ミラーノのベルジョイオーゾ広場にあったマンゾーニの家
(現在も市内の Via Morone 1 にある)
カポーティの『冷血』を読んだ後しばらくして、スタンダールの『赤と黒』を読み始めたのだが、最初こそ飛ぶように読めたものの、8章あたりでなぜか読む気が失せてしまった。
そんなときに図書館でふと目に飛び込んできたのが1785年生まれのイタリアの作家アレッサンドロ・マンゾーニの『いいなづけ』(1827年発表)という作品だった。書棚の前にたたずみながら、このブログを開設する前につくっていた小説の感想を書くHP(今はない)をやっていた頃の掲示板にて、人様が『いいなづけ』は小説の王道であるみたいなことを書いておられたことを思い出した。それが今回の読書のきっかけである。
ところで、マンゾーニって誰だ?というのが、多くの方にとって正直なところだと思う。それにイタリアの作家といえばダンテだろうと言う方もおられるだろうが、A・マンゾーニは後にも先にもこの『いいなづけ』という作品でもって、イタリアの国民作家としての地位を築いた人である。
ではなぜにマンゾーニがイタリアの国民作家なのかといえば、その理由は『いいなづけ』を通せばなんとなく分かる気がした。
作品で取り扱っている時代は1620年代末から1630年代頭の北イタリアで、当時のイタリアはスペインの支配下にあった。物語は田舎で幅をきかす闘士(地方の政治家に影響力を及ぼす、マフィアややくざの類)のロドリーゴが、結婚する直前の若い村娘ルチーアを、我が物に出来るかできないかという気まぐれな賭けをしたことがきっかけで始まる。賭けは熱を帯び、ロドリーゴの子分たちがルチーアの挙式を取り仕切る予定のアンボッディオ司祭を脅し、怯えきった司祭はいろいろと屁理屈や無理やり捻り出したような難癖をつけて、挙式を執り行わないようにする。ルチーアのいいなづけであるレンツォは、司祭が式を執り行わない理由を知り、黙っちゃおられないと行動を起こす。しかし運命はルチーアとレンツォに対し…という感じだ。
この作品は勧善懲悪の内容が講談調といっていいような文体で書かれているのだが、内容的にもこれほど小説らしい小説はない、これほど物語らしい物語はない、これほど詳細なイタリアの歴史らしい歴史はない、ともいえるぐらいの作品である。こんなことを書くと没個性な中性的な作品なのかと思われるかもしれないが、決してそうではない。また作者本人が特定の登場人物に肩入れしていないゆえ、毒とも薬ともなるような作品の旨味成分がないかといえば、人物の性格や心理の動きや行動がどのような因果を及ぼすのか、読者にすべて分かるように書いてあるのに驚くことだろう。登場人物たちは己の利害でもって考え行動しているし、毎度おなじみの表現だが、登場人物たちのほとんどが「そこら辺にいそう」な人たちばかりなのである。
勧善懲悪の最たる場面で登場するフェデリーゴ枢機卿やレンツォを諌めるクリストフォーロ神父の言葉を持ってしても、主な登場人物たちの精神的な成長はほんの少ししか促進されない。それも都市全体が悲惨な状態に陥っているミラーノにおいて、ようやく起こった精神の成長とさえいえるほど、登場人物の性格変化は緩慢なのだ。それこそ人間の本質を穿ったリアリスティックな描写といえるのではないか。
作品は歴史小説でもある。マントヴァ領継承戦役や、ミラーノで起こったパン屋への暴動、ペストが猛威を振るった都市の様子が克明に描かれている。もし『いいなづけ』を読もうと思っておられる方がいたら、作者の歴史への考察を飛ばさないで読んで欲しいと思う。古今東西、人間は昔から大して進歩していないことを痛感させる小説やレポは少なくないが、『いいなづけ』はそのなかでも秀逸な作品の一つだろう。
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