気分変調症と就活、将来に悩む私の日記

最短退職4ヶ月(新卒時)→最近は3M+休職で6か月。鬱と診断‥休職・退職を繰り返し、精神科通院中。将来悲観もたまにあり

病気②

2011-03-21 09:49:31 | 過去のこと

昨日の続きになりますね。

ハローワークであったカウンセリングの先生。まず「無料」ありがたや~だって、交通費かけていってたから、それを診察料?と考えればありがたい

その先生は60前後の男の人で、色々私の考えを聞いてくれたあとにアドバイスをしてくれた。こうしたらいいんじゃないか?とか、たとえ話でこういうときにということをはなしてくれて、「よい先生だった」私には合ってたんだと思う。

話をきいてくれて、なおかつ私にあったアドバイスっていうのがよかったんだと思う。

そんなこんなで、3か月。先生に止められながらも、当時付き合っていた遠距離4年目の彼の近くに行くため、彼の近くの病院を受け始めた。とりあえず、受かって、いったんだよね(ちょっとはしょりすぎててごめんなさい)。

薬のききめといえば、とくにかんじなかったかな。就職活動でいっぱいいっぱいになっていてそっちに気を取られていたから、わからなかったのもあるかもしれない。

*******
それで、身ひとつでとある田舎の(ごめんなさい)県にいきました。彼と彼の家族以外全く知らない場所。
実家も、おばあちゃんちにも新幹線で何時間かかけないと帰れない。一番近い友達でも新幹線で1時間半だったかな?

車がないとなにもできないところだったので、近くにスーパーとあと公共機関が10分圏内にバスと電車がとおっていて、もちろん職場も徒歩10分以内のところ。

彼氏の家までは車で40分だったかな?まあ近くはないし、自分ではいけないところでした。

この土地でよかったと思うのは精神状態と引き換えになったけど、「STの仕事に誇りをもてるように、好きになって、やっていきたい」思えるようになったことかな

そのように思えるようにしてくれたのは、少しは自信を持てるように教えてくれたのは「先生」だったんだよね。

先生は、最初は本当にやさしくて、色々教えてくれて、新卒の時に「●●ちゃん(私)自分でかんがえてやらなきゃだめ」といわれてこれってものを教えてもらえなかった私。実習でもなにもやってなかったから、なにも知らない私は、本当に手とり足とり、一つ一つ教えてもらわないと何もできない人間だった。

今考えれば、もしかしたら、新卒の時の上司はそこまでひどいとは思ってなかったのかもしれない。でも、あの時はそんな気持ちを考える余裕もなく、なにもできず、わからず、自分の身の振り方がわからなかった。

私さえいなければ、この人は肺炎にならなかったかもしれない。STなんか意味あるの?ただお話しするだけなら、誰でもできるし、家族が来たほうがもっと喜ぶ。STなんていらないって。

この病院での私へのしうち(おおげさかもしれないけど)はすごかった。
どこいったの(病棟で看護師さんと患者について話したり、カルテ見てただけ)?なんでSTだけゆうぐうされるの(私患者30人、ほかは平均8人で1週間の予定を立てるのに私が先に時間を書き込むことに対して)?何やってるの(だから、仕事以外になにをする。あと昼休みに私の姿がないことに対して。昼は病院内ならどこにいてもいいよね)?なんでたくさんみれないの(患者を。30人いるなら毎日はむりだろうがよ。全部で8人ぐらいしか見てない人たちにいわれたくないわ><)?私たちは(看護師)今まで自分たちでやってきたんです。私たち(看護師)が患者さんのこと一番知っているんです。先生に何がわかるっていうんですか?たまに診るだけで。(そんなことをいわれて、患者が彼女たちのやり方じゃ肺炎になるといったのに。そして3日たたずに誤嚥性肺炎。ほかにももう一回ほかの患者さんでやられたかな。いっても聞かずに患者を肺炎に。どんだけ注意して、間にひとを挟んで話し合ったか。一番の被害者は患者さん。。。)ほかにもどうしようもないのがっていってもまあ、いま言ったのもどうしようもないこと言われてますけど「話し方が上から目線でむかつく」これ本当にお手上げ。

