松ひとり言

谷藤松で御座います。
末永くお付き合いの程よろしくお願い致します。

落柿舎から保津峡まで・・・このシリーズいよいよ最終回

2014年05月30日 23時21分23秒 | 日記

  

《落柿舎の全景は木々に隠れて無理、これネットから・入り口を入ると(初めて中へ入ります)・門を潜ると料金所!でも200円でした・・ラッキー》

    

《落柿舎の入場券とパンフレット(クリックで大きくね)です・・・なかなか雰囲気のあるデザインですね~》

今回右手にカメラ、左手に1000円~で家を出たので、

あと300円しかありません(天龍寺500円・ここ落柿舎が200円)

落柿舎と違って落伍者やがな~(言ってる場合か

さてここで・・・落柿舎に関する去来と芭蕉の簡単な年譜をどうぞ!

寛永21年(1644)  松尾芭蕉、伊賀上野に生まれる

慶安 4年(1651)  向井去来、長崎に生まれる

萬冶 元年(1658)  向井家、京都に移り住む

貞亨 2年(1685)  去来、この頃嵯峨野に別宅を構える

元禄 2年(1689)  芭蕉、≪奥の細道≫の旅に出る。

              去来、秋頃からこの庵を「落柿舎」と称す

              12月24日芭蕉は去来と落柿舎で鉢叩きを聞く

元禄 4年(1691)  芭蕉、4月18日から5月4日まで再度”落柿舎”に滞在

              『嵯峨日記』を草稿する

元禄 7年(1694)  芭蕉、閏5月22日”落柿舎”を訪れる。

              「落柿舎制札」はこの頃に書かれた。

     

《1694年と言う年は去来の落柿舎にとっても、師匠の芭蕉にとっても忘れられない年なんですね、が「落柿舎制札」です

              芭蕉、9月郷里を出立し大阪へ向かう・・・9月10日容態悪化

              10月12日午後、病死・・・享年51歳、14日大津膳所の義仲寺境内に埋葬

元禄12年(1699)  去来、3月『旅寝論』を書き終える

元禄15年(1702)  春頃、芭蕉俳諧の真髄を伝える『去来抄』の草稿に着手

宝永 元年(1704)  去来、9月10日朝、聖護院近くの寓居にて病没・・・享年54歳

              真如堂にて葬儀、同寺内の向井家墓地に葬られる。

改めて二人の年譜を見てみると、共通のキーワードは9月10日と言う事になる

年代的には全く違うのだけど、詩吟を志している者からしたら、何の躊躇もなく

菅原道真の「九月十日」の詩が浮かんでくる、800年も以前の大宰府での事ですが

もう少し、”落柿舎”の写真を見て頂こう・・・・・玄関を入って、裏に「次庵」がある

   

《玄関入った「落柿舎制札」やその奥に「落柿舎」の文字のある本庵(右が玄関)・・・その裏にあるのが、「次庵」(句会席)とある、》

  

《いずれも、門を入って正面にある、”本庵”である、蓑笠が印象的で、ふと!太田道潅が蓑を借りに農家の戸を叩く音が聞こえたような

そしてこの一角の裏の道を挟んだ所に”去来”の遺髪を収めたと言う墓があります

    

 《ここに!”去来”が眠っているのです・・・・・私も今まで落柿舎について何んにも知りませんでした、ブログのおかげで知ることが出来感謝です》

   

  《奥嵯峨めぐりのコースに入っている、二尊院です・・・名所には人力車が必ず並んでいます・・・嵯峨野路には人力車がよく似合う》

  

   《新撰組と舞妓さんが記念写真に収まって居ました、・・・野宮神社の前を通り過ぎて少し行くと、天龍寺の正面に出てきました》

そして渡月橋のバス停から帰ろうと!バスの時刻表を見たら20分待ち!同じ待つなら・・・・

保津峡の奥へまだ行ったことないので・・・行って来ようと、立ち上がり・・ベンベン(大層な~)

  

 《渡月橋を南へ渡るとバス停があります、小橋を渡りこの川の上流へ、いざ出発~少し行くと岩田山のモンキーパークの入り口があります》

  

《京都一の絶景の立て看板、千光寺・・て、尾道に有名なのが・・川の向かい側の景色・・最初に行った「雨中嵐山」の詩碑は修学旅行生の上に》

  

    《少しづつ景色が変わり、岩が出てきました・・・この向うに渡月橋がある・・・更に進むとこんな岩場が出てきて・・岩場に座り込む》

     

