超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

二日間の痛み 変見自在 高山正之

2008-07-02 14:47:16 | 週刊誌から
 人にはつらい日々の思い出がある。
 個人的にはイボ痔の手術がそれになるか。記憶は細かい。手術前に脊椎にキシロカインを打たれた感触も覚えている。
 その恐怖の記憶も術後の痛みには敵わない。
 イボ痔はお尻の菊の花にできる静脈瘤だと思えばいい。それを切除するのだが、切った後は縫合しない。
 神経が一番密集する部位が切られて赤剥けのまま放置されるのだ。
 身じろぐだけで頭の天辺まで激痛が走る。呼吸するだけでもずきんとくる。廊下を歩く足音も響く。
 そんな痛みの頂上で医師が下剤を飲ませる。普通どおり排便してください。
 腹が鳴り出せばトイレに行かなければならない。
 四つん這いになれば痛くなさそうだったが、やってみたらそっちの方がはるかに痛みは酷かった。
 トイレには鉄棒が嵌っていて、それが苦痛で身悶えするときに摑まる棒なのだと初めて知った。
 少なくとも術後二日間は生きた心地もしなかった。
 しかし今になるとそれも懐かしい体験に思えてくる。怪我をした時もあの痛さよりもマシと思ったりする。
 何でこんなことを思い出したかというと朝日新聞に「レスター・テニーさん来日」とあったからだ。
 彼の名は二年前の文藝春秋誌で知った。
 笹幸恵女史が「バターン死の行進」を歩いてみました、という話を同誌に書いた。それにすごい形相で文句をつけてきたのだ。
 バターンとは先の大戦の劈頭、日本軍と米軍が戦ったところだ。
 ところが敵の大将マッカーサーはさっさと逃げ出し、残った7万将兵も殆ど消耗なしで手を上げた。
 食えないで戦争を始めた日本だ、そんな大人数を運ぶトラックなんて持ち合わせがあるわけでなし。
 で、彼らを歩かせた。一泊二日で八十㌔の行程だ。西村知美だって日テレの「24時間100㌔マラソン」を走っている。
 大の米兵がそうしんどがる距離ではないと思う。
 笹女史も「風邪気味でも歩けた」と書いている。
 そうしたらレスター・テニー氏はこの記事に噛みついてきたのだ。「あの死の行進をおちょくり、冒瀆するとは何事か」と。
 彼はその怒りをサイモン・ウィゼンタール・センターを通して文藝春秋に伝えてきた。
 同誌は怯えて、彼の言い分をそっくり載せている。バターンは休息もなかった、休めば日本軍が銃把で殴りつけた、彼らは疲労で倒れた捕虜を容赦なく殺した、という風に書く。
 日本軍はそんな振る舞いはしないし、だいたい八十㌔を徹夜で歩いたわけでもない。一泊している。
 そんなゆるい死の行進があるだろうか。
 そう呼べるのは、例えばチェロキー・インディアン一万五千人をジョージアからオクラホマまで二千㌔を歩かせたケースくらいではなかろうか。
 冬をまたぐ半年の過酷な旅で死者は八千人を数えた。飢えと寒さの中でチェロキーはあの「Amazing Grace」を歌って励ましあったと伝えられる。
 米国ではこれを「Trail of Tears」(涙の旅路)と呼ぶが、むしろこっちを「死の行進」と名付けた方がいいのではないか。
 しかし朝日のテニー氏訪日記事ではそうした呼称変更を提案するでなし、ひたすら「バターン死の行進」を真実と評価して、その痛みはイボ痔の手術とは比較にならないほど深く、痛ましいと決めてかかっているように見える。
 朝日はボツにしたが、テニー氏と前後して元捕虜だった英士官サミュエル・フォール卿も来日した。
 卿はスラバヤ沖海戦で日本海軍に沈められた英巡洋艦の乗員で、鮫の海を漂流中、駆逐艦「雷」に救助される。
 卿は米潜水艦に攻撃される危険も顧みないで救助する日本人の姿に感動すら覚えたという。
 この辺は惠隆之介「敵兵を救助せよ」に詳しい。
 卿はテニー氏と同じに捕虜収容所に入り労役も体験したはずだが、戦後二人は全く違う道を歩む。
 一方は新聞を通じて脚色のない日本人を懐かしい思い出として語る。
 もう一方は罵倒を繰り返す。日本人にはそれが気の毒に見える。

週刊新潮08年7月3日号
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