角島を後にして、いよいよこの旅行の一番の目的地、みすゞの故郷 仙崎へ向かう。角島から国道191号を日本海に沿って東へ42キロ、約1時間半の道のりだ。道路沿いの看板などに「仙崎」の文字が度々見えるようになると「いよいよだな」と気持ちが高まる。車内で自作のみすゞの歌のCDをかけて、心は一足早く仙崎にやって来ていた。 仙崎 国道から「仙崎」の行き先表示に従って道を左へそれて仙崎の集落へ入って行った。風情のある仙崎の駅舎の前を通り、「みすゞ通り」と名の付けられた通りへ。昔ながらの家々が建ち並ぶ町並みが目に飛び込んできて、一気にみすゞの故郷へやって来た感慨が… 宿はまだチェックイン時刻前だったので、車だけ置かせてもらって、炎天下だが早速仙崎の町の散策に出かけた。 どこを歩いてもなんだか懐かしい。みすゞが暮らしていた頃の家はさすがに殆ど残ってはいないのだろうが、みすゞの目に映り、みすゞが感じたものを追体験するつもりで五感を全開して町を歩く。
この鳥居は、八坂神社(祇園社)へ続く参道への入口に建てられている。みすゞが見ていたものかも。 仙崎は小さな町だ。大規模な飲食街はない。遅めのお昼を取るために、駅の近くでやっと見つけた食堂では、近海で捕れた海の幸がいっぱいの海鮮丼や瓦そばをいただいた。 瓦そばは山口の郷土料理で、熱い瓦の上に茶そばと具を乗せたもの。お味の方は… 正直なところ「ふつう」だが、雰囲気はとてもいい。 今日の宿は、町中に古くからある青海島観光ホテル。昭和の前半に建てられた感じのレトロな宿で、とても懐かしい空気が漂っていた。この日も35度を超える猛暑だったが、案内してもらった3間がつながった部屋はクーラーがきいていて、出してもらった冷たい麦茶を飲んだら生き返った気分。女将さんは飾らない気さくな感じのひと。涼しい部屋で一息ついたあとはまた炎天下の中、みすゞの詠った風景の面影探しに出発。 ~金子みすゞ記念館~ まず訪れたのはやはりここ。書店を営んでいたみすゞの実家「金子文英堂」があった場所に建てられた記念館。
内部は当時の店内の様子が再現されていて、古い書棚には本が並び、吊り広告が下がる。奥からみすゞさんがひょっこり顔を出してきそう…
本館の展示館の方では、みすゞの生涯や、埋もれていたみすゞの童謡が見つけ出され、今日のように日本中で愛読されるに至った経緯などが、パネルや本、手紙などでわかりやすく説明されている。かわいいイラストや光の演出、朗読の試聴コーナーなど、みすゞをいろいろな方法で「体験」できるようになっていて興味深かった。
『郵便局の椿』でみすゞが「ペンキの匂う新しい郵便局が建ちました」と詠ったのはこの仙崎郵便局。その当時の「新しい郵便局」はさらに代を変えているが、昔からこの場所に郵便局があったんだな… これは古そうなお店。みすゞの時代から続いているのかも。 みすゞが「仙崎八景」の『極楽寺』で「極楽寺のさくらは八重ざくら」と詠ったお寺。八重桜の木は青々と葉を茂らせていた。 昔ながらの風情を残す板張りの家も多い。
~遍照寺~ 心の底に優しさと深い悲しみを持ったみすゞが眠る遍照寺の前にやって来た。ここに金子家代々のお墓と金子みすゞのお墓がある。 みすゞの墓は狭い墓地のなかほどにある。お墓の前には「金子みすゞの墓」と書かれた木製の古びた表示札が立っていた。墓石には「上山ミチ 娘 昭和五年三月十日 金子テル子」と、みすゞの本名と亡くなった日が刻まれている。みすゞは金子家代々の墓とは別の「無縁墓」に父、庄之助と共に埋葬されている(後に弟、正祐も遺言により分骨された)。自ら命を絶ったり、他殺など「普通ではない死に方」をした人は無縁墓に葬られるという習わしがあるそうだ。 