これをわざわざ同僚が上司にいってその上司が私にわざわざ伝えてくださったんですけど、私があなたはそう感じた事あります?ときいたら「ない」とのこと。私の話し方や声って自分は本当に嫌いなんだけど「あまったるくて、どちらかというとゆうこりんや山口もえちゃんみたいな感じ」なんですよね。あとは、祖父母がかわいいかわいい孫にキーの高い声で話しかける感じの声が私の普段の声なんだわ。

さすがにこれで「上から目線」はないよなあ…
ほかにもあったけど、きりがないのでここらへんで

先生にはいつも「おまえは自己中で気がきかなくて空気が読めない最低なやつ」って毎週いわれてました。私の心は本当にたえきれなくなって。

PTOTはこんな感じ、看護師さんは2つ病棟があって片方は上記の感じ。先生は最初だけやさしかった。彼氏君は、私がぐちをこぼすと聞きたくないって。私は誰を頼りにしたらいいかわからなかった。

そんななかでも救われたのは、薬剤師の先生やもう一つの病棟の看護師さん、患者さん、栄養士の先生だった。でも、あちらの勢力のほうがダメージがとっても強かったので本当に日に日にやんでいって。

精神科は続けていて、カウンセリングも受けてたけど、カウンセリングはお金の無駄だった。ただ話を聞いてくれるだけで何も言わないからだ。私は話を聞いてくれるだけでストレス発散できない人間だし、何かを一緒に解決してくれると信じていってたのでただ聴いてくれるだけじゃ何もならない。

休職になったとどめは、先生が患者さんの退院日を自分の研究のためにのばしたこと(前からいってたのに退院日きまったとたんDrにとめさせた)、それによって私にも色々…。そして、前に患者さんを忠告して話し合いもして、聞いてもらえずに勝手にやったことで誤嚥性肺炎にした病棟から、患者さんを診てほしいといわれて、間にたくさんの看護師さん、上の人を挟んで約束事(勝手にすすめない)をしたのに勝手にやってまた肺炎にさせた看護師と病棟。。。それで、もう私の心は限界に来ていて、休職に。

先生ともそのへんでもらはらがまたすごかったのもかさなったかな?
そして、彼氏君との話も…

ここらへんでいったんきります

病気

2011-03-20 15:49:55 | 過去のこと
振り返るとはじめは…長い付き合いの人はまた重複しちゃうかもしれませんけど

新卒の時、でももっと前からSTになるのは不安だった。うつとかの病気でなく、もともと持病を持っていた私は大学4年の長期休みに手術をしました。そして、ほかにも意識不明で病院に運ばれるようなこともあって、先生たちにマークされてました。

そのため、私は就職活動一切、見学すらもさせてもらえませんでした。

ちょっとだけいわせてもらえれば…><成績ははっきりいってよかった…

でも、まあ、体調がいまいちとのレッテルをはられた私は、卒業式のある3月までは全然就職活動させてもらえなかった…

突然、3月になって、就職活動しろといわれて、とまどって。学校から勧められる、新規開設一人職場をすすめられたっけ。実習でいろんなことがあって、ST業務に対してとても不安があったので、まさかそんなの…無理勇気を出して断ったんだけど、病院の先生におこられまくって…

「あなたがいけるところなんてないわ」ってまあ、私そのころからぱわはら?みたいなのあったんだな。地味に傷つくよね。

必死で、先輩のいるところ探したのが、西日本のとある地方。祖母がすんでいるところ。
親から離れたかったのもある。友達なんてどうでもいいって強がった。家族なんて。当時付き合っている彼のところに少しでも近づきたい一心でいったのもある。

そこでまってたのは「●●ちゃん(私)自分でやって」というものだった。
「●●ちゃん、あのね、自分でしらべてやるものなの。私が新人のときには全然教えてもらえなかった。みんなそうなんだよ。わかる?」

