新庄戸沢氏六万石の居城跡

JR新庄駅から駅前大通りの商店街をまっすぐ西へ進むと新庄城跡につきます。
現在の新庄城は、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いたもので、1625(寛永2)年の完成と云われています。
戸沢氏は角館城(現、秋田県大仙市)の戦国大名として勢力をのばし、関ケ原の戦いの戦功により1602(慶長7)年常陸国に4万石を賜りさらに1622(元和8)の最上家改易にともない、戸沢政盛が新庄6万石に封じられました。
沼田城、鵜沼城とも呼ばれる新庄城は新庄盆地のほぼ中央、指首野川扇状地に広がる低湿地帯に築かれた平城です。
戦国時代の新庄地方は、大蔵村の清水城を拠点とする清水氏の所領でした。
清水氏は最上川舟運差配の実権を掌握することで勢力を保持し、清水城最後の城主清水氏満は最上義光の三男でした。
慶長十九年(1614)十一月、最上家親は大阪方内通の嫌疑がかかる弟の氏満を清水城に攻め滅ぼし、清水領を直轄地としました。
その管理には新庄沼田城に拠る日野将監が当たりますが、元和八年(1622)の最上家改易に際して罪を問われ藤堂高虎に預けられました。
最上氏の旧領は鳥居忠政ら譜代大名によって分割され、新庄には戸沢政盛が六万石で封じられました。
本丸は東西52間(約95m)、南北127間(約230m)、周囲は堀と土塁で囲まれる近世の平城跡です。
戸沢政盛の夫人は同時に山形城主となる鳥居忠政の妹で、新庄城の縄張りは忠政の手だと云われています。
政盛は新庄入部に際し真室城に入り、新庄城の修築に着手しました。
政盛は新庄入部に際し真室城に入り、新庄城の修築に着手しました。
政盛に対する城地指定は、元和八年の時点で最上領収公の上使、永井信勝の指示によって行われていました。
佐竹義宣の家臣梅津政景の「日記」には十月十二日に信勝自らが城地の地形を検分、城普請の指図をしたと記されています。
築城は寛永二年(1625)九月に始まり、同六年には外曲輪惣掘土居築立の許可を受けました。
新庄城は、並郭式に本丸・二の丸内屋敷を配し、それを二の丸が輪郭式に囲む複合の縄張りになっています。
創建時は、本丸中央に三層の天守閣、3隅に櫓、表御門、裏御門を備え、二の丸には役所、大手門、北御門を有し、三の丸には侍屋敷を配置する城郭となっていました。
「正保城絵図」に本丸の水掘は広さ二十四間、深さ一間四尺、土手の高さ二丈。
二の丸・三の丸は水掘の広さ六間、深さ一間二尺、土手の高さ九尺~一丈二尺を測るとされています。
石垣は、二の丸東面の大手門桝形と南東隅の南門桝形、および三棟の二重隅櫓修復時に櫓台として築かれました。
戸沢氏の支配領域は最上地方一円と村山郡の最上川中流左岸一帯で、戸沢氏の支配は以後幕末まで11代続きました。
明治維新の際、新庄藩主戸沢正実は奥羽列藩同盟に参加しましたが途中で離脱し、勤皇派に転じたため庄内藩の攻撃を受けて新庄城は落城、焼失しました。
明治六年に廃城となり、建造物が払い下げられ、現在、「最上公園」として本丸と二の丸内屋敷の土塁、隅櫓跡、水掘などの遺構がのこっています。
二の丸・三の丸は市街地に変貌しています。
本丸跡は「最上公園」として市民の憩いの場となっています。
戸沢神社脇は、日本庭園となっています。
公園内には様々な樹木の他に数寄屋造りの建物などを見ることができます。
南西隅には藩主戸沢氏の氏神として代々尊崇されてきた天満神社(祭神菅原道真)、正面中央に戸沢家始祖衡盛・初代政盛・11代正実をまつる戸沢神社、その左手に戊辰戦争以来の戦死者をまつる護国神社があります。
(出典 山形県の歴史散歩 国別 城郭・陣屋・要害・台場事典
)
【新庄城址(戸沢神社)MAP】
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