中世江刺家の居城跡から近世伊達藩要害の一つに
奥州市江刺区岩谷堂の中央部に、館山と呼ばれる丘陵地があります。
江刺大通りと公園前バス停から東へ進み、2つ目の信号を左折して50mほど進むと、六日町の納税会館横に登り口があり、「岩谷堂小学校・岩谷堂高等学校」の白い看板が目印となります。
天和二年(1682)制作の「岩谷堂古城絵図」から江戸時代前期の屋敷配置などが分ります。
枡形の面影をわずかに残し、大手門へ進む道は急勾配の坂道になります。
高校前を過ぎた所が大手門付近にあたり、水堀の一部が今でも残ります。
高校のグラウンドは二の丸跡で、さらに細い坂道を登ると本丸跡にたどり着きます。
岩谷堂城は江刺城とも柄杓ヶ城とも呼ばれ、人首川と南面した絶壁を利用した天然の要害で「連郭式山城」です。
岩谷堂城の始まりは室町時代末期、葛西氏の族臣であった江刺播磨守重任であったと云われています。
重任は明応四年(1495)、弟で葛西家宗家を継いだ晴重と上洛し、将軍足利義澄に謁したと伝えられています。
その後には、江刺三河守重胤が継ぎ江刺郡と傍郡で六万石を領有したとされています。
重胤の後は江刺治部大輔輝重・江刺兵庫頭重恒が城主となりました。
重恒の時に家臣が反乱を起こし、遠野の阿曽沼氏を加勢に引き入れて攻撃しましたが重恒は反撃に成功し遠野勢は敗退しました。
葛西氏滅亡後は、木村吉清の領有となり岩谷堂城には家臣溝口外記を置きましたが、溝口らが暴政を敷いたため葛西大崎一揆が起こり、木村吉清勢は没落し伊達政宗の領地となったのです。
その間、暫時大谷刑部少輔吉隆が在住し、岩谷堂城の縄張りをして外郭を修築したとみられています。
その後伊達政宗は、桑折摂津政長を置きました。
慶長五年(1600)九月に関ヶ原の合戦が起きると、その隙に和賀氏の残党和賀主馬忠親が兵を起こして南部氏に反抗し、時の岩谷堂城主母帯越中守が弾丸・兵糧の援助を行いました。
万治二年(1659)、伊達政宗の孫にあたる岩城宗規が城主となり二の丸跡に居館を構え、以後、明治維新まで岩谷堂要害屋敷として続きました。
本丸跡には八幡社が祀られ、その境内に「延慶四年(1311)」銘の石碑が立っています。
鎌倉時代の延慶四年(1311)と康永二年(1343)の供養碑が本丸あたりに存在し、その頃この地は祭祀場的な場所であったと思われます。
岩谷堂城は平安末期、藤原清衡の居住した豊田館とする説もあります。しかし後三年合戦の際に、清原家衡が清衡の宿所を焼き払い妻子を殺害するという事件がありましたが、発掘調査で火災にあった状況は発見されなかったとことから、豊田館との確証には至っていません。
この年は、「内史略」所載「葛西江刺両家譜略伝」にみられる伯耆守機清親の没年にあたります。
六角柱の三面には、金剛界大日如来をあらわす種子と「右志者四郎三郎父母為也」などの文字が刻まれ、この地の歴史を考える資料となっています。
本丸・二の丸を囲む土塁と空堀は、中世の山城の往事を偲ばせます。
本丸跡 館山八幡神社隣にある二清院とは、「藤原経清」「藤原清衡」父子の偉業を顕彰するために建立されたものです。
本丸跡の隣に空堀を挟んで、「中の廓」と呼ばれる平場があります。
中の郭跡には本丸同様、周囲に土塁と空堀がめぐらせています。平場には東屋や展望台があります。
展望台からは、奥州市内の肥沃な水田風景を見ることができます。
館山史跡公園から、人首川をはさんだ江刺区重染寺地区には、衣川館にて自害した源義経とその家臣鈴木三郎重家の供養塔があります。
(出典 岩手県の歴史散歩 )
【館山史跡公園(岩谷堂城跡)MAP】
岩手県奥州市江刺区館山
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