《岩場から舟に乗って向う岸に渡る人達、この上流の亀岡からの川下りの舟、そしてあの看板の絶景ポイントはこの上、でも400円(100円不足)

  

《重い足取りで元のバス停へ、渡月橋が見えてきた!昨年の9月に水浸しになった「花筏」さん店が少し低く・・バスが来ました・・お疲れさま~》

4回に亘りお付き合い下さり、有難う御座いました・・・今度は是非嵯峨野へいらっして

ご自分の心眼でご鑑賞下さいますよう・・・・・お待ち致しております

 

 

 

 


天竜寺から落柿舎へ新緑の奥嵯峨めぐり・・・第3弾

2014年05月30日 12時28分24秒 | 日記

  

《竹林を漸く抜けかけた所に天竜寺の裏門?(門はなかった!)の入り口があります、庭園参拝料500円が要りまっせ  いざ入園》

 

《天竜寺は建物の中の見学と庭園の見学と料金は別々で各々”500円なり”で御座いますのでお気を付け下さいませ!入園券とパンフレットです

では・・・お待たせ致しました天竜寺の庭園をお楽しみ下さいませ!

  

 《まずは!こいさんのラブコールから?フランク永井か!」・・・すんまへん お古い話で!この広い池に鯉がいっぱい泳いでました》

    

《残念ながら私の力不足と、カメラの力不足でこの広い庭園全体が写せませんゴメンナサイ・・・・以後ぶつ切りでしか・・この廊下の右が庭園》

  

    《二つ前の廊下が左の建物です・・・・・池の向こうの建物の前から写したのが・・・・上の写真です》

  

               《上の建物から前方の【曹源池】と名付けられた池を部分、部分で写しました》

     

ここでちょっと!天龍寺の歴史を調べてみましたので≪最初のパンフレットを大きくしてね≫

なんと 後醍醐天皇の菩提を弔う為に造ったお寺なんですって!詩吟の世界では芳野と

後醍醐天皇を避けては通れませんし、この話をすると大変長くなります楠正成と太平記!

いやいや詳しくは又に致します・・・・・幕末の王政復古の500年以上前にこの後醍醐天皇が

王政を企てるが失敗して、隠岐の島へ、正成の活躍で脱出して・・結局三種の神器(天皇の象徴)

も持ち出て芳野へ逃れて、朝廷が京都と芳野とに分かれる・・・世に言う南北朝時代が50数年続くのだが

後醍醐天皇は芳野へ逃れわずか2年で亡くなる、・・・・・その菩提を弔う為に足利尊氏が

夢窓国師を開山として建立したとありますが、しかし不思議に思う事は尊氏と後醍醐とは云わば

北と南に分かれた者同士でっせ、そんな後醍醐天皇を弔って尊氏がこんなでっかい寺を建立?

私のような素人には訳分かりませんわ!まあ兎に角1994年には世界遺産に登録されてます

天龍寺にもう一つ、珍しい物がありました、とんでもないぐらい大きな”硯”ですね・・・ではどうぞ

  

《硯の傍に”紫蘭”が可憐な紫の花を咲かせていました・・・これが硯なんですが、説明をよく読んで、なぜ天龍寺にこの様な物が在るのかを!

では次の予定地に足をはこぶ事と致しましょう、五月晴れの嵯峨野路を落柿舎に向けて

  

《まだまだ!竹林が続く中を目的地へ向かって歩いていると・・・トロッコ列車の嵐山駅の前に出てきました、年間100万人って凄い

  《途中に御髪神社の案内板がありましたけど、先を急ぎますのでそれにしてもエエ天気ですわ・・・あれれ・・・瓢箪がいっぱい吊ってある

  

《麦畑?の向うに3・4人の人が(実は修学旅行の学生たちでした)居るところに≪落柿舎≫があります、溝の蓋にはもみじの細工が

   

      

 ≪落柿舎≫の写真を見ていただきながら、今回は此処まででお座りまする

向井去来と芭蕉についての詳しい事は明日の土曜日に載せて日曜日にゆっくり見てもらいます

次回は渡月橋とその周辺の最終回のつもりです・・・

 

 

 

 

 


京都嵐山・渡月橋とその周辺『第二弾』竹林から天竜寺

2014年05月29日 09時59分57秒 | 日記

周恩来の≪雨中嵐山≫の詩碑に別れを告げて、目指すは【落柿舎】・・・・・

そこまでに竹林の小道を通り、大河内山荘の前を通り、まずは天竜寺へ

 

《何か淋しそうに見えませんか?・・・前回(昨夜ですが・・)中国の事嫌いになりそうと言ったからかな~又来ます!次は左の矢印へGO

角倉了以翁像の方向へ進みます、やはり早く来たのが正解でした・・・

   