ざっくばらんな先生で(当時5年目)性格はあわないとかいうのはないから好きだったけど、でも、教育方針というか、医療方針?というのかな全然わからなくて、あわなくて、どうしたらいいかわからなくて、でも相談するとそう言われるし、困ってしまって本当に、困っていたし、なによりも怖かった。。。

頭が真っ白で何をすればいいのかわからなかった。質問しても自分で考えろだし、なによりも嚥下はとてもこわかった。
卒業するまでなにもしたことなくて、かの有名な??アイスマッサージすらしたことなかった

机上の国家試験のために暗記した知識で、とくになにか学んだわけじゃなかった。実習なんか…なにも学んだことはないそれだけはいいきれた。

そんなこんなで毎日不安だった。不安で不安でたまらなかった。嚥下は、一度少しむせるだけでも怖かったし、痰ががらがらいうだけでもこわかった。今でも、全部はなくならないけど、あの時とは違う。

そして、一人の患者を肺炎にした・肺炎になった。結局のところ何が原因か分からない。毎日たくさんの医療従事者がそのひとをさわっている。でも、自分が刺激したせいでそのまま置いていたらよかったのにそのせいで肺炎になったんじゃないかって。必要以上に自分をせめた。ある先生は自分をせめないでといい、ある先生はもしリハビリのせいでなったとしても毎日やることが大切で、全然みないときより、あなたがみてることだけで意義があるって。いろんな思いを抱えていろんな先生がいろんなことを言ってくれたけど、私は自分のせいで、自分の存在のせいで、私のかかわった患者さんを死に追い込んでしまうんじゃないかって・とてもふあんで、怖くてたまらなかった。。。

必要以上に自分をせめて、また、ほかの患者さんに訓練拒否、たくさんあばれられて…精神的にだめになっていった。友達に連絡とったら「先輩に一緒に見てもらっているよ」「大丈夫だよ。どうにかなるって」っていわれても全く気分は晴れなくて、もやもやが深くなるばかり…日に日にやんでいって。。。もともとうつ傾向なのはあったとおもう。

それで、底までどんどん向かってしまった。精神科にいって、お休み一週間もらって実家に帰ったけどなにもならなかった…そして、もう我慢できなくて患者さんのところに行くのが怖くなって辞めたんだよね。3月までと言われたけど、、、でも、怖くて怖くてたまらなくて。あの時の気持ちはあの時の気持ちとして薄れることなく思い出せるのが不思議です。もうひとつあったのが、私が私でないような気がする感覚があって、「離人症」というそうです。

人って嫌な記憶もよかった記憶も薄れてしまうから。
でも、思い出そうとすればするほどたくさん憎しみは思い出すって、それは、その後のはなしのことですが

その後は、普通の大手スーパーでパートとして働きました。私は医療にかかわるのがこわくて。ただただ逃げてました。反対にまたみんなはできているのに自分に続けられなかった劣等感もあり、ほかにもうんいろんな思いがあった。全く違うことしたっけ。進研ゼミのオペレータもした。でも、劣等感だらけの自信のなさすぎる私は、バイトもするのもこわくなっちゃって。

仕事をしないといけないのは分かっていたし、私には最終的にはこれで働くしか、ほかにも事務とかなんて働くには能力ないし、なにもなかった。これでなら働けるんだ。。。これしか私にはなくて、神様がこんな私に与えてくれたたった一つの唯一の仕事。もう一度だけがんばってみようと。でも、またこうなるわけにはいかないというのでたまたまいったハローワークでカウンセリングの先生と出会いました。そっからが私の本当の精神科受診の始まりでした。


患者さん2

2007-10-27 12:06:48 | 過去のこと
今日は価値観の違いが出てくるので、人によってはよんでいて不快になるかもしれません。これは私の個人的な意見なので、それを踏まえてそれでも読むという方は読んでください。



