デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



もう今年も後三週間弱という時になって、たぶん今年読んだ小説の中で一番であろう作品を読了した。辻邦生の歴史小説『背教者ユリアヌス』(辻邦生全集4(新潮社))である。

コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認してからというもの、ローマ帝国の政治や宮廷に「神の御意志」を印籠にして私腹を肥やしキリスト教に批判的な者を権謀術数を用い排斥する「病」が蔓延した。そういった独善的な帝国の弊害に立ち向かったのが反キリスト教的な政策を行ったユリアヌスであった。作品はそんなユリアヌスの生い立ちから、副帝としてガリアを平定しルテティア(パリ)で皇帝に推挙され帝国の病をなんとかするために改革を行うも志半ばで倒れるまでを描く。
作品に出てくるローマ帝国の政治力を利用してキリスト教を磐石なものにしたい宦官たちや司教たちにも、唯一神を崇める者同士ですら対立し殺し合いにまで発展してしまっている矛盾を正視できず、「神のため」にやっていることを俯瞰することができなかったのは本当に痛々しい。
しかし、このようなことは現代のどのような国であっても少なからず起こっていることである。作品で描かれているテーマは常に現代性をもつものだし、「すべては神の意志」として、自分でもの考えることを放棄させるような形で宗教に没入した人間が、排他的なまでの純粋さをもってして熱狂し集団的な行動をとり、知識を無視する傾向があることを、ローマ古来の多神教と新興し勢いを増してきたキリスト教とが対峙する姿を通して考えさせてくれるところは本当に秀逸だ。
一神教が支配の方法として有効な手だてになることに政治に関わる人々が気づいてからというもの、作品に出てくる宦官たちや司教たちは権力や権威を笠に着れる状態が手放せなくなったのではないか。私などは権力や権威を追い求めた時点でその宗教は開祖を裏切っているとすぐに考えたがるロマンチストなのだが、自分たちの信仰する宗教ですら内部抗争の矛盾が噴出している現実があるなら、せめて現実的な寛容精神で共存しようともちかけたユリアヌスはやっぱり時代に先んじた慧眼をもっていたんだろうと思う。突飛なことを書くようだが、ルテティア(パリ)で皇帝に推挙されたユリアヌスの哲学や考えは、1400年の時を経たのちパリでヴォルテールがある程度かたちにし啓蒙されるものかもしれない。しかしユリアヌスのことが背教者(アポスタタ)という蔑称がもたらす先入観を除かれた形で再検討されるのには、なお300年の時が必要なのであった。

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