みすゞの父は清国に渡り、そこで反日運動分子によって悲運の死を遂げたと伝えられていたため無縁墓に葬られたのだが、実は庄之助は他殺ではなく病死だということがわかった。しかもそのことを庄之助の妻であり、みすゞの母であるミチは知っていたらしいという。ではなぜ庄之助は無縁墓に葬られなければならなかったのか。 このことは今野勉著『金子みすゞ ふたたび』に詳しく記されているが、身内での様々な確執がみすゞの人格、そして詩作に与えた影響にも論は及んでいる。この墓の前に立った時そんなことも頭をよぎり、みすゞの心の奥底に仕舞い込まれた深い闇の世界が僕の心に鈍い痛みを伝えてきた。
~浄岸寺~ そしてやって来たのが遍照寺の裏手、「みすゞ通り」の西側に並行する海に近い道沿いにある浄岸寺。みすゞが生まれるよりも前のことだが、仙崎は捕鯨の拠点として栄えていて、多くのお寺で鯨を供養する法要が行われていた。それを今でも受け継ぐお寺もあり、仙崎の人々の鯨に対する慈悲の気持ちは決して消えないことを物語っているが、浄土真宗のお寺で行われる鯨の法要を「鯨法会」と呼ぶ。みすゞは、この法要を題材に、親鯨を殺された子鯨の悲しみを『鯨法会』に詠っている。 『金子みすゞ ふたたび』によれば、みすゞの『鯨法会』で「浜のお寺で鳴る鐘」と詠われている「ハマ」とは、漠然と浜辺を指しているのではなく、仙崎では「魚を取り扱うところ、すなわち魚市場」という特別な意味を持っていて、「浜のお寺」は当時魚市場がその前にあった浄岸寺を指すのだそうだ。作曲して自作のCDにも入っているこの詩が詠われた場所を訪れ、できれば実際に鐘の音を聞いてみたかった。 浄岸寺の広い境内を『鯨法会』を思い浮かべつつあちこち歩いた。本堂のすぐ前に鐘楼がある。鐘突き棒のひもが下がっていて、突ける状態だった。『鯨法会』ではこの鐘の音を聞いた子鯨が、死んだ親鯨を思い出して「こいし、こいし」と泣く。拙作ではその鐘の音をピアノに託している。 どうしても本物の音が聞きたくて、鐘突き棒のひもを握り、ごくごく遠慮しつつ小さくひとつ鐘を突かせていただいた。ひとつだけ小さく鳴った鐘の柔らかな音が引く長い余韻を静かに見送っていたとき、本堂の扉が開いて、ご住職の奥様と思しき方がお孫さんといっしょに出て来られた。 「すみません、勝手に突いてしまって… みすゞの詩で詠われたお寺の鐘の音がどうしても聞きたくて…」 慌てて謝ると、「全然構いませんよ。そろそろ6時になるんで鐘を突こうと思うちょったとこなんです。お願いして悪いんですが、もう九つ突いてもらえんですか。」 ここのお寺では夕方6時には最初に10回鐘を突き、ちょっと間を空けてもう2つ突くことになっているのだそうだ。そんな堂々と突かせて頂けるなんて願ってもないこと。一つ一つ心を込めて突かせて頂いた。体と心に沁みる鐘の音は、きっと仙崎の町の隅々まで届き、傾きはじめた太陽が金色に染める海の沖を泳ぐ鯨にも聞こえたかも… 鐘を突かせて頂いたお礼に、「鯨法会」が入っている自作のCDをお渡ししたら、「日曜学校で子供たちに聞かせます」と喜んで受け取ってくださった。それに、みすゞのことが書かれているお寺の新聞のコピーとおいしそうなワカメのふりかけまで頂いてしまった。温かい心が伝わってくる穏やかな方で、みすゞも子供の頃通っていたという日曜学校を代々受け継いでいるのかな、と思うと、この方を通してみすゞと心が繋がったような思いがした。 ~王子山~ 浄岸寺から今はもう魚市場はない「浜」へ出て、海沿いを青海大橋方面へ歩き、螺旋階段を上って立派な橋の上に出ると、そこは仙崎の最北端。仙崎と青海島を結ぶ青海大橋のすぐ後ろには、こんもりと木立が繁る王子山が佇んでいた。 王子山は青海大橋を渡ってすぐの、島の南端に登り口がある。山とは言っても公園として整備された階段を、青々と葉が繁る桜の木々のなか、ほんの数分歩けば展望台まで着いてしまう。そんな簡単に着いてしまうところだが、そこからの眺めがあまりに素晴らしくてびっくり。三方向を海に囲まれた仙崎全体が見渡せ、背景には中国山地の山々が連なっている。まさに絵のような美しい風景だ。 クリックで拡大 黒い瓦屋根が連なる仙崎の町がミニチュアのように眺められる。さっき鐘を突かせて頂いた浄岸寺の本堂の屋根がひときわ大きく見える。半島を囲むように護岸工事が施されて、みすゞが王子山から見た町を「竜宮みたいに浮かんでる」と詠った頃のままというわけには行かないのかも知れないが、矢崎節夫著『童謡詩人金子みすゞの生涯』には、当時の写真と見比べたうえで「みすゞが生きた時代が確実に残っている」と記されている。 「王子山から町見れば、わたしは町が好きになる」 みすゞがこう詠んだ王子山からの仙崎の眺めをいつまでも見ていたかった。「明日は早起きしてここにスケッチしに来よう」と決めた。 クリックで拡大 仙崎側に戻り西岸に出ると太陽がもうすぐ沈もうとしていた。ゆっくりお風呂に入りたいという家族は一足早く宿へ戻ったあと、海岸に一人残り、太陽が沈むまでの刻々と変わる海の色と空の色を目と心に焼きつけた。きっとこの眺めはみすゞの頃と同じはず。みすゞはこんなきれいな夕日を見て何を感じ、どんな言葉を思い浮かべたのだろか… ~みすゞ誕生の地?青海島観光ホテル~ 宿に戻ったのはもう夕食の時刻間際だったにもかかわらず、迎えてくれた女将さんは「ゆっくりお風呂に入ってからお食事を用意しますから」と言ってくれたおかげで、猛暑の中歩き回って汗をかいた体を食事の前にさっぱりすることができた。 今夜の宿泊客はうちの家族だけのようで、大広間を貸切り状態で、宿の目の前の仙崎港であがった新鮮な海の幸をふんだんに使ったおいしい夕食をゆっくりと楽しんだ。 『金子みすゞ ふたたび』には著者の長期間に及ぶ調査・検証の末にたどり着いた「みすゞ生誕の場所」についての詳しい記述がある。それによれば、この宿(青海島観光ホテル)が建っている場所で、金子テル(みすゞの本名)が産まれたということになるらしい。 宿の廊下には、ここを仙崎の常宿としたこの本の著者である今野勉氏が「この宿には金子みすゞの気配があります」と書いた色紙が架かっている。僕は一人分の蒲団だけ敷かれた窓側の部屋(写真手前)に寝床にとり、この場所で生まれたみすゞが夢枕に立ってくれないかな、と淡い望みを抱いて眠りについた… ~ふたたび王子山へ~ 翌朝は6時半に起きて、朝食の前に昨日スケッチしようと決めた王子山へ。道で行き交う地元の人たちと「おはようございます」と挨拶を交わしながらの王子山までの朝の散歩。小さい女の子と、その子を見守る後姿のおばあちゃんがいて、おばあちゃんも女の子も元気に挨拶をかけてくれた。山口を旅していて嬉しいのは、こうして地元の人から気軽に挨拶されたり、話しかけてくれたりすること。きっとみすゞが暮らしていた頃から続く人と人の交流なんだろうな。 青海大橋に差し掛かるあたり。朝日が海面をキラキラと照らして眩しいが、猛暑が続いている山口でも朝の空気は爽やかで気持ちいい。 再びやって来た王子山。昨日の夕方とは光線も空気も違っていて、また新鮮な感動で朝の眺めを約1時間かけてスケッチした。 スケッチを終えて宿への帰りは、まだ歩いていない道を選んだ。王子山から見えた仙崎はみすゞの詩にあるように「龍宮みたいに」美しいが、こうして町に下りて道を歩くと、人々が生活を営んでいる生きた町であることを感じる。
~祇園社~ 「仙崎八景」のひとつ『祇園社』で詠われている八坂神社の拝殿へ通じる参道を歩く。「祇園社」はみすゞの時代の八坂神社の旧称だが、今でも地元の人からこのお宮は祇園社と呼ばれている。並木が日陰をつくってくれるが、それでもこの暑さはこたえる。お祭りも終わり、秋風が吹き抜けるお宮のさびしさを詠った『祇園社』の季節はまだ先だ。 みすゞも折に触れて度々お参りしたであろう拝殿に参詣した。みすゞが仙崎に別れを告げて下関へ行かねばならなくなったとき、みすゞはここでどんな願い事をしたのだろうか。心の内をあまり明かさなかったみすゞの思いにそっと耳を傾けてみたくなった。 青海島 お世話になった宿の女将さんに別れを告げ、今度は車で青海島へ渡った。まずは、やはりみすゞが「仙崎八景」のひとつとして詠った「波の橋立」を目指し島の南岸沿いを西へ。 ~波の橋立~ 波の橋立とは青海島の南西部にある大きな淡水湖の青海湖と海とを隔てる細長い砂州のこと。京都府にある日本三景の「天橋立」からこの名前がついたようだ。地図を見ると本当に湖と海の間に渡されている長い橋のようだ。みすゞの詩『波の橋立』では、 「右はみずうみ、もぐっちょがもぐる、 左ゃ外海、白帆が通る、」 と詠われていて、左右に海と湖を見渡しながら橋を渡るようなダイナミックな眺望を期待して来てみたら、「橋」の部分の砂州は地図からイメージしていたよりずっと幅があって松林が茂り、樹間に水面が覗ける程度。それでも「橋立」から右の湖岸へ下りればのどかな田園風景が楽しめ… 左に出ればカモメが飛び交う内湾の海が広がっていて、ここの地形の面白さを実感することができた。 ~鯨墓~ 死んだ鯨を弔う法要の鯨法会が行われていた仙崎・青海島には鯨の供養碑がいくつもある。更に青海島の東の外れ、通(かよい)地区には鯨の墓(鯨墓)がある。鯨の墓というのは全国的にも珍しいそうで、国指定史跡になっている。鯨墓は港から細い道を入った先の石段を上ったところにある。
鯨墓に通じる通りの手前には当時の捕鯨の様子がわかる「くじら資料館」があり、港には巨大な鯨のオブジェがあった。この町と鯨との古くからの深いかかわりと、今でもそれを受け継ぐ人々の思いが伝わってきた。 ~青海島自然研究路~ 金子みすゞゆかりの場所を訪ねて仙崎の町内から青海島へ入り、島の東端の通までやってきた。後は来た道を戻ることになるが、青海島の中央部で島の形がくびれているところに「青海島自然研究路」という遊歩道があるので寄ってみた。 断崖の海沿いに設けられた道からは様々な奇岩を眺めることができる、ということだったが、遊歩道は森林の中がメインで、所々で海を見下ろせる場所があるといった感じ。 暑さに耐えながらも、紺碧の海と空、青々としげる樹木、道沿いに咲く花などを楽しみながら歩いた。一箇所「十六羅漢」と呼ばれる奇岩群が眺められるスポットは浜辺に出られ、間近で断崖に打ち付ける日本海の荒波と、海からそそり立つ巨岩を見ることができた。 クリックで拡大 ~みすゞ潮彩~ 再び仙崎の町中に戻り、いよいよみすゞの故郷ともお別れ。最後に、ちょうど発車時刻が迫っている「みすゞ潮彩」という列車を見たいという息子の希望で、昨日最初に訪れた仙崎駅へやってきた。 「みすゞ潮彩」は、日本海に沿って金子みすゞが生きた2つの地である仙崎と新下関を結ぶ観光用のディーゼル列車。仙崎駅は無人駅で、ホームには自由に出ることができたので、停車中の列車に入ってみた。 なかはこんなサロン風。どちらの列の座席も海側を向いていて「みすゞ潮彩」の名のとおり車窓からは潮の彩りの眺めを満喫できる仕様。これに乗れば、みすゞが20歳のときに仙崎から下関へ渡った航路を眺めながら、みすゞの足跡を更に辿ることができそう。 このまま「みすゞ潮彩」でみすゞの旅を続けたいところだが、車を置いていくわけにもいかないし、お昼には萩へ行く予定。でもこの珍しい車両、テツの息子に乗せてやったら喜ぶだろうな、ということで、発車間際に突然息子だけ次の停車駅の長門市駅まで乗せることにした。「切符代払って次で降りろよ!」と言い残し、ビックリした様子の息子を車内に残してあとの3人は車で長門市駅へ。無事に長門市駅で息子をピックアップした。 ~みすゞの故郷を離れる~ こんなわけで突然長門市へ急ぐことになったために、仙崎にちゃんとお別れをすることなくみすゞの故郷から離れてしまったが、仙崎を離れるにあたり、金子みすゞへの僕自身の思いを記しておきたい。 みすゞが仙崎を離れて下関へ移ることも、身内の様々な事情が重なって本人の意思とは関係ないところで決められた。心の準備もできないまま下関へ移り、そこで童謡を書くようになったみすゞ。その作品の多くが、故郷仙崎を思い、そこにいる自分自身の姿を詠っている。みすゞにとって仙崎がどんなに思い出深く、大切な場所だったかが想像できる。 雑誌へ投稿した作品が取り上げられ、みすゞが心の師と仰ぐ西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されたみすゞだが、それからみすゞを待っていた運命は、不本意な結婚、夫からの詩作の禁止、そして26歳という若さでの自死という悲しい道を辿ることになる。 金子みすゞの詩には小さな生命や、命を持たない無機物にまで愛情を注ぎ、慈しむ作品が多い。みすゞの詩が広く知られるようになってから多くの人たちの心を掴み、無条件でみすゞの詩を深く愛する人たちが広がったのは、普段は気づかないところまで心が届くみすゞの情愛の深さと細やかさに共感した人が多かったためだろう。 しかし、東日本大震災のあとに、みすゞの詩が多くの人たちの心に谺のように響き、癒しを与えたのは、みすゞの詩の世界が、単に慈愛に溢れているというだけでなく、みすゞ自身の深い悲しみや痛みが刻まれた生身の人間の姿が映し出されているからではないかと思う。だからこそ深く傷ついた人たちの心に入っていったのではないだろうか。 「我が子を守るため」自死に至ったという「強い母の姿」がみすゞには付きまとうが、自死へ至らしめた要因はこれだけではないだろう。そこには誰も覗くことができないみすゞの「心の闇」があったことを思わずにはいられない。 金子みすゞが神様のような存在として語られることがあるが、みすゞは何度も深く傷つき、苦しみ、心のなかで誰かに助けを求め、叫んでいたのではないだろうか。これほど人間的なみすゞだから、僕はなおさらみすゞの心に寄り添ってみたくなるし、その告白ともいえる詩に作曲したくなる。 たった2日間のみすゞの故郷訪問ではあったが、みすゞが暮らし、みすゞの心の奥深くに染み込んでいた仙崎を、僕自身の五感で体験できたことで、みすゞさんの心に一歩近づけたような気がした。このことが、自分の作曲に音として変化をもたらすかどうかはわからないが、みすゞの詩に対する姿勢は確実に深まったのではないかと思う。季節を変えて、またいつかみすゞの故郷を訪れたい。感謝の気持ちを胸に、仙崎をあとにした。
<参考文献> ・童謡詩人 金子みすゞの生涯 / 矢崎節夫著 JULA出版局 ,1993 ・金子みすゞ ふたたび / 今野勉著 小学館 ,2007 ・金子みすゞ永遠の抒情 / 詩と詩論研究会編 勉誠出版 ,2010 (本文中の詩の出典) ・金子みすゞ童謡全集 / 金子みすゞ著 JULA出版局, 2004 |
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