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-サイキックの眼-

サイキックの眼から視た「運命」

2014-06-26 18:20:04 | サイキックの眼

           

サイキックの眼から視た「運命」


「これは運命なんだ。運命を受け入れて・・・・・。」

僕は、このフレーズが解らなかった。
映画やドラマでも、「運命は変えられない」と言うセリフがよく用いられ耳にする。
それが一般には自然であるというコトに気付くまで、僕にとっては大変な苦悩と苦痛でした。

なぜならそれは・・。
その理由は、常に透視しているからなのです。
モノゴコロついた時からその感覚は、他のみんなにもあるものと思っていた。
しかし…行動も生活も…すべてが周りと噛み合わず、その理由が解らずに、幼稚園や学校などでは周りに合せて団体行動をすることに…本当に苦悩の連続でしたね。
(溜息)

いま振り返ってみれば、思考とか忍耐力とか・・とにかく経験不足の幼い時から、人の過去と未来を感じ取れる毎日だったのだから。
ただそれが、まだ子供で幼く・・判断力や精神力、理解力がとぼしく…サイキックの感覚に追われる日々だったと言える。

今こうやって、不特定多数のブログ閲覧者の方々に向けて綴れているのは、やっとのことで・・サイキックの感覚に追われることなく・・こなせるように乗り越えられて来たからなのです。
その乗り越えてきた手順や・・トレーニングのようなコトは、すべて自己流です。
手本が無かったのです。
もちろんその為の学校などもない!笑。
お寺や精神世界系?の誘い?!なども時々あったが・・すべて断ってきた。
いま考えてみると・・それらの事々が物足りなかった。

小学校の時、登下校の距離が長く、行き来するだけでヘトヘトだった。
そしてよく複数の同級生に追いかけられて、逃げ回って帰宅することもあった。
子供らの遊びのレベルなのだろうが、僕は必死に逃げ回って・・。
そしてそんな時よく、追いかけて来る同級生達が、どこを走って来て→どの道を回って僕の方に近付いて来るのかを透視して、そして上手く撒いて逃げ失せてきた。
これも今思うと、同級生達に見つかって多少のイザコザや喧嘩などがあって、人間関係を学べるモノが本来なのだろうが・・、僕にはそれどころではない自分に備わった別の感覚と戦っていた。
ホントに・・孤独の極みで・・。
16歳の時、原付バイクの運転中、スピード違反でパトカーに見つかり至近距離で追跡された時も同様に・・上手く逃げ隠れる事を容易に出来た。
僕の若き日の逃げ話しなどは自慢にはなりませんが・・。
もう時効ですよね。苦笑


運命を定める・・とか
運命はさだめ・・とか
そんなようなコトをよく言うように思います。
「運命を受け入れる」
「運命は定め」
このようにも言います。
文学や芸術、哲学や数学や科学も、この中で行う学問。
また一般に、「運命と呼べる?波?」を読むのが易学で。

また「運命は変えられない」とも良くいいます。

また或いは
「運命に逆らってはいけない、運命に従いなさい。」
とも言う。

僕の《サイキックの眼》の中に映るモノの中に、「運命」という感覚と言葉は存在しないのです。

こう言えば解りやすくなるでしょうか。
食品のパッケージに書かれている食品内容の原材料や成分、加工工程や製造国に原産地に、時には製造年月日なども。
僕は人のその全ての成分内容を視るようなモノなのです。

食品の内容提示は「運命」ではないでしょう?。

◆その食品を考え⇒レシピを作り⇒その為の原産地を持ち⇒加工工場を立ち上げ⇒流通を確保し⇒販売店と宣伝を展開する。

人の魂や人生の成り立ちも、この工程と同じなのです。
言いかえると。

◆その人生を考え⇒人生計画を作り⇒国籍を持ち⇒家庭を築き⇒ネットワークを築き⇒また新たな展開を築く。

これが永遠に脈々と築き重ね続けてきているのが魂と人生の在りようなのです。

あまり・・モノに例えるのは気が引けますが。笑
良い製品や食品でも構いません。
例えば貴方がその工場で、その製品を製造している考案者であり製造者で、責任者だとします。
その製品を見ながら・・・、
「運命(製品)は変えられない」
「運命(製品)に従うしかない」
「運命(製品)に逆らってはならない」
と、言うでしょうか?。

自分で考え作った製品に、もし改良や見直しが必要なら、商品計画を考え直すでしょう?。

「運命」と呼んでいるモノも、レシピを変えたり、計画や方針を変更することも出来るのです。

ただし、条件がヒトツあります。

『自分で選んだか?どうか?』なのです。

どういう事なのか?。

それは、
「他人に選択を委ねた人生」
「自己意思の無かった選択」

人生に、この無意志・無責任な選択をしたならば、他人に翻弄され続ける人生となるのです。

自己意思(意志)に基づいて自己決定をしたならば、決定事項の見直しが、自分で行えるのです。

しかし逆に、自己意思(意志)も無く、他人の情報を信じて、コントロールされるままに人生を未確認なモノに委ねたならば、人生の見直しや計画変更は絶対に出来ません。

それを世間では「運命は変えられない」と言っているようです。

例えば、親の選んだ結婚相手を変更したい時は、親の承諾が必要になります。
親にバカにされた子供は、どれだけ社会勉強して賢くなっても、親の貼り付けたレッテルを発行元の親に返却しなければ・・終わらないのです。

『自分で選んだコトは、自分で変えられるのです。』
これは「運命」とは呼べません。

『他者に選択されたり、他者の選択に委ねたモノは、自分では変えられないのです。』
こちらを俗に「運命」と呼ぶようです。

僕の《サイキックの眼》は、その人の魂から、何を「自己選択」し、何が「他者選択」なのか?を透視し見極めるのです。


他者から一方的に選択を強いられ・・従った。
何も解らず、人の噂やブームを信じて行ってしまったコト。
民族や家内風習からしか人生を選択出来なかった・・。
差別意識の人の目から自由になれなかった。
戦争の時代に翻弄されてしまった。
そして、病気には勝てなかった・・・など。

誰しも、携えてしまった運命という柵(しがらみ)でしょうか?。

僕の答えは「NO」です。

永い永い魂の時間の積み重ねの中で、「自己決定」という選択が無かったからなのです。
なので今からでも、小さなコトからでも「自己選択・自己決定」を行ってほしい。

なぜ?「自己選択・自己決定」をしないのか。
それは、「自己責任」が伴うからです。
そのリスクが怖いからなのです。
勇気と忍耐力・・、そしてあらゆる真実を知る勇気も必要です。

でも、もっと怖いコトがありますよ。
それは、「他者決定・他者選択」を信じてしまったが為に、そのリスクと他者の責任を負わされることです。
自分ではどうすることも出来ず・・逃げ場はありません。
これは「運命」ですか?。
自分が「他者の選択」を信じた責任だから仕方が無い・・・。?
或いは、相手を訴える!。??
どちらの選択も・・大変で不自由な変えられない運命?です。


僕の眼から視た、俗に言う「運命」とは、
「自己選択」と「自己決定」の無いモノが、幾重ものミルフィーユのような地層になって出来ているように視えています。

サイキックの眼から視た「運命」とは。
「自己意思(意志)」
「自己選択」
「自己決定」
そのヒトツヒトツの積み重ねで、その連続のコトなのです。
自然のすべては毎日がそれなのです。

そして・・・。
「曖昧な意思・選択・決定」をするのは、人間だけなのです。


サイキックの眼  山本 浩二
     
        
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