
●『笑顔の絵本』とは?
東日本大震災のチャリティー写心カレンダー(ミュージック ポエムCD付)です
写心は、全盲の旅写心家「大平啓朗」が、2011年3月11日におきた東日本大震
災から100日後に、宮城県の石巻、南三陸を中心に、現地の方々の笑顔を撮影した
ものです。
ミュージック ポエムとは、
①特に東北に住んでいた被災者
②被災地へのボランティア経験者
③被災者を受け入れた方
④復興の援助に何が出来るか迷い続けながらも遠くから活動をしている方
⑤何も出来ないと思っておられる方
などの色々な立場の方々のメッセージ
を集約したものです。
半分くらいは、私、「大平啓朗(お〜ちゃん)」が、順番や追加など修正を加えて、
ポエム(詞)にしました。
唄は、「高島啓之(タッカ)」です
一般的な「歌」というよりは、「詞」に想いの篭った音でも表現しているというもの
であり、被災地への復興活動に賛同して下さった。方々の「音」「言葉」が詰った
新たなジャンルとして感じていただければとおもいます。
<笑顔の絵本の歌詞紹介します。>
その 笑顔
笑み 笑い声も 素敵な
笑顔
ありがとう
忘れないよ 忘れないよ
そばに そばに そばに
あ、
その手は
僕の手
その手が
いてくれたんだ
いれたよ
こんなに そばに
届く いるよ
一瞬で飲み込まれていく命
友を想い
心配の波 押し寄せるたび
リアルになる
僕らは託された
これからを生きる
笑顔で生きる
あなたと生きる
手を繋いで進もう
手を繋げば 大丈夫
ずっと君の味方でいると決めた
何があっても
忘れないでほしい
疲れたら羽を休めよう
平らな道
いつでも前が見えるよ
登ってみよう
もっと 見えるよ
輝く未来が
言わなきゃ
笑顔でさ
キラキラ輝いてるよ
手のひらの鍵が ほら 君にありがとう
心臓の高鳴りが胸に届くから
飛び立って
空の真ん中で
君の瞳が語る
空の真ん中に 君に届くようにと
また逢える時に
いつもの笑顔を見せてね
みんなで つくってゆこう
新しい生き方を
つくっていきたい
どんな色の空の下で
どんな風が僕等を包んでも
君が笑っているといいな
泣きたいときは
そばにいるよ
輝く瞳が
希望に塗り替えるから
たくさんの色の試練
靴の紐 結んで
数え切れない程 夢がつながる
1つの素敵な笑顔を
ぼくらは何時(いつ)だって
同じ空の下にいて
同じ空を見上げてる
<以下よりプレスリリース第2弾>
ある日の夜
ソファーのひじ掛けで、私の携帯電話が鳴った
函館の音楽,飲み仲間の大森からだった
皆は、彼を『いなりん』と呼ぶ
「東日本大震災の復興のために石巻に行く」
私は、大森の「やると決めたら やる」の性格から、なんとなく、少ない電話の会話
で、彼の意図することが理解できた
驚きと喜びの言葉が、最後に、私の耳から胸へ受話器越しにスッと彼の声がぼれ出て
きた
「被災地のコトを全国に知ってもらいたい。お〜ちゃんの感じて撮った写心で。復興
の資金にもなればとも想う。写心のことを考えたときに、お〜ちゃんが1番だと想っ
た」
私は、たったのたったの一息だけ歓喜の言葉を飲み込み
」悲しいものは撮えりたくないよ。笑顔を撮って、皆に見てもらって、もっと笑顔を
増やしたい。笑顔を絶やしたくないから」
なぜ、咄嗟にこんな言葉をスッと出したのかは、未だに理解ができない
笑顔を想像できるはずもない周囲の噂や知らな過ぎる状況しかなかったはずなのに
「やろう」
大平は映像 大森は音楽で
互いに「ありがとう」の一言
既に、復興支援のため大森の声は、被災地に届けと擦れた声を精一杯だった
二人の想いは一致し、そして被災地復興の同志となった
それは、2011年5月のこと
10年程前、6年間、私は、山形に住んでいた
隣まちの宮城県は、徹夜での朝焼け撮影、海水浴、濱での花火、沿岸のドライブと二
