ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

与える者のよろこび

2017-03-16 19:10:48 | 知恵の情報
いつも通る散歩道で、年老いた乞食にあった。乞食は栄養失調の青ぶくれた顔を
向けて、毛ガニのような手をさしのべた。彼はポケットというポケットを探したが、
あいにく今日にかぎって一枚の銅貨もなかった。彼は途方にくれた。そのあげく、
毛ガニのような乞食の手をしっかと握って、

「わるく思わないでくれ兄弟、わしは今何にも持っていないのだから」
といった。乞食はその手をにぎりかえして
「けっこうですとも旦那、それだけでもありがたいことです。これもやはりほどこし
ですもの」老乞食はそう言って眼をしばたたいた。

瞬間彼はさとったのである、
彼自身もまたこの兄弟から、暖かい心のほどこしを受けたことを。
これはツルゲーネフの散文詩の「乞食」の章の意訳であるが、与えるもの
与えられるもののほんとうの喜び、それは物質的なものばかりではないことを
よく現している。

菜根譚前五二条に曰く、
「恩を施す者は、内己を見ず、外人を見ざれば、即ち斗粟(とぞく)も万障の
恵みに当つ可し。物を制する者、己の施しを計り、人の報いを責めなば、
百鎰(ひゃくいつ)と雖(いえど)も一文の功を成し難し」と。

自分は沢山の恩恵を与えてると思ってはならないし、他人が自分の恩恵に
あずかっているなどとも思ってはいけない。ただ気の毒余り、一切を忘れて
施しをするならば、斗粟(とぞく・一斗は一升)の少ない米も万鐘(一鐘は六石
四斗)のような沢山のほどこしに相当する。また他人に利益を与えるものが、
それに相当する報酬を計算するならば、たとえ百鎰(ひゃくいつ・一鎰は
二十両)の大金を恵んでも、一文を施した功にもならない、というのが大意。
古川柳にも”人に物ただやるにさえ下手があり”とある。善意もまた難いかな。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

■斗粟(とぞく):「斗粟」の「斗」は容量の単位で、一斗の粟ということから、
少しの食べ物のたとえ。
 

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