《この道の向うに在るらしいのですが、初めて見るので・・これが角倉了以(すみのくらりょうい)の銅像です、業績はクリックで!少し読みずらい》

前々回の三条大橋とその周辺で紹介した高瀬川は、この角倉了以が私財を投げ売って完成させたのです

そう言えばず~と以前に母の知り合いで角倉さんという人がおられた、嵐山の近くに住んでおられて

この角倉了以の子孫であると!母から聞いた事があります、それで私も以前からこの方を身近に感じて居るのかも

さて次に行こうと歩き出したら、隣にもう一つ銅像がありましたのでパチリ

   

《津崎村岡局の銅像とあります・・・・・初めて目にする名前ですので、隣の案内板を読みました!例によって!興味ある方はクリックでどうぞ

津崎村岡局について少し調べてみました、・・・・・見出しには幕末の女性勤王家とあります

地元京都新聞からの切抜きです、・・・・・彼女は1786年に大覚寺宮の家来津崎左京の娘

名前は矩子(のりこ)、12歳で左大臣近衛忠熙に侍女として仕える、後に老女の地位に就き

村岡局と名乗った、近衛忠熙と勤王の志士達の橋渡し役となり、西郷隆盛の相談を受けた事も

しかし安政の大獄により江戸で投獄されているが、その後 北嵯峨にある直指庵(じきしあん)に

隠居して地元住民の教育に尽力して88歳の高齢で亡くなっている、この銅像1928年に

建てられているが、大勢の観光客が散策するが気づく人は少ないらしい

 

《次に大河内山荘を後にして、・・・久し振りなので頂上の展望台に(左側)向かいました・・・・・大河内さん!ちょっと待っててね~》

160メートルとの表示やけど、倍以上に感じたけど頑張って登りきりました

  

    《この坂を登りながら、ふと徳川家康の遺訓を思い出しました・・・・折角やし全文を調べましたのでどうぞ

  人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず

  不自由を 常と思えば 不足なし

  心に望み起こらば 困窮したる時を思い出すべし

  堪忍は無事長久の基

  怒りを敵と思え

  勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る

  己を責めて 人を責むるな

  及ばざるは 過ぎたるに 勝れり

 

      《どうですか・・・頂上の展望は!無理して上がってきた気持ち分かったでしょう》

お待たせ致しました・・・・・いよいよ竹林に向かいましょう

 

 《亀山公園をあとにして!竹林の道・・・奥嵯峨めぐりの中でも最も人気のある場所に入って来ました、左の道を少し行くと大河内山荘の入口》

  

《五十代までの人には、大河内傳次郎と言っても『誰やね!』と言う言葉が返ってくるだけやけど銀幕の大スターやった人の屋敷です》

    

《便利な世の中に相成りました~ネットですぐに出て来ます、大河内傳次郎の在りし日のスチール写真です、最初のが当たり役の丹下左膳》

大河内山荘について調べてみましたので・・・・・ 大河内傳次郎が34歳にとき小倉山に

別荘として造営したのが回遊式庭園の大河内山荘で、何と映画出演料の大半を使い

64歳で亡くなるまでの30年の歳月をかけて、こつこつと作り上げたのだそうである。

約2万平方メートルの当時荒地であった土地を見事な庭園にし、国の文化財にも指定されている

ごめんなさい中には入ってないので・・・これまたネットからその一部を 

   

 《30年ぐらい前に入った事があるのですが、全く覚えておりません、入山料は千円ですがお抹茶と絵葉書が付いているので、高くないとか》

今回はココまでに致します・・・・・次回は天竜寺と落柿舎を予定しています・・・・・

それでは!竹林を眺めて頂きながらのお別れです・・・・・

  

 

  

この竹林の小道の終わりぐらいに天竜寺の裏門からの入り口があります・・・・・では次回まで

 

 

 

 

 

 

 


三条大橋から何故か?・・・嵐山の渡月橋に来ました

2014年05月27日 11時33分19秒 | 日記

前回の約束では四条大橋の筈でしたが!周恩来の「雨中嵐山」の詩碑を載せたくて

今日5月28日晴天の嵐山へ観光客の来ない時間にと・・・・・朝の8時過ぎに着きました

渡月橋を渡り、雨中嵐山の詩碑、亀山公園、天竜寺、落柿舎、途中通過した、二尊院

野々宮神社、保津川の少し上流の千鳥が淵の岩のある風景、と約4時間近くカメラ片手に

まずは!渡月橋とその周辺の第一回目は≪亀山公園とその周辺≫です、では渡月橋から

  

