そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

属人化という「思考停止」

2010-06-09 23:13:50 | Politcs

内田樹氏のブログ、最近はあまり訪れてなかったんだけど、6月5日のエントリ「もうひとことだけ」は、久々に感心させられるものがありました(サーバーが不安定らしく避難先もできてますが)。

朝刊を読んだら、菅直人新首相について「期待する」という社説が掲げてあった。
その理由として市民運動出身であり、ポリティカル・ファミリーの出身でなく、自民党員だったことがないことが挙げてあった。
そして、新首相に課せられた最優先の政治課題は「小沢一郎の影響力を払拭すること」だと書かれていた。
私はこの説明を読んで、考え込んでしまった。
こういうことを「統治者としてのアドバンテージ」としてよろしいのであろうか。
「市民運動をしたことがなくて、ポリティカル・ファミリーの出身で、自民党員だったことがある」前首相との対比で、そのアドバンテージを強調したかった論説委員の気持ちは理解できるが、私はこの記事を読んで深い徒労感を覚えた。
もう何度も書いていることだが、私たちの国が陥っている窮状は構造的なものであり、つよい惰性をもっている。
日本の不調を統治者個人の属人的な能力で説明することには限界があるし、その人がどのような政治的キャリアであるかということと彼がこれから行う政治的選択の適否のあいだにも十分な相関関係はない。
メディアや政治学者の仕事はなによりもまず、統治者に意志があれば実現可能であるのは「どこまで」で、どこから後は個人的な善意や願望だけでは簡単には実現しない構造的な問題であるか、その境界をあきらかにすることではないのか。
統治者を評価するときには、まず「意志があれば実現可能」である政治課題の成否について吟味し、「善意や願望だけではどうにもならない」構造的な問題についての評価は「別のスケール」で考量すべきだろう。
けれども今のメディア知識人たちにはあきらかにそのようなスケールの使い分けをする能力が欠如している。

まさに我が意を得たり、でした。
どうしてこの国では、その人の属性だとか個人的素養だとかによってすべての問題を説明しようとする傾向が強いのだろうと、常々疑問に思っていました。
政治家だけでなく、たとえばサッカー代表でも、問題が生じるとすぐに監督を代えろ、選手起用がおかしいという話になり、人を取り代えさえすればすべてが解決するような言説がまかり通ってしまう。

内田氏は次のように続けます。

彼らの今回のできごとについての総括は失政の責任は「鳩山由紀夫」という個人の無能に帰し、新政権のまずなすべきことを「小沢一郎」という個人の排除だとしている。
だが、前政権が露呈させたのは、「日本は主権国家ではない」という「根源的事実」と、官僚とメディアがその事実を組織的に隠蔽してきたという「派生的事実」である。
このどちらのイシューについてもメディアはまったく論じる気がないようである。
アメリカの一友人に書いたことをもう一度採録する。私はこう書いた。

「ご存知のように、普天間基地問題について、日本のメディアはアメリカの東アジア軍略についても、日本領土に基地があることの必然性についても、ほとんど言及していません。彼らは鳩山首相の『弱さ』だけにフォーカスしています。彼らは首相を別の人間に置き換えさえすれば、私たちはまたこの問題をハンドルできるようになる、そう言いたいのです。
普天間問題はなによりも国内問題である、と。
日本人がアメリカ人と向きあうときに感じる『弱さ』はこの『想像的な』主権によって代償されています。私たちはアメリカとのあいだにはどのような外交的不一致もない。すべての混乱は日本国内的な対立関係が引き起こしているのだ。そのようにして、私たちは私たちに敗戦の苦い味を私たちに思い出させるアメリカ人をそのつど私たちの脳から厄介払いしているのです。」

今朝の紙面の政治記事のほとんどは政局にかかわるものであった。
それはメディアの「日本がかかえるすべての問題は国内問題である」という信憑(というよりは欲望)をはしなくも露呈していたと私は思う。

そう、そしてまさに普天間問題は、「切り捨てられた沖縄」vs「基地を負担しない本土」という国内問題へとステージを移そうとしているように思えます。
それこそが米国の思うつぼなのに。

戦後日本が、米国の軍事的属国であり主権国家ではないという事実を認めることによる自己嫌悪を避けるがために、思考停止という手段によって自己欺瞞の「疾病利得」を得てきた、いうのは内田氏お馴染みのロジックですが、今回ほど腹に落ちたことはありません。

内田氏も、かつてはその「疾病利得」をあながち悪くないソリューションとしてポジティブに評価していたように思いますが、そのあたりのスタンスも若干変わってきたようです。
6月2日のエントリ「思考停止と疾病利得」は次のように結ばれています。

けれども、散文的な言い方を許してもらえば、自己欺瞞が有用なのは自分を偽ることによって得られる「疾病利得」が、適切な自己認識のもたらす自己嫌悪の「損失」を上回る限りにおいてである。
疾病利得は「自分が詐病者であることを知っている」という「病識」の裏づけがある限りかなり長期に維持できる。けれども、自分を偽りながら、かつそのことを忘れた場合、それがもたらす被害は疾病利得をいずれは上回ることになる。
私たちはもうその損益分岐点にさしかかっているのだと思う。
今回のマスメディアの「集団的思考停止」は私たちがすでに損益分岐点を一歩超えてしまったことのおそらくは徴候である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする