デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



シャルル・フーリエの墓(モンマルトル墓地)

フーリエは搾取の概念を知らない。   [W14a,6]

一六世紀の数字はすべて紫の衣〔僧衣〕を引きずっている。一九世紀の数字がどんな相貌を有しているかが、いまようやく明らかになるようだ。とりわけ、建築物の日付けと社会主義の日付けから。    [S1a,7]

パリのパサージュで私が訪れたところは紹介し終えた。あと、私のパサージュ訪問についての、さらに冗長たる補遺(その多くが『パサージュ論』に関わる画像の紹介である)にお付き合いくださる方はお付き合いください。

補遺の最初の画像はフーリエの墓の画像である。墓のあるモンマルトル墓地に行ったときは雨がきつく降っていて、詣でたかった人物の墓の五分の一も見つけられたなかった、つまりは途中で心が折れたことを思い出す。雨は旅行者の心をくじく(笑)。しかし、フーリエの墓はどうしても見つけたかった墓の一つであった。

こちらで触れていた自分なりのフランス旅行のテーマの一つに、パサージュ建設繚乱期にロシアで生まれたドストエフスキー(1821年生まれ)が、1862年に西欧諸国を旅行した際に覚え文章に残した印象とパサージュとの関連性、まぁ単にドストエフスキーがパサージュを見ていたとしたらどう思っていたろうという考察があった。ほかに、

「科学と哲学の間を友好的に歩むことを拒絶する文学はすべて殺人と自殺の文学であることが理解されるであろう時は遠くない。」ボードレール『ロマン派芸術』パリ、三〇九ページ(「異教派」の結論)   [J4,6]

この見解にドストエフスキーはどう答えるのだろうか?とか(笑)。

しかし今となっては「それはそれ、これはこれ」と区別し、無理にパサージュと関連づけることもないし、どちらかというとドストエフスキーの理想とフーリエの考え方の違いの方に関心を強くしているように思う。
さて、

 フーリエは、パサージュのなかに協働生活体(ファランステール)の建築上のカノンを認めた。それは彼のユートピアの「帝政時代(アンピール)」的性格を際立たせるもので、彼自身もそれを素直に認めている。「協働状態は、そもそもの初めから、久しい間遠ざけられていただけに一層輝かしいものになるだろう。ソロンとペリクレスの時代のギリシアはすでにそれを企てることができた。」もともと商業的に役立たせられたパサージュは、フーリエにあっては居住用建物になる。協働生活体(ファランステール)はパサージュからできた都市である。
  パリ――一九世紀の首都〔フランス語草稿〕
   ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

パリを訪れたドストエフスキーの目には、(彼が見ていたとするならば)パサージュは彼の表現するところの「蟻塚」の原型を見たかもしれないと思う。なぜなら彼はロンドンで万国博覧会の「水晶宮」を見ていたからである。
そして、勝手な想像もはなはだしいが、私は意外とドストエフスキーは、ユートピア社会主義がもたらす労働体系や「性悪説に立った上での道徳をあえて必要としない精神」が、実は物質主義の基本をなす商業資本主義の労働体系や精神の型になっているということ、ユートピア社会主義が資本主義成立に大いに貢献していることに感づいていたのではないかと思っている。たとえば、協働生活体(ファランステール)が欲望を肯定し、労働を苦痛と感じないシステムになっていること、サン・シモン主義の教会は産業者による産業者のための社会を築くというスローガンのもと、皆が負担と利益を分かちもつ「株式会社」の形態をもつことなどなど…。
そして「蟻塚」の原型に加え、作家がパリにてブルジョワや社会主義的な活動をする人々の「実は自己の利益しか追求していないバラバラの行動」を見た限りにおいては、自分たちの主義を実行に移した途端(社会が)おかしくなっていったのを観察できたのではないか。ドストエフスキーはかつてフーリエやサン・シモンらのユートピア社会主義にのめり込み、なんだかんだ言ってその理想の一部は創作に生かし続けたと思っているが、ドストエフスキーのそれは社会を構成する個々人の心的な積極性を前提にし、またそれに依存しなければならないものだった。それで作家は独自の夢を後期作品で、ユートピア社会主義を反面教師にした夢想という形で表現することになる。

ところで、フーリエは、ドストエフスキーより前の時代に生きた人であり、フランス人であり、フーリエの思想にはそれが生まれてくる事情があったのは、いわずもがなである。大体、フランスとロシアとでは革命が起こる時期自体が120年近く離れている。そのことを念頭に置くことなく冒頭の断片を読んだだけならば、フーリエについて如何様にも捉えることができるが、フーリエの立場からすれば彼はそれなりにひどい目に遭っており、労働が機械の役割をもってなお労働を苦痛と感じない協働体を完成しそこにおいては搾取という概念が無縁である夢を実現させることこそが生きる力となったように思う。
しかし、搾取という概念がある以上、さらにそれに付随するブルジョワとプロレタリアートとの階級闘争が起こった以上、フーリエの協働体は急速に発展し急速に衰える集団の夢だったのだと、ベンヤミンはいいたかったのかもしれない。

成夏のごとき一九世紀中葉においてのみ、またその太陽の光に照らされてはじめて、フーリエの空想が現実化された姿を想像することができる。   [W10a,4]

ドストエフスキーがパリにいた頃はパサージュが衰退し始めるがまだ夢からは覚めていない頃だった。事物や過去の形象が現代の生活の形象とぶつかり合い、目覚めた立場で西欧文明を語るにはまだしばらくの時を要したのだ、目ざめつつあるとはいえドストエフスキーも西欧を旅した19世紀人の一旅人であった。

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