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道徳の出発点は羞恥心 中江藤樹 

2017-06-02 18:52:19 | 知恵の情報
近江聖人の中江藤樹が夜道を帰ってくると、追い剥ぎに出会った。お決まりの文句
「金を出せ」という。藤樹先生は気前よくふところから財布を出すと泥棒に渡した。
受け取ってみると案外軽い、泥棒は不満やるかたなく「身ぐるみぬいで行け」と
居丈高にどなりつけた。先生はだまって袴を脱ぎ帯をとき着物をすっぽりと脱いで
フンドシ一つで行こうとした。

そのあまりの気前の良さに泥棒はいささか度肝をぬかれ「貴様は変な奴だ、一体
何ものだ」と不振がった。「オレは人間だ」「人間はわかるが商売は何だ、みたところ
商人でもなし、武士でもなさそうだが」「オレはな、儒者といって、人間のだれもが
持っている宝を見つけさすのが仕事だ」「やっかいな商売だな、それでその宝という
のは」「良知良能といってな、仕合わせになる宝だ」「そんな宝がだれにでもあるのかい、
このおれにもあるのかい」「あるとも立派にある」「どこにある」「見せてやるから着物を
脱げ」「オヤオヤこんだこっちが追い剥がれるのか」とぼやきながらも泥棒は着物を
脱いでフンドシだけになった。藤樹先生はそのフンドシも取れ、という。泥棒は怒って
そんなバカなことはできるか、とわめく。そこで先生は、
「なぜそれが取れぬのじゃ、犬や猫はな、フンドシがなくても歩いとるぞ、どうだ
それが脱げないところが、人間の犬猫と違う立派な宝ではないか」「なるほどな」
「その立派な宝を持ちながら犬猫同様の泥棒根性、お分かりかな、分かったら
早く着物を着さっしゃい」
この泥棒はそのときから藤樹の弟子となって大成したという。

藤樹のいうように人間道徳の出発点は羞恥心である。はずかしいから、こんなことは
できない、あんなこともやめよう、ということになる。それだけに恐るべきは羞恥心の
麻痺である。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武 編 光文書院より

中江藤樹【なかえとうじゅ】
江戸初期の儒学(陽明学)者。名は原(はじめ),字は惟命(これなが),通称は
与右衛門(よえもん),【もく】軒(もくけん)と号した。近江(おうみ)の人。
伊予(いよ)大洲(おおず)藩,加藤家に仕えたが,母への孝養を名目に致仕を願い,
許されず脱藩した。(百科事典マイペディアより)

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