見ていたら水面が波立って・・・アレ!・・・恐竜が出て来ました、下の写真が出入りの順番です》

         

 

《中村座も夕暮れ近くなってちょっと淋しおすなぁ~そんな事思ってたら、目の前を”べっぴんさんが、スターのたまごかな~》

  

《帰る少し前の事でした、大道芸の王様・・・≪がまの油売り≫が始まりました、このように目の前で見るの初めてでした、ラッキー

 

《約4時間、映画村の人になっていました、もう夕暮れ時です、天使?に見送られ東映城を後にして帰途につきました》

 

      福本清三さんの初主役≪太秦ライムライト≫をみんなで見に行きましょう~宜しくね

 


 

 

 

 


五万回斬られた男・・・福本清三さん・・・映画村で見てきた

2014年07月27日 20時12分05秒 | 日記

≪第15回北前船寄港地フォーラムin 宮津・京都≫と言うイベントが!・・・

東映太秦映画村の中にある中村座にて歓迎レセプションとして行われた

前日に招待券を頂いて、(何の関わりもありませんが)行って来ました

   

《映画村の中にある”中村座”で【殺陣田村】等ありましたが、挨拶に東映の岡田会長が登壇されビックリでした》

そして【殺陣田村】にタイトルの五万回斬られた男の異名を持つ”福本清三”さん登場

    

《勢ぞろいの時は明るかったので鮮明に福本さんが映っていました・・・・こちらは、福本さんの得意ポーズ『えび反り』のシルエット》

でもよく映ってくれていました、今の私の腕とカメラではこれが限界かもね

さて、北前船とは・・・・・これは次に映画村と一緒に・・・・・

 

 

 

 

 

 


蝉の国籍は・・・・・?中国かも…”鳴き声で”???

2014年07月25日 11時01分14秒 | 日記

     ~ 閑さや岩にしみ入る蝉の声 ~

松尾芭蕉が出羽の国(山形県立石寺(りっしゃくじ)で詠んだのが元禄2年5月27日とある

(1689年7月13日)もう325年も前の事になる、『奥の細道』の中でも、好きな句である

関連を調べていて面白い≪論争≫のコーナーがあったので紹介しておこう

1926年、歌人の斉藤茂吉はこの句に出てくる蝉は「アブラゼミ」と断定し雑誌『改造』に発表

これが切っ掛けで、蝉の種類について文学論争が起こったそうなのだ

翌年、岩波書店の岩波茂雄は、この件で議論すべく、神田の小料理屋で一席を設ける

そこには、茂吉をはじめ、阿倍能成、小宮豊隆、中勘助、等、名のある文人を集めた

中でも小宮の「閑さ、岩にしみ入る、・・・・・の語にアブラゼミは合わない」こと、

「この時期にはまだアブラゼミは鳴いていない」事を理由にニイニイゼミであると主張し

大きく対立したが決着がつかず、持ち越しとなったが、その後茂吉は実地調査などの結果

1932年6月、誤りを認め、芭蕉の詠んだ蝉はニイニイゼミであったと結論付けた

  

 

《イメージ写真です・・・・・山形まで行ってまへん、立石寺と芭蕉像と今回の主役の蝉です》

さて蝉の声論争でしたが、・・・・・蝉の国籍はと言うタイトルでしたね・・・・・

ちょっと、恥ずかしいのですが、私も斉藤茂吉先生に負けない、蝉の声理論です

色んな鳴き声がありますが、一番オーソドックスなのが「ミーン、ミーン、ミーン」

この鳴き声を、漢字で鳴いてもらうと「眠、眠、眠」私には眠々の餃子に聞こえる

もう一つは・・・「シャー、シャー」の声が「シェ~イ、シェ~イ、シェ~イ」に聞こえませんか

自分の声が騒音である事を申し訳なく思い、「シェイシェイ、シェイシェイ」と詫びている声です

以上の蝉の声から、国籍は中国となりましたが?・・・茂吉先生の時のように神田の小料理屋・・・

いやいや吾が輩は京都であるので、祇園の料亭にで・・・・・・「そんな事・・あるかいな~

大変、失礼を致しました・・・・・   最後に我が吟道松流の教本から「蝉」を

 

私が作譜した中国の有名な書道家、虞世南(ぐせいなん)の「蝉」です