この日があったから、父は生き残り、帰還。
やがて家族と再会そして一家再興ののち、次世代を又作った。
その一人が私であり、今はその次世代も存在している。
終わることで繋がったいのち。
戦後の人生を余光と言っていたが、
すでに戦地で過去の自分がどこかへ行ってしまったと
ぽつりのちに言っていた。
戦地へ行く前から、昨歌をたしなんで
昭和万葉集に戦争の歌が残ることになる。
作歌は命が光る貴重な時だっただろう。
鉛筆と紙さえあれば、いいのよと
同じ歌の会で知り合い、結婚した母も60年
亡くなるまで歌を続けた。
亡くなったのはその歌の会の席で倒れて9日後。
父は20数年いた場所を捨てて
東京へ戻ってきて又歌の中心で切磋琢磨したかったが、
この街では生き延びられなかった。
享年60歳。職場で倒れてそのまま逝った。
20代に煌めく作品を生み出したのだから
やはり余光だったのかもしれない。
今更ながら30年もよく頑張った。
やっと両親の近くまで、このごろ来た、と
感じられる。
何を思ったか、感じたか・・・わずかながら
想像できるようになった。
そして8月15日は二人を思い出す大事な日にも
なって来ている。
やがて家族と再会そして一家再興ののち、次世代を又作った。
その一人が私であり、今はその次世代も存在している。
終わることで繋がったいのち。
戦後の人生を余光と言っていたが、
すでに戦地で過去の自分がどこかへ行ってしまったと
ぽつりのちに言っていた。
戦地へ行く前から、昨歌をたしなんで
昭和万葉集に戦争の歌が残ることになる。
作歌は命が光る貴重な時だっただろう。
鉛筆と紙さえあれば、いいのよと
同じ歌の会で知り合い、結婚した母も60年
亡くなるまで歌を続けた。
亡くなったのはその歌の会の席で倒れて9日後。
父は20数年いた場所を捨てて
東京へ戻ってきて又歌の中心で切磋琢磨したかったが、
この街では生き延びられなかった。
享年60歳。職場で倒れてそのまま逝った。
20代に煌めく作品を生み出したのだから
やはり余光だったのかもしれない。
今更ながら30年もよく頑張った。
やっと両親の近くまで、このごろ来た、と
感じられる。
何を思ったか、感じたか・・・わずかながら
想像できるようになった。
そして8月15日は二人を思い出す大事な日にも
なって来ている。