世の中には哀れな【対案ヲタ】がよくいます。例えばある法案に反対すると「じゃあ対案を出せ。批判だけするのは無責任だ。」と迫るやつです。そういうバカチンにわたしはこう答えることにしています。「俺は国会議員でも閣僚でも官僚でもなくただの【主権者】だ。だから対案など出す義務などない。悪いと思う法案にただ反対するだけだ。」と。間接民主制の社会にあっては法案にしろ対案にしろ、それは議員や内閣が官僚を動員して作るもので、我々【主権者】はそれに対して裁定を下せばいいだけです。【民主主義とは専門家の議論に対して素人が最終決定を下すシステム(小室直樹)】なのだから。
この度の【人権擁護法案】についても対案ヲタが必ず現れるでしょう。いや、もう現れているかもしれません。そういうバカチンに対しては、いつものように答えてやってもいいのですが、今回は特別に不肖わたくしが【主権者】という立場をかなぐり捨て、対案を考えてやることにしました。何故か。それはこの法案が日本社会に一種の《革命》をもたらす法案だと気付いたからです。【自由民主主義】から【人民民主主義】への《革命》です。【人民民主主義】とはサヨク国家における民主主義で、早い話が《独裁》です。我々の代表者のはずの連中の一部が、少数の圧力団体とつるんで不埒にも《独裁》へ向けた《革命》を起こそうとしているのです。そして【人民民主主義】大好きの《アサヒ》や《革命ごっこ世代(©江藤淳)》がそれを陰に陽に後押ししているという構図です。恐ろしいことです。最早【自由民主主義国の主権者】として黙っているわけにはいきません。長文になりますが、よろしければお付き合いください。
※【人民民主主義】:公権力が何が民主主義であるかを決定する民主主義。共産主義国、社会主義国の民主主義がその例。
≪対案≫
1.総論
日本国憲法は【法の支配】を採用する。すなわち、【法律による人権侵害】からも個人の権利・自由を守るということである(芦部信喜「憲法」補訂新版13~15、102頁)。現代社会において私人間の人権侵害が大きな問題になっているにせよ、依然として人権に対する最大の脅威は公権力である。そして歴史的に人権侵害の主体は専らと言っていいほど《行政権》であった。
然るに、【人権擁護法案】によれば《行政機関》たる独立行政委員会(例:公正取引委員会、中央労働委員会)である《人権委員会》が、私人間の人権侵害につき、何が人権侵害であるかを決定し、個人に対して立ち入り調査などの公権力~しかも司法的抑制を受けない行政権~を行使することができるようになっている。これは、私人間の人権侵害を理由に、公権力が広範囲に個人の権利・自由を制約することを可能とする法案である。行政権による人権侵害から個人の権利・自由をいかに守るかに腐心してきた歴史の教訓を省みない法案であると言わざるを得ない。
さらに人権侵害を理由とする《行政権》の介入は、民主政の基礎である自由な言論に対する萎縮効果をもたらすおそれが大きい。大手マスメディアの情報独占時代から個人が自由に情報をコミュニケートできる時代になり、これは民主政にとって好ましい変化にもかかわらず、これを圧殺する可能性のある法案を通すことは、民主政の充実に逆行するものである。
2.各論
(1)法の支配に反するのではないか
本法案は人権侵害一般を禁ずるものである。法務省人権擁護局長の説明によれば、人権の定義は憲法の通りであるという。そうであれば、本法案は憲法の人権規定を私人間に直接適用するに等しいものといってよい。ならば、憲法を私人間に直接適用する場合の問題点が多かれ少なかれ本法案にもあてはなることになるはずである。では、憲法を私人間に直接適用する場合の問題点とはどのようなものか。
それは主に以下の三点である。すなわち、第一に、市民社会の原則である私的自治が大幅に害されること。第二に、基本的人権が、本来主として「国家からの自由」という対国家的なものであったことは現代でもなお人権の本質的な指標であるのに、それを希薄化させること。第三に、人権と人権とがぶつかりあう場合直接適用を認めると、かえって国家権力の介入を是認する端緒を生じることである(芦部同109~110頁)。
本法案は、人権委員会という行政権が私人間の人権問題につき一方の側に立って直接介入することを正面から認めるものであるから、従来民法の不法行為等で規律されてきた私人間の人権侵害に対して国家が全面的に介入することになる。それは、結果として自由な社会の基礎である私的自治を大幅に害し、人権の対国家権という性格を希薄化し、個人の自由に関して大幅に国家(行政権)が介入する端緒になる可能性が高い。
本法案は、人権救済の名のもとに行政権が個人の権利・自由に介入する口実を与える点で、【法律からの人権保障】を目指す【法の支配】に反するのではないかとの疑問がある。個別具体的な人権間の調整を図る法案ならば検討の余地もあろうが、このような適用範囲の広い、言ってみれば安易な法案を認めることは、行政権による人権侵害という歴史の教訓に学ばないものであり、到底是認できるものではない。
(2)行政委員会の事務として適切か
行政権は内閣に属する(憲法65条)。しかし行政権の行う事務の中には高度の政治的中立性が要求されるものや、専門性・技術性の高いものがある。前者の例として「公務員の人事行政」、後者の例として「市場の公正を維持する行政」などを挙げることが出来る。このような事務を国会の多数派が組織する内閣が取り扱うと、事務の中立性が脅かされる。また、専門的・技術的判断について多数派に従うことは、喩えれば《天動説》にも等しい。そこで、多かれ少なかれ、多数派の支配する国会・内閣から独立して活動する行政機関をおくことが必要とされ、戦後の民主化の過程でアメリカの制度に倣って導入されたのが、独立行政委員会である(芦部同288頁)。
独立行政委員会の典型例としては公正取引委員会を挙げることができる。公正取引委員会にはその所掌事務につき規則制定権(準立法作用)、立ち入り調査等の強制権限、紛争を裁定する権限(審決=準司法作用)、委員には裁判官に準じる身分保障が与えられている(独占禁止法参照)。本法案の人権委員会も独立行政委員会として設置され、《人権擁護という事務》につき、およそ公正取引委員会と同様な権限が与えられる。
では、《人権擁護という事務》は行政委員会制度が予定している種類・性質の事務と言えるか。わたしは以下の点で疑問がある。すなわち、第一に法の支配の観点からの疑問、第二に委員会の中立性確保への疑問、第三に表現の自由への配慮が欠けていることへの疑問である。以下検討する。
(ア)法の支配の観点からの疑問
人権委員会の事務は行政の事務と言えるのか。確かに、人権については判断の中立性が要請されることは言うまでもない。しかし、行政委員会の事務といえるためにはそれが《行政の行うべき事務》であることが必要である。そして、前述の通り人権委員会の事務は私人間の人権侵害に対して、行政権がその一方に立って直接介入するものであり、憲法を私人間に直接適用するのと同様の結果をもたらすものであるから、前述のように法の支配の見地からは、それが《行政の行うべき事務》と言えるのかに、そもそもの疑問がある。
もっとも、人権侵害をされた社会的弱者の側に立って国家が介入するのは、弱者救済という福祉国家の理念に合致すると言う反論もありえる。しかし福祉国家の理念は、先ず第一に社会権の保障についての原則であって、それを自由権に及ぼすと、人権の名のもとに国家が個人の自由に干渉する端緒を与えることになるので、慎重に検討せねばならないはずである。然るに、今回の法案及びその審議過程において、慎重さのかけらもわたしは見出すことが出来ない。
(イ)人権委員会の中立性確保への疑問
民主主義的を原則とする社会にあっては、その例外である行政委員会の事務は制限的に考えられなければならない(例外の厳格解釈)。また、行政委員会が独善に陥らないよう、その公正を担保できないような事務については、そもそも行政委員会の事務とすべきではない。そうであれば、ある事務につき行政委員会を設置するには、当該事務につき相当程度、客観的で明確基準が社会的合意として存在する必要があるはずである。(国家公安委員会については国家存立の基礎に関わるので多少例外的取り扱いは可能と思われるが)。公正取引委員会や中央労働委員会の取り扱う事務については、そのような客観的基準が存在すると言ってよいだろう。
では、人権侵害にそのような客観的基準が存在するか。もちろん名誉毀損、プライバシー侵害などのようにある程度明確な人権侵害行為が存在することは言うまでもない。しかし、人権侵害の概念は曖昧で不明確な部分が多分に存在するがゆえ、裁判でも判断が分かれるのである。そのような不明確な概念を扱う人権委員会は独善に陥る危険が存在するが、その歯止めをどのように担保するのか。本法案の中にその担保らしきものをわたしは見出すことが出来ない。
(ウ)表現の自由に対する萎縮効果の危険はないか
従来の行政委員会の扱う事務は表現の自由に対する萎縮効果を直接もたらさないものであったが、人権委員会の事務は表現の自由に対する萎縮効果を直接もたらす点で、従来の行政委員会の事務と明らかに異質なものである。それにもかかわらず、本法案に個人の表現の自由に配慮する規定をわたしは見出すことができない。
(エ)小括
したがって、わたしは本法案に基づく人権委員会の事務は、中立性の担保もなく、表現の自由に対する萎縮効果をもたらすものであり、なおかつ法の支配に抵触するものであるから、行政委員会制度の予定する事務とは到底いえないものであり、行政委員会制度の趣旨を逸脱ないし悪用した疑いが強いものと考える。
(3)出頭命令、立ち入り検査等行政強制に関する問題点
本法案による人権委員会には人権侵害行為をした人に対して強制的な質問・調査権が与えられている。このような行政強制は、公正取引委員会等の行政委員会に広く認められ、その他には税務調査、食品衛生法等において認められている(行政強制という)。それぞれの行政事務の目的を達するために必要という点に理由がある。
この行政強制が憲法35条の令状主義にや38条の黙秘権(及び総則規定としての31条)に反しないかが問題となる。この点、最高裁判所は行政手続きが刑事手続きでないというだけで、それらの保障が及ばないとすることはできず、行政手続にも原則としてそれらの保障が及ぶことを認めたうえで、行政手続は多種多様である点を指摘し、必ずそれらの保障を与えなければならないものではないとしている(最高裁判所大法廷判決昭和47年11月22日=川崎民商事件、同平成4年7月1日=成田新法事件)。そして税務調査における行政強制については、刑事責任追及を目的としないこと、刑事責任追及のための資料の収集に直接的に結びつく作用を一般に有しないこと、強制の程度が低いこと、租税の公平な徴収という公益目的達成に不可欠との理由を挙げて合憲とした。
しかし、一般的な行政強制は表現の自由に対する萎縮効果をもたらすおそれが小さい点で、今回の人権擁護法案と比較するすることはそもそも適切ではない。また、成田新法事件では集会の自由という表現の自由が問題となってはいたが、集会は行動を伴うがゆえ純粋な言論とは別に公益的な規制に服することがあるのは当然である(例:道路使用許可における自治体の公安条例)。さらに成田新法で規制対象とされたのは一部の破壊活動を行い、または行うおそれの強い団体であって、純粋な言論と比較することがそもそも不適切な性質のものである。
したがって、わたしは本法案に基づく人権委員の質問・調査・公表権は、表現の自由に対する重大な萎縮効果をもたらすおそれがある点で、従来の行政強制と一線を画するものであり、憲法21条1項を侵害し、憲法31条、35条、38条に反する疑いが強いと考える。
3.現状認識
(1)マスメディアによる人権侵害
大手メディアによる報道被害について何等かの対策が必要なことは論を俟たない。また、インターネットによる被害についても同様である。しかし、マスメディアとインターネットについてはまず分けて考えるべきである。なぜなら、まず第一に、マスメディアとインターネットは現段階でその影響力に格段の差異があること、第二に、マスメディアは言論を生業とする組織であるのに対して、インターネットは主に日常生活を抱える個人によるものであることからすれば、両者には公権力の規制に対する耐性につき格段の差異が存在することが挙げられる。更に、マスメディアは憲法上の国民の知る権利を充たすために活動しているのだから、各種圧力に対抗することが憲法上も国民からも期待され、また対抗することがメディアの義務(職業倫理)でもある。これに対して、言論以外の日常生活を抱える個人に公権力の圧力に対抗する義務があるか。もちろん観念的にはあるのであるが実際上はないというべきである。しかし本法案は公権力である人権委員会に対抗する義務を個人に負わせている。これは間違いである。
まず現行法で出来ることと出来ないこととを明らかにすべきである。それが明らかにされていないのに新たな法整備をするというのは拙速である。
(2)インターネットによる人権侵害
民主政の基礎は情報を自由にコミュニケートするところにあるが、従来情報の送り手と受け手が分離しておりそれゆえ国民の表現の自由を国民の知る権利として再構成しその権利をマスメディアが担って活動していた。それは多数の国民が情報をコミュニケートすることが不可能だったからである。しかし、インターネットによりそれが可能になった。
もっとも、国民がインターネットという武器を手にして間がないため、その扱いに慣れていない者が多数おり、その武器を暴発させることが多々あることは否定できない。しかし、それでもインターネットが民主政を真に充実させる可能性をもつ道具であることに変わりはない。この新しい武器を国民が使いこなせるようになるのになるためには一定の時間が必要である。その間に試行錯誤が繰り返されるだろう。その間に人権侵害にあたる行為が多々行われることも容易に予想される。それらにつき何等かの手当てが必要なことも確かである。
しかしその際にも、自由な社会を標榜し、民主制の価値に重きをおく日本国においては、インターネットによって国民が情報を自由にコミュニケートすることに対して最大限の配慮を行わなければならないことは言うまでもない。
4.対案
以上の現状認識からわたしは以下の二点を対案とする。
(1)報道被害対策として【メディア条項】のみの法案を審議せよ
報道被害について何等かの対策が必要なことは言うまでもない。それに反対する人は少ないだろう。それならば【メディア条項】のみに絞ってまず議論するのが筋というものである。インターネット等による個人情報発信者をメインターゲットにする法整備は主客を転倒させたものと言わざるを得ない。
(2)個人による人権侵害に対しては【刑事法】として制定せよ
人格権侵害についてはこれまでの訴訟である程度内容が固まっているのだから、定義の曖昧な人権侵害で行政機関が取り締まるよりも、名誉毀損罪、侮辱罪とならぶ人格権侵害罪を新設すべきである。その方が真に被害を受けている個人を的確に救済できるはずである。
確かに刑事法として制定すれば、人権侵害を理由に表現者に対する逮捕・勾留などが行われることになり、人権擁護法案に比べると一見表現者に対する人権侵害の程度が高まるようにも考えられられる。しかし、刑事法として制定すれば、その解釈において厳格な制限を受け、またその運用においても令状主義をはじめとする刑事司法実務が積み上げてきた様々な規制を受けることとなり、令状主義による司法的抑制と相俟って、行政機関による恣意的運用の防止を期待出来る。
少なくとも得体の知れない人権委員会による規制よりも現時点では刑事司法による規制の方がまだわたしには信用できる。
5.おわりに
短文に終わらせる予定が、思わぬ長文になってしまいました。なるべくサヨクにも納得のいく法的観点から攻めようと考えたため、人権擁護委員に人権活動を行ってきた極めて偏向した非常識な団体から採用されかねない点については割愛しました。
本法案は、行政委員会制度の趣旨を逸脱し悪用するもので、さらに、刑事法の規制を逃れる為に行政罰を課すなど、ずる賢いことこの上ない法案です。
戦後猛威を振るっている《人権の神さま》を人権委員会が独占するかの如き法案です。《人権の神さま》を日本化し八百万の神の一員として位置づけようとする日本民族の努力に水を差す、文化的に見ても極めて質の悪い法案です。
法案を推進している連中はおよそ日本文化を継承する資格のない者に相違ありません。何たって、《人権の神さま》を聖書の唯一神のように押し頂き、魔女狩りの宗教裁判によって日本文化を瓦解させようと企んでいるのですから。
もし不幸にして本法案が通過した場合、我々も唯一神の論理に基づき、自然権としての抵抗権を行使しましょうと呼びかけて、この論考を閉じさせていただきます。
最後まで長文につきあっていただきありがとうございました。
この度の【人権擁護法案】についても対案ヲタが必ず現れるでしょう。いや、もう現れているかもしれません。そういうバカチンに対しては、いつものように答えてやってもいいのですが、今回は特別に不肖わたくしが【主権者】という立場をかなぐり捨て、対案を考えてやることにしました。何故か。それはこの法案が日本社会に一種の《革命》をもたらす法案だと気付いたからです。【自由民主主義】から【人民民主主義】への《革命》です。【人民民主主義】とはサヨク国家における民主主義で、早い話が《独裁》です。我々の代表者のはずの連中の一部が、少数の圧力団体とつるんで不埒にも《独裁》へ向けた《革命》を起こそうとしているのです。そして【人民民主主義】大好きの《アサヒ》や《革命ごっこ世代(©江藤淳)》がそれを陰に陽に後押ししているという構図です。恐ろしいことです。最早【自由民主主義国の主権者】として黙っているわけにはいきません。長文になりますが、よろしければお付き合いください。
※【人民民主主義】:公権力が何が民主主義であるかを決定する民主主義。共産主義国、社会主義国の民主主義がその例。
≪対案≫
1.総論
日本国憲法は【法の支配】を採用する。すなわち、【法律による人権侵害】からも個人の権利・自由を守るということである(芦部信喜「憲法」補訂新版13~15、102頁)。現代社会において私人間の人権侵害が大きな問題になっているにせよ、依然として人権に対する最大の脅威は公権力である。そして歴史的に人権侵害の主体は専らと言っていいほど《行政権》であった。
然るに、【人権擁護法案】によれば《行政機関》たる独立行政委員会(例:公正取引委員会、中央労働委員会)である《人権委員会》が、私人間の人権侵害につき、何が人権侵害であるかを決定し、個人に対して立ち入り調査などの公権力~しかも司法的抑制を受けない行政権~を行使することができるようになっている。これは、私人間の人権侵害を理由に、公権力が広範囲に個人の権利・自由を制約することを可能とする法案である。行政権による人権侵害から個人の権利・自由をいかに守るかに腐心してきた歴史の教訓を省みない法案であると言わざるを得ない。
さらに人権侵害を理由とする《行政権》の介入は、民主政の基礎である自由な言論に対する萎縮効果をもたらすおそれが大きい。大手マスメディアの情報独占時代から個人が自由に情報をコミュニケートできる時代になり、これは民主政にとって好ましい変化にもかかわらず、これを圧殺する可能性のある法案を通すことは、民主政の充実に逆行するものである。
2.各論
(1)法の支配に反するのではないか
本法案は人権侵害一般を禁ずるものである。法務省人権擁護局長の説明によれば、人権の定義は憲法の通りであるという。そうであれば、本法案は憲法の人権規定を私人間に直接適用するに等しいものといってよい。ならば、憲法を私人間に直接適用する場合の問題点が多かれ少なかれ本法案にもあてはなることになるはずである。では、憲法を私人間に直接適用する場合の問題点とはどのようなものか。
それは主に以下の三点である。すなわち、第一に、市民社会の原則である私的自治が大幅に害されること。第二に、基本的人権が、本来主として「国家からの自由」という対国家的なものであったことは現代でもなお人権の本質的な指標であるのに、それを希薄化させること。第三に、人権と人権とがぶつかりあう場合直接適用を認めると、かえって国家権力の介入を是認する端緒を生じることである(芦部同109~110頁)。
本法案は、人権委員会という行政権が私人間の人権問題につき一方の側に立って直接介入することを正面から認めるものであるから、従来民法の不法行為等で規律されてきた私人間の人権侵害に対して国家が全面的に介入することになる。それは、結果として自由な社会の基礎である私的自治を大幅に害し、人権の対国家権という性格を希薄化し、個人の自由に関して大幅に国家(行政権)が介入する端緒になる可能性が高い。
本法案は、人権救済の名のもとに行政権が個人の権利・自由に介入する口実を与える点で、【法律からの人権保障】を目指す【法の支配】に反するのではないかとの疑問がある。個別具体的な人権間の調整を図る法案ならば検討の余地もあろうが、このような適用範囲の広い、言ってみれば安易な法案を認めることは、行政権による人権侵害という歴史の教訓に学ばないものであり、到底是認できるものではない。
(2)行政委員会の事務として適切か
行政権は内閣に属する(憲法65条)。しかし行政権の行う事務の中には高度の政治的中立性が要求されるものや、専門性・技術性の高いものがある。前者の例として「公務員の人事行政」、後者の例として「市場の公正を維持する行政」などを挙げることが出来る。このような事務を国会の多数派が組織する内閣が取り扱うと、事務の中立性が脅かされる。また、専門的・技術的判断について多数派に従うことは、喩えれば《天動説》にも等しい。そこで、多かれ少なかれ、多数派の支配する国会・内閣から独立して活動する行政機関をおくことが必要とされ、戦後の民主化の過程でアメリカの制度に倣って導入されたのが、独立行政委員会である(芦部同288頁)。
独立行政委員会の典型例としては公正取引委員会を挙げることができる。公正取引委員会にはその所掌事務につき規則制定権(準立法作用)、立ち入り調査等の強制権限、紛争を裁定する権限(審決=準司法作用)、委員には裁判官に準じる身分保障が与えられている(独占禁止法参照)。本法案の人権委員会も独立行政委員会として設置され、《人権擁護という事務》につき、およそ公正取引委員会と同様な権限が与えられる。
では、《人権擁護という事務》は行政委員会制度が予定している種類・性質の事務と言えるか。わたしは以下の点で疑問がある。すなわち、第一に法の支配の観点からの疑問、第二に委員会の中立性確保への疑問、第三に表現の自由への配慮が欠けていることへの疑問である。以下検討する。
(ア)法の支配の観点からの疑問
人権委員会の事務は行政の事務と言えるのか。確かに、人権については判断の中立性が要請されることは言うまでもない。しかし、行政委員会の事務といえるためにはそれが《行政の行うべき事務》であることが必要である。そして、前述の通り人権委員会の事務は私人間の人権侵害に対して、行政権がその一方に立って直接介入するものであり、憲法を私人間に直接適用するのと同様の結果をもたらすものであるから、前述のように法の支配の見地からは、それが《行政の行うべき事務》と言えるのかに、そもそもの疑問がある。
もっとも、人権侵害をされた社会的弱者の側に立って国家が介入するのは、弱者救済という福祉国家の理念に合致すると言う反論もありえる。しかし福祉国家の理念は、先ず第一に社会権の保障についての原則であって、それを自由権に及ぼすと、人権の名のもとに国家が個人の自由に干渉する端緒を与えることになるので、慎重に検討せねばならないはずである。然るに、今回の法案及びその審議過程において、慎重さのかけらもわたしは見出すことが出来ない。
(イ)人権委員会の中立性確保への疑問
民主主義的を原則とする社会にあっては、その例外である行政委員会の事務は制限的に考えられなければならない(例外の厳格解釈)。また、行政委員会が独善に陥らないよう、その公正を担保できないような事務については、そもそも行政委員会の事務とすべきではない。そうであれば、ある事務につき行政委員会を設置するには、当該事務につき相当程度、客観的で明確基準が社会的合意として存在する必要があるはずである。(国家公安委員会については国家存立の基礎に関わるので多少例外的取り扱いは可能と思われるが)。公正取引委員会や中央労働委員会の取り扱う事務については、そのような客観的基準が存在すると言ってよいだろう。
では、人権侵害にそのような客観的基準が存在するか。もちろん名誉毀損、プライバシー侵害などのようにある程度明確な人権侵害行為が存在することは言うまでもない。しかし、人権侵害の概念は曖昧で不明確な部分が多分に存在するがゆえ、裁判でも判断が分かれるのである。そのような不明確な概念を扱う人権委員会は独善に陥る危険が存在するが、その歯止めをどのように担保するのか。本法案の中にその担保らしきものをわたしは見出すことが出来ない。
(ウ)表現の自由に対する萎縮効果の危険はないか
従来の行政委員会の扱う事務は表現の自由に対する萎縮効果を直接もたらさないものであったが、人権委員会の事務は表現の自由に対する萎縮効果を直接もたらす点で、従来の行政委員会の事務と明らかに異質なものである。それにもかかわらず、本法案に個人の表現の自由に配慮する規定をわたしは見出すことができない。
(エ)小括
したがって、わたしは本法案に基づく人権委員会の事務は、中立性の担保もなく、表現の自由に対する萎縮効果をもたらすものであり、なおかつ法の支配に抵触するものであるから、行政委員会制度の予定する事務とは到底いえないものであり、行政委員会制度の趣旨を逸脱ないし悪用した疑いが強いものと考える。
(3)出頭命令、立ち入り検査等行政強制に関する問題点
本法案による人権委員会には人権侵害行為をした人に対して強制的な質問・調査権が与えられている。このような行政強制は、公正取引委員会等の行政委員会に広く認められ、その他には税務調査、食品衛生法等において認められている(行政強制という)。それぞれの行政事務の目的を達するために必要という点に理由がある。
この行政強制が憲法35条の令状主義にや38条の黙秘権(及び総則規定としての31条)に反しないかが問題となる。この点、最高裁判所は行政手続きが刑事手続きでないというだけで、それらの保障が及ばないとすることはできず、行政手続にも原則としてそれらの保障が及ぶことを認めたうえで、行政手続は多種多様である点を指摘し、必ずそれらの保障を与えなければならないものではないとしている(最高裁判所大法廷判決昭和47年11月22日=川崎民商事件、同平成4年7月1日=成田新法事件)。そして税務調査における行政強制については、刑事責任追及を目的としないこと、刑事責任追及のための資料の収集に直接的に結びつく作用を一般に有しないこと、強制の程度が低いこと、租税の公平な徴収という公益目的達成に不可欠との理由を挙げて合憲とした。
しかし、一般的な行政強制は表現の自由に対する萎縮効果をもたらすおそれが小さい点で、今回の人権擁護法案と比較するすることはそもそも適切ではない。また、成田新法事件では集会の自由という表現の自由が問題となってはいたが、集会は行動を伴うがゆえ純粋な言論とは別に公益的な規制に服することがあるのは当然である(例:道路使用許可における自治体の公安条例)。さらに成田新法で規制対象とされたのは一部の破壊活動を行い、または行うおそれの強い団体であって、純粋な言論と比較することがそもそも不適切な性質のものである。
したがって、わたしは本法案に基づく人権委員の質問・調査・公表権は、表現の自由に対する重大な萎縮効果をもたらすおそれがある点で、従来の行政強制と一線を画するものであり、憲法21条1項を侵害し、憲法31条、35条、38条に反する疑いが強いと考える。
3.現状認識
(1)マスメディアによる人権侵害
大手メディアによる報道被害について何等かの対策が必要なことは論を俟たない。また、インターネットによる被害についても同様である。しかし、マスメディアとインターネットについてはまず分けて考えるべきである。なぜなら、まず第一に、マスメディアとインターネットは現段階でその影響力に格段の差異があること、第二に、マスメディアは言論を生業とする組織であるのに対して、インターネットは主に日常生活を抱える個人によるものであることからすれば、両者には公権力の規制に対する耐性につき格段の差異が存在することが挙げられる。更に、マスメディアは憲法上の国民の知る権利を充たすために活動しているのだから、各種圧力に対抗することが憲法上も国民からも期待され、また対抗することがメディアの義務(職業倫理)でもある。これに対して、言論以外の日常生活を抱える個人に公権力の圧力に対抗する義務があるか。もちろん観念的にはあるのであるが実際上はないというべきである。しかし本法案は公権力である人権委員会に対抗する義務を個人に負わせている。これは間違いである。
まず現行法で出来ることと出来ないこととを明らかにすべきである。それが明らかにされていないのに新たな法整備をするというのは拙速である。
(2)インターネットによる人権侵害
民主政の基礎は情報を自由にコミュニケートするところにあるが、従来情報の送り手と受け手が分離しておりそれゆえ国民の表現の自由を国民の知る権利として再構成しその権利をマスメディアが担って活動していた。それは多数の国民が情報をコミュニケートすることが不可能だったからである。しかし、インターネットによりそれが可能になった。
もっとも、国民がインターネットという武器を手にして間がないため、その扱いに慣れていない者が多数おり、その武器を暴発させることが多々あることは否定できない。しかし、それでもインターネットが民主政を真に充実させる可能性をもつ道具であることに変わりはない。この新しい武器を国民が使いこなせるようになるのになるためには一定の時間が必要である。その間に試行錯誤が繰り返されるだろう。その間に人権侵害にあたる行為が多々行われることも容易に予想される。それらにつき何等かの手当てが必要なことも確かである。
しかしその際にも、自由な社会を標榜し、民主制の価値に重きをおく日本国においては、インターネットによって国民が情報を自由にコミュニケートすることに対して最大限の配慮を行わなければならないことは言うまでもない。
4.対案
以上の現状認識からわたしは以下の二点を対案とする。
(1)報道被害対策として【メディア条項】のみの法案を審議せよ
報道被害について何等かの対策が必要なことは言うまでもない。それに反対する人は少ないだろう。それならば【メディア条項】のみに絞ってまず議論するのが筋というものである。インターネット等による個人情報発信者をメインターゲットにする法整備は主客を転倒させたものと言わざるを得ない。
(2)個人による人権侵害に対しては【刑事法】として制定せよ
人格権侵害についてはこれまでの訴訟である程度内容が固まっているのだから、定義の曖昧な人権侵害で行政機関が取り締まるよりも、名誉毀損罪、侮辱罪とならぶ人格権侵害罪を新設すべきである。その方が真に被害を受けている個人を的確に救済できるはずである。
確かに刑事法として制定すれば、人権侵害を理由に表現者に対する逮捕・勾留などが行われることになり、人権擁護法案に比べると一見表現者に対する人権侵害の程度が高まるようにも考えられられる。しかし、刑事法として制定すれば、その解釈において厳格な制限を受け、またその運用においても令状主義をはじめとする刑事司法実務が積み上げてきた様々な規制を受けることとなり、令状主義による司法的抑制と相俟って、行政機関による恣意的運用の防止を期待出来る。
少なくとも得体の知れない人権委員会による規制よりも現時点では刑事司法による規制の方がまだわたしには信用できる。
5.おわりに
短文に終わらせる予定が、思わぬ長文になってしまいました。なるべくサヨクにも納得のいく法的観点から攻めようと考えたため、人権擁護委員に人権活動を行ってきた極めて偏向した非常識な団体から採用されかねない点については割愛しました。
本法案は、行政委員会制度の趣旨を逸脱し悪用するもので、さらに、刑事法の規制を逃れる為に行政罰を課すなど、ずる賢いことこの上ない法案です。
戦後猛威を振るっている《人権の神さま》を人権委員会が独占するかの如き法案です。《人権の神さま》を日本化し八百万の神の一員として位置づけようとする日本民族の努力に水を差す、文化的に見ても極めて質の悪い法案です。
法案を推進している連中はおよそ日本文化を継承する資格のない者に相違ありません。何たって、《人権の神さま》を聖書の唯一神のように押し頂き、魔女狩りの宗教裁判によって日本文化を瓦解させようと企んでいるのですから。
もし不幸にして本法案が通過した場合、我々も唯一神の論理に基づき、自然権としての抵抗権を行使しましょうと呼びかけて、この論考を閉じさせていただきます。
最後まで長文につきあっていただきありがとうございました。
障碍にもいろいろあるんで、その状況に応じて、きちんと社会参加できる人にしてもらうための地盤が必要なんですが、とにかくこの『人権擁護法案』というのは、「差別利権」の既得権益を守るためだけにあるようなものだと思います。五体満足な人間が…!と怒る人だっていると思います。
精神医療が必要な人には適切な治療を受けてもらう必要がありますから、安易に給付を引き下げることには疑問がありますね。
財源の捻出は生活保護の認定を厳格にするだけでも、相当できそうな気がします。あ、生活保護所帯の一定部分は圧力団体系ですよね。
生活保護認定に関しては大阪にいる知り合いの医者がいつも怒りまくっています。働かざるもの食うべからずという道徳律はどうなっているんでしょうかね。
これはおれでしょうか...orz
朝日新聞の社説にかなり影響されてた模様です。
反省。。。
これからも何かと参考にさせてもらいます。