十歳そこそこの私の庭と言っても過言では無いほどなじみの場所だった
松島のお土産屋さんの叔母ちゃんやラジオ体操をした子供達、早朝浜辺を散歩してい
た叔父さん
東北の皆さんは、若かれし私を色々受け入れ楽しませ成長さえさせてくれた
ハッきりとした場所の地名は憶えていないものの間違いなく、宮城・岩手県の沿岸の
記憶は、今でも濃い
地震後、私は、北海道にいた
目の見えない私に入ってくる情報は、言葉のみであり
家が流された、海が数分で高くなり押し寄せてきた、原発から煙が上がる
しかし、被災地の現状は、テレビや新聞の写真の映像では、分りえるはずがない
言葉だけでの想像の世界 誰にも聞けない 聞きたくない 知りたくない
見たい いや 見たくない
目が見えないことで、こんなにも、もどかしくも葛藤したことはまれだ
もうすぐ目が見えなくなって 10年になる
やはり、今回の被災地の現状を「見たい」
心のどこかに、「目で見えなくても分る」の意地で生きてきたところもある
そんな意地だけでは、解決できない心情だった
私の溌剌だった時代、たくさんの思い出が、そこ東北にはある
東北に行った事も無い方々より、自分が知らないなんて・・・
羨ましかった、悔しくもあった
失明して間もないころ、1度だけ
これだけは「自分の目で見たい」と想ったことがある
それは、未来の自分の子供の顔
「見てみたかった」
その時以来だ
それだけは、いくら家族や親友の応援や理解があっても、できない現実
失明をした当時は、悔しくてしかたなかった
丈夫に生んでくれた親に『ごめんなさい』とおなじくらいに
大切な人が、本当に大切なんだと
生きてることだけが、どんなにも
とにかく、あの笑顔で過ごした東北がどうなっているのか知りたい
私に、何ができるのか・私が行くことで邪魔になるのではないのか
1歩が出なくて、ただ立ちすくんでいる2ヶ月間
想像だけが広がる
何を読んでも 何を聞いても、同じような報道
でも、少しづつ明らかになる
嘘も本当も
本当は、何かをしようと決めたとき
遠くても一緒にできる『仲間』がいる
「できることから始めよう。とにかく行こう」
1本の電話から、緊張と胸が躍るような想いで準備を進めた
初めて立ち降りたのは、海から数キロ程の道路
窓も無く、家内にはなにもない住宅街
あるのは、家の数からはありえない静けさ
映画やドラマのロケ現場ではないかとおもったほど
今いる場所は、100日前
2、30メートルの津波がきて、海の中かと
ここがかと 天を仰いだ
目の前にある家よりさらに上をみつめ続けた
道路に残っている海水の水溜り
一面に藻が生えている
いつのころから、空の雲を写す事ができなくなり、この姿でじっと居続けていたのだ
ろう
私がシャッターをきったのは、津波の被害が大きかった所に近づいたとき
今まで嗅いだことのない臭いに向けてだった
1枚目を
『笑顔の絵本』
3.11・それ以降も含めて、東日本大震災に、多くの方々が、色々な立場で、関わ
っております
大きな揺れに大切なもの・ことを失った方
ボランティアとして被災地に駆けつけた方
避難場所として受け入れに携わった方
被災地へは行くことができないが、遠くからも何らかの支援をしておられる方
これからも、あの日の事を忘れない方々
写心だけではなく、世界中の『心』の言葉を集めた
ミュージック ポエムとして『笑顔の絵本』にCDというかたちで添えさせていただ
きました
チャリティー−写心カレンダー・ポエム・ミュージックの『笑顔の絵本』は、その後
の数日間で出会った『笑顔』達を混めた
2012年3月11日から始まる写心カレンダーとなって完成したものです
東北で、人とふれあい、いただいた
お互いに『ありがとう』の言葉達
僕は
『忘れないよ』
こちらこそ
私にも、できることがあると教えてくれて
「ありがとう 忘れないよ」