私は、維持期の病院に勤めていたことはいつぞやの記事にも書きましたその病院は巷では、「老人病院」と呼ばれているほど、私も入ってから分かったのですが、本当に年齢が高い方ばかり平均年齢80歳前後じゃないかな?私の患者さんでは96歳が一番上でした下が70歳かな
最初、入社してから、ことばのリハビリのスタッフは3人(上司、引継ぎの先生、自分)いました。引継ぎの先生がいるのは最初の2週間だけ‥そのあとはほぼ一人で働かなくてはならない‥それまでにできるだけ引継ぎの先生がついていてくれる時間だけいろんなことを吸収しないと‥とてもあせっていました
勤め始めてから、自分の患者さんは一度だけ引継ぎの先生の臨床を見せてもらって、2度目以降はもう自分で実際に訓練をするようになりました引継ぎの先生は、近くで見てくれる‥でも、少しでもその先生の臨床に近いような訓練をとりあえず、みようみまねでやってみようなにも自分には知識もないから‥そして初めて認知症の患者さん、そして、ほとんど問いかけに対して反応すらない人、こちらの言っていることが理解できない患者さんを目の前にして、このような方たちに対して自分は何をするべきか分かりませんでした。。。だから、とりあえず、まねするしかなかったのです。。。学校では、例えば失語症のある人で理解が悪ければ、聴覚的理解訓練、読解訓練をやる。ものをみてその名前が出てこなかったりうまくいえなかったら、名前が言えるようになるために呼称訓練などなど、何か形式的にこれに問題があるならこの訓練みたいな感じで機械的に決めていたような気がします。でも、なにも教えてもらってない、自分の知らないことばかりの現場認知症の方に対してなにをすればいいか学校の先生は「とりあえず刺激を与えろ!」といっていました。刺激を与える結構、アバウトな言い方そんな抽象的に言われると、私は良く理解できませんとりあえず、自分なりのやり方を見つけるまでは、先生の真似をするしかない自分はなにもしらないのだから人のやり方を盗むしかない。。。2週間出来る限り、ついてきてもらって、引継ぎの先生にお手本というかわからないことはどうやるのか実技をしてもらいながら教わりました。「私のやり方はこうなだけで、●ちゃんは●ちゃんのやり方をみつけるんだよ」といわれながら教わりました。私のやり方といっても、そのやり方の基盤すらないので、しばらくはまねするしかありませんどんなに自分のやり方といわれても‥先生のいいところがあれば取り入れたいし2週間の期限があって、その期限に近づくにつれて気持ちはどんどん焦っていきました‥
その2人の先生はそれぞれ違う学校出身で、私が今まで見たことがないやり方の訓練をやっていたり(それぞれの学校でやっぱり同じことをならってもどこか違いがある)、それをみるのも勉強にもなるけれど、面白かった(こんなやり方もあるんだって)。学外実習の先生なんて学校で習ったこともやっていなくて、ただ個室に入って患者さんと話しているだけだった‥いろんなことばのリハビリのやり方があるんだということをしりました。

とりあえず、引継ぎの先生に合間合間についてきてもらいながら、でも2週間はあっという間にやってきますその頃には、もう、お腹をこわしたり体調を少しずつ崩していました来週からのことを思うと、とてもとても不安だったこんな自分が患者さんを見ていいんだろうか?学校の友達はそんなに早く患者さんをたくさん診てないし、周りの友達はまだ2~3人を少しずつみていた。あとは先輩の臨床を見ながら、気づいたことや患者さんを分析した結果を書いて先輩にチェックしてもらう。私の場合は、上司の先生が
「先輩が計画書とかチェックするとかってすごい面倒だよね。時間とられるし。自分もやって欲しくなかったし」と周りのリハスタッフ言ってました。そんなのを横で聞いていて、見てくださいという勇気は私にはありませんでした。心の中では私はやって欲しいと思っていました他にも、
「同じ関連病院の新人は、実習生みたいにレポート書いているんだって。実習生じゃないからそんなことしなくていいのに。時間がもったいない」とか。

