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「うつる」偏見を怖れて

2011年08月08日 | スクラップ




「あの子ピカドンや。ピカドンがうつる!」


戦後間もない1946年春。広島県大竹町(当時)の小学校。広島市で被爆したS.Hさん=東京都品川区在住=は、同級生のことばに息をのんだ。


からかわれていたのは、頭の大きい、痩せた少年。弁当を持たず、いつも水道の水で腹を膨らませていた。(彼を)はやし立て、逃げてゆく子どもたちを、彼はただ力のない目で見つめていた。


ばれたら、自分も仲間外れにされる…。気がつくと、同級生の後ろについて、いっしょに少年から逃げ回る自分がいた。えたいの しれない症状で死んでいく人たちを見るうちに、自分でも原爆症は「うつる」と思い込むようになっていた。その日から、“隠れ被爆者”の人生が始まった。


七歳のS.Hさんが被爆したのは、通学していた広島市郊外の寺だった。命は助かったが、ガラス片の摘出や脱毛などの急性障害で休学。一年遅れて復学した後は生まれ年の話題をはぐらかし、被爆を隠し通した。


23歳で、勤め先で知り合った男性と結婚。夫は「おれが治してやる。母には、原爆に遭ったのは遠方だったと言えばいい」と言ってくれた。


だがまもなく腸閉塞を起こし、続いて結核で肺の一部を摘出する。夫が自分のきょうだいと「原爆のせいで子どもができない」と話すのを聞いた。「(嫁に)もらっていただいた、という負い目」があって、つらくても耐えるしかなかった。




S.Hさんはその後、二人の子どもに恵まれたが、59歳で離婚した。ここ数年、造血機能障害やC型肝炎、子宮ガンなどを次々に患っている。「放射線との因果関係はない」という国の対応に怒り、2004年1月、原爆症認定訴訟に参加した。


裁判をきっかけに今春、小中学校の同窓会で初めて被爆を打ち明けた。驚く人もいた。「広島市内にいたからやっぱりね」という人もいた。でもやりとりはそれだけ。自分は(被爆を打ち明けたことについて)何を期待していたのか…。「言ったことを後悔しているの。いいことがあるわけじゃないしね」。


打ち明けたのは、あの日の体験を語れる世代が少なくなったと思ったからでもある。だが、法廷で国の代理人から「被爆直後に熱は何度でましたか」と質問されたとき、(この人たち=国の代理人たちは)何もわかっていないというむなしさがこみあげてきた。全焼した家に体温計なんてあるわけないのに。


「“隠れ(被爆者)” のままでいたほうがよかったと思うわたしと、ちゃんと言わなきゃとおもうわたし。ふたりのわたしがいる」。


S.Hさんは今、都内のマンションにひとりで暮らす。血小板が少ないので、うっかりけがをすると血が止まらなくなる。夜に倒れるのが怖くて、眠れない。東の空が白み始めるころ、その日最初のニュースを見てから床に就く。炎に追われた「あの日」を、今も夢に見る。

 

 


「あの戦争を伝えたい」/ 東京新聞社会部・編

 

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