南部藩との藩境を守る要害
上口内要害は、浮牛城・上口内城とも云われ、天正年間に葛西氏の家臣岩谷堂城主の江刺氏が同地に築城し、口内氏を配したと云われています。
天正十九年(1591)に伊達政宗が葛西・大崎一揆を経てその旧領を拝領すると、瀬上・小梁川・藤田・田手・古内氏などの重臣が相次いで入城しました。
元禄七年(1694)、中島利成が二千石で拝領し、明治維新まで中島氏が居住しました。
中島氏は養嗣子が多く、石高も千石まで削減されています。
城郭は、高さ30メートルほどの独立した丘陵を利用し、最高所には本丸、東側には二の曲輪を設け、それぞれ土塁と空堀・水堀で囲んでいました。
城の規模は、東西に200メートル、南北に130メートルとなっています。
本丸跡は、ゲートボール場や遊具など公園として整備されています。
本丸の塁線は自然地形を利用しているものの、周囲には野面積みの石垣を用いており、大手門や東門などは外枡形を備えていました。
二の曲輪の塁線も横矢掛を意識した折れや突出部がみられるなど、小規模ながらも技巧的な縄張りで、近世初頭に大規模な改修がおこなわれたものと考えられ、南部藩との藩境近くに位置するこの城の重要性を感じさせます。
居館は本丸に設けられましたが、江戸時代の初期には二の曲輪に居館を移していたようです。
現在、本丸は武彦神社、その周囲は公園や山林となっています。
土塁や石垣・堀の一部が現存しています。
(出典国別 城郭・陣屋・要害・台場事典 )
【上口内城(上口内要害)跡MAP】
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