《渡月橋の南側、前方の亀の甲羅に似た山(亀山)では橋を渡ります、北に向かって・・渡りきると(大堰川)の文字オオイガワと読みます》 

渡月橋を渡ると、左に回ります、雨中嵐山碑に行くまでに少し寄り道を・・・・・この辺りに高倉天皇から姿を隠した『小督の局』が居りました

  

《振り返ると渡月橋が・・昨年の9月18日には欄干まで水が(今でも信じられません!琴きき橋の案内板があります・・・大きくして読んでね》

ご存知でしょうが・・・小督の局「こごうのつぼね」についてちょっとだけ、お話しましょう

時は平安時代、第80代天皇に即位した時、高倉天皇はわずか十一歳、そこへ平清盛の娘

建礼門院徳子が17歳で輿入れ、まさに政略結婚!その頃高倉天皇は最愛の寵姫を亡くし

悲嘆にくれていた、見かねた中宮徳子が差し出したのが、琴の名手で美人の誉高き!

中納言・藤原成範(しげのり)の娘「小督の局」でした、しかし小督には愛する人が居りました

名前は冷泉隆房、彼には妻がいて、小督は愛人であった、しかもこの妻、清盛の四女だった、

娘二人まで「小督の局」に取られて(心を)しまい、怒り狂った清盛は小督を宮中から追い出す!

小督も清盛の怒りを恐れて、嵯峨野に身を隠します、天皇は嘆き悲しみ,・・・・・秘かに腹心で

笛の名手の源の仲国を噂の嵯峨野路に行かせます、疲れ果てて渡月橋の畔に辿り着き

ひょっとして小督が応えてくれるかも・・・と、得意の笛を吹きだします・・・すると期待通り

見事な≪想夫恋≫の調べが聞こえてくるのでした、一度は宮中に戻りますが再び秘密が漏れ

無理やり出家させられます。話はもう少し続きますが、琴きき橋の説明は是にて・・・小督の墓へ

  

《保津川に沿って亀山公園に向かう途中に小督の局の墓があります、以前はもっと、淋しかったけど、是くらいならまあまあ》 クリックで説明

  

《我が松流の春の会場の(らんざん)の前を通って更に奥へ保津川下りの舟着き場を右に!上の表示「周恩来総理記念詩碑」へ上ります》 

  

《石段を30段程上った処!新緑の茂れる中に堂々とした詩碑が姿を現します・・・下にクリックで大きく見ていただきたくコーナーを設けました》

     

この詩は今から95年前の1919年(大正8年)の4月5日、帰国を前にして

もう一度是非!嵐山に行って見たいと、21歳の留学生【周恩来】は嵐山の

新緑に射す一点の光明に心洗われつつ詠んだのが≪雨中嵐山≫の詩だ

 周恩来京都嵐山にて詠める詩≪雨中嵐山≫~1919・4・5

    雨中二次遊嵐山 両岸蒼松 挟着幾株櫻

   到尽処突見一山高 流出泉水緑如許 繞石照人

   瀟瀟雨 霧濛濃 一線陽光穿雲出 愈見嬌妍

   人間的万象真理 愈求愈模糊

   模糊中偶然見着一点光明 真愈覚嬌妍

    

   雨の中を再び嵐山に遊べば 両岸の蒼き松幾株かの櫻まじえつ

   その尽きる処にわかに見る高き山一つわき出る泉の水は緑にはえ石をめぐりて人をば照らす

   満々たる雨霧朦朧たるに一線の陽光雲をつき出ずればいよいよあでやかなり

   人の間の万象の真理は求むるにいよいよ模糊たり

   模糊たる中に偶然一点の光明を見れば真いよいよあでやかなるを覚ゆ

この訳で12年前に作譜して、雨中嵐山の詩碑の前で吟じた事が懐かしい

その時、周りに中国の観光者が聞いていて、言葉は分からないのに感動してくれた・・・

  

