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荒木流拳法誕生の謎と10代栗原五百二正重

2013年12月07日 | 日記
『荒木流捕手再誕之序』という書があります。
荒木流拳法10代の栗原五百二正重<いおじまさしげ>の手になるもので、600字足らずの短い文章ですが、研究者の頭を悩ませる内容を含んだ資料となっています。

荒木流は無人斎流、荒木無人斎流などともいい、甲冑組討から発展した小具足、捕手を中心に、居合、短刀、小太刀、剣、棒、長巻<ながまき>、手裏剣、乳切木<ちぎりき>、鎖鎌、縄など様々な武器術を含む総合武術ですが、その名が示す通り、流祖は荒木無人斎秀縄<むじんさいひでつな>とされています。ところが、『荒木流捕手再誕之序』には違った人物が登場するのです。まずは、意訳してみましょう。

「当流の源を尋ねると、天正(1573~1592)の頃、太閤秀吉の時代に生きた藤原勝実が元祖である。勝実は常日頃からこの術の修練に励んでいたが、なかなか奥義を悟ることができなかった。そこで、かくなる上は神明の力を仰ぐよりほかにないと、愛宕山大権現に100日間参籠し、丹精込めて祈願したところ、その深い志が通じたのか、ある夜、不思議な霊夢を見てついに奥義を極めた。それより、洛中において強敵と立ち合うこと数度に及んだが、勝利を得ることがはなはだ容易であった。豊臣秀次がそれを聞いて、天下無双の妙術と賞賛したので、勝実の名声は世に高まった。(以下省略)」

次に、一般に流祖とされる荒木無人斎の経歴を見てみましょう。
彼は16~17世紀頃の人で、無仁斎、夢仁斎とも書き、「むにんさい」と読むこともあります。諱は秀縄のほか秀綱、信縄、信綱ともいいました。生国は不明ですが、有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重の一族(孫とも)と伝えられています。豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍して、秀吉から感状を授かったそうです。
『荒木流捕手再誕之序』に書かれていた正三位藤原勝実や、竹内流3代目の竹内加賀介久吉に小具足を学びました。彼も京都の愛宕山に祈願して秘術を得たといいます。

さて、栗原がなぜ、荒木流の元祖を無人斎ではなく勝実にしたかということですが、単に勝実が無人斎の師匠だから、無人斎が創始した武術のルーツであるという位置づけならば、そこに竹内久吉が来てもいいわけですし(ただし、荒木流に竹内流の影響を窺うことはできないそうです)、さらに矛盾しているのは、栗原自身が寛政年間(1789~1801)に天笠勇七へ与えた『印可、荒木流拳法極意』では、「荒木夢仁斎秀縄」を流祖としているのです。
無人斎と勝実は奥義を悟った経緯が酷似しており、両者の事績が混同されているか、あるいは同一人物の可能性も指摘されています。いずれにせよ、なんとも頭の痛い謎ではあります。

最後に、『荒木流捕手再誕之序』の著者、栗原五百二について紹介しておきましょう。
彼は享保6(1721)年4月15日に伊勢崎藩士栗原権之丞正祐の2男として生まれました。元文年中(1736~1741)、前橋藩酒井家の臣小屋幸太夫について砲術を学び、免許を受けます。その後、伊勢崎藩士磯田藤太夫邦道に無外流剣術を学び、宝暦10(1760)年5月、藩の剣術師範となりました。翌年、祖父正孝の門下だった河野四郎左衛門道房について種子島流砲術を修め、合わせて幕府の旗本松平氏に従って佐々木流砲術の免許を得ます。また伊勢崎藩士小峯文太夫武矩の門に入って荒木流の捕手小具足を学び、免許皆伝を受けてその師範となりました。それから2代藩主酒井忠告<ただつぐ>の命によって江戸に上り、土浦藩士関内蔵助依信に南蛮流砲術を学んでいます。

このように、主として砲術のプロフェッショナルとしてキャリアを積んだ栗原は、安永3(1774)年に藩から1貫目丸の大砲の製作を命じられました。苦心して造り上げ、その発砲に成功したので、翌年、3代藩主忠温<ただはる>より五百二の名を賜ります。由来は、1貫目(約3.75キロ)が500匁(1.875キロ。1匁は1貫の1,000分の1で3.75グラム)の2倍であることによります。さらに砲術師範を命じられ、上士に列せられました。また藩校学習堂の頭取となり、金5両3人扶持を授与されています。

なんとも輝かしい経歴の持ち主です。それだけに、『荒木流捕手再誕之序』の内容も、決していかがわしいものではないでしょう。荒木無人斎と藤原勝実の関係について、確かな記録を残してくれなかったのが惜しまれます。あるいは、彼にもその辺りのことは、はっきりわからなかったのかもしれませんが・・・。

栗原五百二は寛政9(1797)年11月1日に77歳で亡くなり、群馬県伊勢崎市曲輪町14-5にある同聚院<どうじゅういん>に葬られました。


伊勢崎市の重要文化財に指定されている同聚院の総門

先日、同聚院を訪ねましたが、どうしても彼の墓が見つかりませんでした。住職に聞くと、栗原家の墓所は整理され、撤去されてしまったものもあるということです。改めて教えてもらった場所に行ってみると、辛うじて五百二の2男である貫次郎正義(1768~1844)の墓碑が見つかりました。権蔵、貫二とも称し、墓碑には貫治と刻まれていました。彼も父から荒木流や砲術を、さらに伊勢崎藩士大橋順蔵次重に直心影流剣術を学んでいます。学習堂の学頭や徒士頭などを歴任しており、父に劣らず、優秀な人物だったのでしょう。

栗原五百二の2男、貫治正義の墓

五百二の墓がなくなっていたのは残念でしたが、彼が生きた伊勢崎の地には現在も荒木流が受け継がれており、荒木流拳法保存会(代表は18代鈴木清一郎師範)が後継者を育成したり、各種イベントで公開演武を行うなどの活動を行っています。

【参考文献】
今村嘉雄他編『日本武道全集』第5巻<柔術・空手・拳法・合気術>人物往来社、1966年
老松信一・植芝吉祥丸著『日本武道大系』第6巻<柔術・合気術>同朋舎出版、1982年
小佐野淳著『図説 柔術』新紀元社、2001年

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