急性期病院の友達にいたっては3ヶ月は患者さんもたせない方針みたいだよ~とも聞いた。自分にはやっぱり荷が重過ぎる‥

2週間はあっという間にすぎました。。。でも、2週間だけではやっぱり足りない当たり前のことですけどね。自分の患者さんだけで精一杯になるけれども、もう少しの間、もう一人の先生の臨床も見てみたい合間合間にみたいというと、余裕があるなら患者さん増やそうか?それからほとんど見に行くことはありませんでした。でも、自分のやり方など、他にも分からないところがあってついてきてもらって、呼吸音を聞く場所がいまいち分からなかったから、みようみまねで上司先生に教えてもらっていたら、
「私のやり方が正しいとは限らない。人に聞かないで自分で調べて」そんなに、色々聞いた覚えはないし(自分はなかなか質問できないタイプなので‥)、いざ勇気を出して聞くとこの有様‥一応、自分の持ている本には書いてなくて、インターネットでも調べてみたけどそのときはでてこなくって、それで聞いたのに、人に聞くのが恐くなってきました。他の新人は分かっているんだろう‥私だけ出来ていない。出来なきゃいけないんだ、知っていないといけないことなんだ、当たり前のことを知らない私は、人に聞く資格もないのだろう。そうおもってしまう自分がいました。なんて自分はダメなんだろうって。

そして、単位の問題
できるだけ単位をとること!!
これは上司によくいわれたことです引継ぎの先生は、いつも30分みて1単位請求していましたちなみに1単位=20分で、2単位=40分となっています。上司の先生は30分で2単位とるようにいいました。このことについて友達にすこしきくと、「30分で2単位はとっていいんじゃないかな?うちの病院は2単位とっても移動の時間で10分は使ってしまうし、実際30分ぐらいしか訓練は出来ない。でも、●ちゃんの病院は、介護さんが患者さんを連れて行くんだから、丸々30分はできる!同じようなもんだよ」
そういわれるとそうなんだけど‥
でも、何か構音障害と失語症のひとからは大体2単位で、認知症の人だと30分ぐらいやってもその先生1単位だったり、2単位だったりしてなんかよくわからない‥
患者さんの家族からして、今まで同じ時間やっていてなんで人が変わっただけで単位数が増えるのか疑問にならないのかな?そんなのは普通はきにとめないものなのでしょうか私にはわかりません‥そして、上司はできるだけ単位を稼げるように、患者さん今少ないんだから毎日見に行って、単位を稼いで、同じ日に嚥下と言語訓練はなるべくやらないように!単位がもらいにくいから。といってました。
ある日上司に尋ねました「これから患者さんが増えていって、毎日見ている人が毎日はいけなくなったら?」
「そういうときは、減らす。また、患者さんが減ったらまた毎日行く。」
そんなもんなのかな自分の都合で減らしたり増えたりみたいで‥週2回しかもともとみれてなかった患者さん(引継ぎの先生は1人だったからみに行く時間がなかった)が、私に代わって、そして私も時間があるから毎日見れる時間がある毎日見てる分にはかまわないけれど、自分の患者さんが少ないときと増えたときで減らしたり、増やしたりなんか申し訳ないなんか自己都合で振り回しているみたい。。。それなら私はもう週何日で固定したいと思った。それで、その回数はきちんとかかわっていたいと思ったけど‥実際そこまで患者さんが増えるところまで行く前で辞めてしまいました‥
あと、単位の問題では上司が
「私の友達のところの新人はもう15単位もとっているって。●ちゃんはまだ8単位だよね?同じ新人でもこれだけとっているんだよ」
でも、そのころ同じ関連病院の新人さんは2単位ぐらいでしたけど‥1人しかみていないらしくて、ちなみに私は7人で、本当に、私そっちの病院にいきたいなあって何度思ったことか‥私は、ゆっくりゆっくり進みたかったけど。
そしてまた少しでもいつもより単位が少ないときがあればすかさず、
「今日少なくない?なんでこんなにすくないの?」といわれるので、少ないなあと思った日は、いつも2単位分訓練はやっていたんだけど、引継ぎの先生も1単位しかとってなかった認知症の方たちは大体1単位でやっていたんですね‥内緒で。30分やったら誰でも2単位といわれていましたが(本当はそんなことしちゃいけないけど20分しかやれなかった日は1単位ですけど)、足りない日は通常とる分をとっていました本当はこんなことしちゃいけないけど‥微調整。。。
引継ぎの先生は、大体どんな患者さんも30分1単位でとっていました。多分、2単位=40分だからと考えていたのではないかとおもいます。40分いったときには2単位にしていたようです。
そして、私が、あまり2単位を取りたくない理由は、いきなり人が変わっただけで1単位だったものを2単位に変えるというのも嫌だったのですが、ほかにも自分のやっていることに自信がなくて‥これでいいのかな?とおもっている訓練内容にお金を払ってもらっているなんて患者さんに申し訳なくて。もともと引継ぎの先生が2単位取っていたらそのまま2単位でとっていたと思います。にんげんって勝手ですね‥自分ってダメだ。。。

続く。。。 

私の元の仕事のこと

2007-10-22 22:50:19 | 過去のこと
本日第7弾
わたしの仕事のことばのリハビリとは。。。
“耳が聞こえなくて言葉がわからない”“聞こえても発声・発音ができない”“言葉そのものの理解が著しく乏しい”などの言語や聴覚に障害をもつ人は100万人以上いる方たちに、こうしたコミュニケーションに関する障害をもつ人に対してリハビリテーションを行う専門職です。
 声を発する、会話する、聞くことに障害のある人に訓練、検査したり、医(歯科医)師の指示のもと、嚥下(えんげ)訓練、人工内耳を調整する。おもな活躍の場は、病院のほか、老人保健施設、身体障害者・障害児の福祉施設、児童相談所、聾学校や養護学校など幅広い。
というような職業です。ちゃんとした名称があるのですが、それを入れると検索にかかってしまうので、いれないようにしています(笑)

患者さん

2007-10-22 22:39:34 | 過去のこと
本日第6弾
新人の私でしたが、入って1週間目で受け持ちの患者さんが7人いましたそして、辞めるまでの4ヶ月間、受け持ち患者さんは12人いました。今でも一人一人覚えてますそして、今も元気に生きているのかな、少しは食べれるようになったかな?肺炎起こしていないかな?とか思います。でも、もう会うことはありません。私の担当は上は96歳から下は70歳の年齢が担当でした。思うだけでもしてもいいのかな‥何か4ヶ月で担当が替わってしまって本当に申し訳ない‥でも、あの頃は本当に毎日が疑問と自信のなさで耐え切れず、最後は精神科に通っていました。今、病院自体を辞めたことはほとんど後悔していません。後悔しているといえば、生活が苦しいこと、あと患者さんに途中でやめて申し訳ないことしたということ。

私が、いた4ヶ月間その中の一人が亡くなりました‥とても悲しかった。。。そしてとても恐かったのを覚えています。。。人が本当に死ぬことに対して悲しいのと、自分の受け持ちで何日か前まで笑っていたのに休み明けに病院にきたらもうなくなっていて。。。これが維持期の病院の現状と言えば現状みたいなのですが(他のセラピストの先生方が維持期はもう亡くなる方が多い。元気に退院するのはごくわずかといわれました)、それを目の当たりにしてなにも言葉が出なかった。。。そして恐かった点は、いきなり容態は変わるということ。元気でもその数時間後はよいとは限らない。。。病気のない人でも、いきなり交通事故などでいってしまうようなものでしょうか?人間、いつどこで何があるか分からないこの方、嚥下面が進行性の疾患を持っていたので、急に悪くなってたんです私は、新人で何も分からないのでとにかく担当患者さんの食事場面を毎日一人ずつ見にいってました。そして、このAさんは私が見にきた頃の時期にちょうど嚥下面が悪くなっていました。。
喉頭挙上の範囲が広い、飲み込みが弱く、嚥下も2回に分かれてしまう。そしてむせが見られ、疲労も見られる。あと姿勢もうまく座れず、首も後ろにのけぞるような感じになっていました。私は、とろみと食事のペースのこと1口量の調節、姿勢を安定させることを看護師さんに注意してもらうことにしました。そのころにはもう胃ろうの増設手術がすでに決まっており。それまででもいいから安全に食べて欲しいと思いましたそして、医療病棟にうつり手術まであと2日になった日、私はAさんの様子を見に行きました最初は笑って出迎えてくれましたが、すぐしんどそうになって、しんどいしんどい言っていたので、挨拶をして部屋をあとにしました。それが最後でした。。
多分、その日に容体悪化し、意識不明の重体。そして脳梗塞を起こし、リハビリ依頼が来たと思ったらまた脳梗塞。そのまま亡くなってしまいました。そして最初の容態悪化は、今でも分かりませんが肺炎をおこしていたみたいでした(はっきりとはわからなかったのですが)もしかして、食事なんじゃ‥食事のせいなんじゃないかと思うこともあります。自分の指導がまだ足りなかったんじゃないか‥とてもこわくなりました。この言葉のリハビリの仕事はPT,OTと比べて命に直結している仕事なんだって思い知らされました。
続く。。。

就職活動

2007-10-22 22:08:12 | 過去のこと
本日第5弾
私が就職活動をし始めたのは、3月に入ってからでした一応、2月17日に試験を受けて、その日、まあその職種用の国家試験合格サイトみたいなのがあるんですねそれに自分の解答を入れて答えあわせすると。。。
午前と午後あわせて50点弱↓
ちなみに合格点は120点(200点中)程遠い本当にあの日は泣きました
日をおうごとに、点数はなぜかあがっていき。。いつの間にか120点を超えて結果的に135点ぐらいだったわけです。
ぼちぼちゆっくり試験も大丈夫そうだし、あせらず就職先を探そうと思っていたら、学校の就職担当の先生から、ここはどうかとか自分はとくにまだ急いでないのに強要され、しかも、あなたは一人職場がいいとか、老健がいいとかそれ以外はダメとか言われて、少しやけになり始め。。。なんでそういうかというと、私がアナフィラキシーとほかに病気を持っているからだから普通の病院づとめは出来ないと思ったらしい。結局は、病気云々より、自分の気持ちのせいで辞めたようなものだし。。維持期しかだめと学校の先生に言われ、維持期には妥協しましたが、老健は妥協せず、病院に就職しました。というか、維持期の病院はここしかなくて(辞めたとこ)、もうここしかないとか言う気持ちと、学校に焦らされ、何も考えずに就職しましたそして入ってからの現実と自分の思いとがずれ始めて、やめることになっていきました。つづく。

過去のこと③

2007-09-19 22:01:13 | 過去のこと
医療系の大学に入り、私ははっきりいって
自分の入った学科がどんな仕事をする人が入る学科か知りませんでした↓↓病院だとリハビリテーション科とか耳鼻咽喉科とかに属していることが多いです多分、職業の名前をいってもわかりにくいと思うので、簡単に言えば何をするかというと
言葉のリハビリをする人です難聴児・者に対しての言葉に関するリハビリとコミュニケーションの確保、脳卒中などや進行性の病気にたいしての言葉のリハビリとコミュニケーションの確保、発達障害児に対しての言葉のリハビリ・コミュニケーションの確保などなどをする仕事の学科でした私はてっきり、難聴の人に対して手話を教える人かとそんなこんなで、本当に何も知らない世界へ足を踏み入れていったのです
大学生活1年目は、教養科目ばかりで、専門科目というのがほとんどありませんでしたこういう点では、専門学校行けばよかったかなって思いますが‥(本当に専門科目が少なさ過ぎて浪人していただけにそう思ってしまいました(汗)
2年目、1年目が嘘のように、専門科目がすし詰めのようにはいってました1年生ははっきり言って暇なんだから、専門科目を1年生から入れていればここまできつくなかっただろうにとおもうほど入れてました本当に信じられない専門科目が入ってきて職業の事を少し考えるようになり、ふと疑問が‥特になりたかったわけでもなく、大学に入ってからもこの仕事に尽きたいと思うことも無く、むしろ‥
検査技師がよかった(涙)などとおもうこともありました‥2浪はできないしね
3年目、2年生よりなれたこともあって気分的に楽ですが、その職業に尽きたいと思うことも無く実習もあるからそのときにもしかしたらこの職業に就きたくなるかもと期待したがダメでした
4年目、実習と国家試験におわれ、実習でこの職業が好きになるかもと思ったら、学外で当たった先生が悪くて(いろんな友達に話してもひどいといわれました)逆にこんな仕事やりたくないと思ってしまうこともありました学校の先生に宣言したくらいです
▲▲先生(実習先の先生)のような人がいるなら別にこの仕事に就きたくありません!!(゜Д゜)そんな感じで実習が終わり、そのまま国家試験の勉強に突入仕事について考える暇も無く勉強とはいっても、完全に勉強しだしたのは1月の下旬ぐらいか勉強もなかなか自分の計画道理にはかどらず無理ない程度に設定しても、眠たくなったりしてついつい寝てしまったりしてそんなで、やってましたが、合格率50%ちょいの国家試験に合格しました過去問やっていればどうにか国家試験は通るんだなと思いました120点がボーダーでしたが、135点だったのでここが自分でもびっくり国家試験での過去問は‥
すごく大事です(゜Д゜)!!本当に大事!

つづく


過去のこと②

2007-09-18 00:30:56 | 過去のこと
浪人生活が始まり、とりあえず看護・医療の予備校に通い始めましたそこでは、検査技師一本で検査技師の資格がとれる大学を選びました検査技師の大学は判定はたしかB~cだったかな昔のことなので忘れてしまいました‥(汗)微妙だったものですから、滑り止めになる大学を決めなければいけません滑り止めの大学どこにするかな~と思いながら、予備校にたまたまあったある大学の願書が目に留まり、それを書いたらA判定行く気はないけど、滑り止めで受けることにそして試験を受けた結果、、、
滑り止めしか受からなかったのよ!!(涙)
とりあえず、そこにいくことに‥ちなみに検査技師ではない
つづく

過去のこと①

2007-09-17 14:15:41 | 過去のこと
簡単に今までの経緯を話すと、
小中高と卒業して、浪人して医療系の大学に入り卒業し、国家試験受かってそのまま就職しました
もう少し細かく話すと、、、
親に今の時代は資格の時代だといわれ、資格のある職業につけるようにしろといわれました私自身高校卒業したら、なんとなく普通の大学いって卒業してOLかななんて思っていたんですが、親にそういわれ、別になにかをめざしているわけでもなく、ちゃらんぽらんだったもので、まあいっか資格が取れるような職業は?と思ったら看護師さんがあったのでじゃあ、看護師さんめざそとおもいましたこんな不純な動機ですいません(涙)看護師さんを目指すことを担任にいうと、実は担任はそういう看護系の学校にくわしくいろいろ教えてくれました学校のこととか、試験のこととか。でも、今まで私はそういう道にまったく興味が無かったため、医療系って看護師さんと医者しか知りませんでした。医療系の看護師をめざすことになり、他にもいろいろな職業があること知りましたその中で、なりたいなあと思ったのが、「検査技師」でした。。看護師よりもなりたかったのです途中で、担任に相談しましたが、受け入れてもらえず、私も意志が弱いため、担任無視して受ける勇気や、あと成績証明書?とかでしたっけ?受験するときに必要な書類は担任を通す感じだったので内緒で受けることも出来ず、なくなく受験すら出来ず、看護学校ばかりうけたのですが、全部面接で不合格結局、浪人することになりました
つづく