《上の書は平成14年の10月27日に筆ペンで書いたものです》

尚!今回この詩を取り上げたのには、中国に対しての個人的な思いがあるからです

95年前の周恩来は留学生として憧れの日本に来たのである、大きな志を抱いて

祖国の友人からの「帰ってこい!」の手紙で後ろ髪を引かれる思いで帰国の途に着く

1917年9月に天津より船にて日本へ、東京の牛込の家具屋の2階に下宿をして

1919年4月、日本最後の思い出として京都嵐山を訪れ、数日後神戸より帰国

この1年と7ヶ月の日本滞在を私たちは真摯に受け取りたい!・・・しかし!何故

今日の日本に対する底意地の悪い中国になってしまったのか・・・本当に悲しい

李白も阿倍仲麻呂が海に沈んで死んだと聞き、嘆き悲しんで「晁卿衡を哭す」を作詩し、

その李白生誕1300年祭には四川省江油しから丁重な招聘を受けている私松として

今の中国の日本に対しての思想には”李白””周恩来”もほとほとあきれ返り

嘆き悲しんでいる事と思います、どうか李白や周恩来の時代に心を戻して下さい

私は中国が大好きです、歴史的にも日本のお手本的な存在の中国を嫌いにさせないで

これが今回の私の願いなんです・・・・・今でしょう!世界が手を結ぶのは

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 


三条大橋の周辺の後編!鴨川おどり本日千秋楽で~す

2014年05月23日 23時37分19秒 | 日記

 昨日はちょっと慌てたのか?二ヶ所入れるのを忘れていまして、三条大橋周辺の追加ブログです

   

《三条大橋の北側の河原から東の方角です、今度は橋の下から川床が見えますでしょう・・・・・下を潜ると若者が三人で演奏をしていました》

幕末にはこの河原で勤皇の志士たちと新撰組がチャンチャンバラバラをしたのでしょうね・・・・・のんびり演奏なんかしてられませんよ~ 

まず!本日が千秋楽の”鴨川おどり”をと言っても外からだけですけど

  

《先斗町の歌舞練場です≪鴨川おどり≫の会館、”こちらからお入りやす”・先斗町(ぽんとちょう)のこの細い通りに四条通までお店がびっしり》

昨日のブログの最初に弥次喜多の銅像が出てきましたが、あの場所を更に南へ下がった所がココどす 

昨日、カメラ片手に三条大橋近辺を廻りまして、改めて気付いた事もあり・・・京に生まれ、京に育って

70年と9ヶ月!まだまだ知らない事ばかり・・・でもブログのお蔭で少しづつ・・・本の少しづつ知識がほんまかいな~

折角ですのでネットから鴨川おどりの雰囲気だけでも・・・・・どうぞ!

    

 《今年のポスターどすね~・・・今日は今からでは、もう時間的に無理やし・・・写真で総踊りを楽しんでおくれやす・・・お茶でも・・・・どうどす~・・・》

ちょっと!調べてみました・・・・・京には五つの花街がありまして、それぞれの花街が春に競っておどりの会を

ただ・・・祇園おどりだけが11月1日~10日までの秋に行われる、あとは次の様に春おどりです

都おどり・・・・・4月1日~30日まで、祇園甲部歌舞練場にて

鴨川おどり・・・5月1日~24日まで、先斗町歌舞練場にて

京おどり・・・・・4月初旬~下旬まで、宮川町歌舞練場にて

北野おどり・・・4月15日~25日まで、上七軒歌舞練場にて

祇園おどり・・・11月1日~10日まで、祇園会館にて 

何かの参考にしておくれやす~

さて最後は・・・幕末の話で結びにしたいと思います・・・

幕末の京洛の地は、岡田以蔵や中村半次郎、田中新兵衛、等の殺し屋や

新撰組に見廻組と、決して穏やかな京都ではありませんでした、そんな中!

なぜか?三条木屋町付近で暗殺事件が頻繁に起こったのです

 

《佐久間象山は大人物ではあったけれども、大いなる自信家でもありました、無防備の姿の馬上の人、狙われて当然の結果でした・・・もったいない事どす

    

  《大きくして見て欲しいですね~》        《京の木屋町通りには高瀬川が流れています、角倉了以が私財を投げ売って完成した運河》 

森鴎外の「高瀬舟」を私の大好きな”三遊亭園生”が語っている落語、と言うより、

講談と言った方がピッタリで、話術は日本一でしょう、何と言っても天覧落語は園生だけだから

このレコード、吹き込み方というか、企画が少し変わっていて祇園?・・・違うがな『擬音』入りでして

最初は川の流れる水音から入り、続いて舟の櫓を漕ぐ音が入り、おもむろに”園生”の話が始まる

内容は「安楽死」を扱っているのだが、園生の声と話術がこの話を一層深くしてくれている

興味のある方は是非とも聞かれる事を、お勧めします・・・

  

三条大橋の立て札を見ながらお別れです、結果的には前・後編の三条大橋とその周辺になりました

次の橋は・・・四条大橋の予定です・・・・・その周辺のちょっとした歴史をお楽しみに